1967年

67年に入学した。
地方出の私には、東京の生活はなかなか馴染めなかった。
まず言葉だ、標準語(私は標準とは思わないが)と呼ばれる東京言葉がうまく話せない。
イントネーションが違うのだ。
回りに溶け込む第一の障害だった。
2年次からお茶の水に移るのでサークルには入らなかった。

1年次教養課程は文理学部キャンパスで履修した。
驚いたのは、体育会系とみられる学生が大学正門にたち、入ってくる学生をチェックしているのだ。
まさか服装チェックではないだろうが、とにかく4〜5名で厳しい視線だった。
文系の授業は、文理学部の学生と一緒だった。
最初のうちは、皆それなりに真面目に出席するらしく「教室からあふれ出た」。
聞きしに勝る「マンモス大学」だった。
でも直に教室は空いてきた。


下宿は、未だ畑が至る所に残り、ひばりが鳴いている世田谷の桜上水で3畳間、当時は珍しくなかった。
駅は桜上水より小田急の経堂のほうが近く、食事も経堂の商店街へ通った。
持って行った電化製品は、電気ポットとドライヤー、テープレコーダーにトランジスタラジオで、これで全てだった。
下宿代は3千円、一畳千円の相場だった。
仕送りは1万5千円、下宿代を引くと1万2千円が1月の生活費になった。
当時の大卒初任給が2万円前後なので、今の物価に直すと15万円ほどの仕送りだったと換算できる。
下宿代3千円は、大家さんの小学生の家庭教師を夏から始め、相殺して貰った。

一人でさみしく、よく同窓生のところへ出掛けた。
上智大に進学した友人に、四谷のキャンパスを案内してもらった。
素晴らしいキャンパスだった事を憶えている。
この年には「羽田闘争」「佐世保エンプラ入港阻止闘争」などがあったらしいが、全く興味はなかった。
夏帰省したとき、親にせがんで小型テレビを買ってもらった。
これで寂しい下宿生活も少しはまぎれた。

少しさびしいが全く平穏な1年次だった。

 

  
1967年 奥多摩湖
着ているジャケットは御茶ノ水主婦の
友会館で買ったVANジャケット。
1900円だった。
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