11月22日

確かこの日だったと思う、日大・東大闘争勝利・全国学生総決起大会が開かれたのは。
集会名もうら憶えだが。
会場は本郷の東大・安田講堂前だった。
東大は御茶ノ水の聖橋を渡り、湯島天神を通り過ぎ少し歩くとすぐのところにある「通り続きの近くの大学」だった。
距離は近くても、私(達)には縁のないはるか遠い大学だった。
当然、私は近寄ったことも無かった。

集会は午後からで、私たちは駿河台を出て本郷に向かおうとした。
レポ隊から連絡が入り、神田川を越えたところで(確か医大があったと思うが)、機動隊の大規模な阻止線があり進めないということだった。
私たちは駿河台に待機した。
2〜3時間だったろうか、機動隊は引かず状況は膠着状態、季節柄周りは薄暗くなってきた。
この日のために、本郷には全国から戦う仲間が連帯を求め、集まって来てきてくれていた。
全共闘は決断した。
阻止線突破だ、本郷を目指せ。

部隊は御茶ノ水橋のほうからから神田川を越えた、はるか向こうの医大の方に防石ネットとジュラルミン楯が見えた。
角材と石を両手に持っていた。
先頭の部隊が激しい投石を仕掛けた。
少し進むと道路には石が転び、道路脇に自動車がひっくり返っていた。
後で聞いたのだが、本郷に結集していた他の大学の全共闘が日大を迎えるために打って出てきてくれていたのだ。
私たちは機動隊を退けながら進んだ。
周りはすっかり暗くなっていた。
赤門を通り過ぎ、安田講堂に続く門についた。
私達は「かっこをつける」ため門に入ったところで部隊を整えた憶えがある。
部隊は腰を低く構え、安田講堂に向かって進んだ。
薄暗い向こうに集会が見えてきた。
安田講堂前は様々なヘルメットで埋め尽くされていた。
ヘルメットはセクトの物が多かった様に思う。
セクトのヘルメットの後ろや脇に、色んな大学名が書かれていた。
地方の大学名も多くあった。
近づいたが講堂前は集会参加者で一杯で、私たちの入る隙間はないようだった。

そのときだ、集会の中央部分が幕を引くように空いた。
沢山の拍手が沸き、角材を地面打ちつけ鳴らす音が響きわたった。
歓迎されているのだ、そう感じた。
全国の仲間に、ポン大生ではなく「日大生」として認めてもらえたのだ。
感激で鳥肌がたった。

集会の内容は全く憶えていない。

 

70年安保

70年安保粉砕全国集会で、会場は代々木公園か日比谷公園だったか、よく憶えていない。
メジャーな集会なので調べればすぐ分かるが。
私たち全共闘も参加した。
この集会は学生の主催ではなく、労働組合や共産党を除く革新団体で、社会党や反戦青年委員会も参加していた。
「樺美智子」さんの追悼集会でもあった。
私達は最前列に陣取り、革新団体の演説をヤジり飛ばしたことを憶えている。
社会党委員長は佐々木さんだったか成田さんだったかどうか(間違っているかな)。
集会後デモ行進に移った。

このデモは私が参加した最高のデモだった。
最前列には樺美智子さんの写真が掲げられた。
私はデモの最前列にいた。
デモは100人が横に並ぶ100人隊列が組まれた。
圧巻だった。

デモは普通5人が横に並びスクラムを組む(組まない場合もあるが)隊列で行い、全学連や市民団体の規模は大体これくらいだった。
日大は参加者が多く、ヘルメットだけのデモは10列隊列を組むことが多かったし、規模が大きいと「一般学生」も安心して参加してくれた。
ちなみにゲバルト部隊は角材などを持つため殆ど5列隊列で行った
何回か白山通りで50列の隊列を組んだことがあるが、この規模だと殆ど道路を埋め尽くしてしまう。
50列デモが出来たのは日大だけではなかったと思う。

100人隊列のスクラムは最初で最後だった。
日比谷通り(だったと思う)は、端から端までデモ隊で埋まった。
規制の機動隊はもとより制服の警官の姿も一人として見えなかった。
通りが変わると途中から一時フランスデモに変わった。
フランスデモはスクラムを組まずに手をつなぎ合い、道路一杯に広がって行うデモだ。
隣の人や前後の人の顔が良く見える。
この様子は色んな報道写真にあるので是非見て欲しい。
私と仲間は変わり番こに肩車をして後ろを見渡した。
見渡すがぎり車道も歩道も、目の届くところは全て人で埋め尽くされていた。

私達は赤坂見附で国会議事堂に向かおうとした。
国会議事堂に向かう道路は、機動隊や装甲車で埋め尽くされており、近付く術はなかった。
進むうちに、私たちや全学連がいるデモ隊は、後ろにつづく労働者や市民団体のデモ隊とは巧みに分離され激しい規制をうけた。
労働者や市民団体が見えなくなると、両側からジュラルミンの楯で激しく叩かれ、引き剥がされていくのだ。
私の周りでも引き剥がされ、数名が私服警官に持っていかれた。
夜もかなり更けて解散地(何処だったか忘れた)についた、このときも私は大丈夫だった。
その時は分からなかったが、明朝の新聞に「安保集会に5万人のデモ」と報じられており、デモの先頭が解散地についても、なお集会の公園からは最後尾が出発できなかったという事だ。



1970.6・15 ジグザクデモをする学生部隊

 

70年花見

70年の春だったと思う。
下宿を追い出された、仲間が連日泊まり深夜まで騒いだのだ。
これで4回目の引越しだった。
引越しのためカローラをレンタカーで借り、仲間が手伝いに来てくれた。
引越しが済むと、仲間はそのまま伊東まで花見に行くと言いだした。
私は気が進まず、仲間にキーを貸した。
彼らは私の免許証で借りた車で、意気揚々と花見に出かけた。

それだけの事だが、彼らは途中検問で悪態をつき検問を「突破した」そうだ。
それからだ、私の研究室や実家、兄の勤め先、はてや兄の住まいまで(公安)刑事が
調べに来た。
兄には「お前一体何をやっているんだ」と言われた。
私はその時は別に何もしていなかった。
教授は刑事に「彼は今は何もしていません」と応えたそうだ。

この「今は」が良くなかったと今でも思っている。
私はよく赤ヘルを被っていた、赤ヘルが好きだから被っていただけだ。
この赤ヘルは今でも持っている。
私は逮捕歴もある、赤軍派の活動家と間違われてしまった。
約1ケ月、喫茶店へ行っても、銭湯へ行っても、何処へいってもっ(公安)刑事らしき見張りに付きまとわれた。
これにはかなり消耗し、仲間を恨んだ。
卒業し帰省しても、地元警察署の「家庭訪問」が一時続いた。


Yくん

 


ココアのひと匙

われは知る、テロリストの
かなしき心を
言葉とおこなひとを分かちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らんとする心を、
われとわがからだを敵に投げつくる心を
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。

はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜りて、
そのうすにがき舌触りに、
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。


 


クラス幹事だったYくんは、啄木の詩を好んで口にした。
少し格好を付け”きざみタバコ”のパイプを燻らしながら、目を赤くして詠んでいだ。
実家が都下の大きな農家の次男坊だった。
家には自家用車が数台あり、広大な農地を所有する農家だった。

クラス幹事という責任感もあり、バリケードには頻繁に泊り込んでいた。
だが、その事で家では親と衝突の連続だったようだ。
家出同然で、私のアポート近くの阿佐ヶ谷南へ出てきた。
その頃、私は阿佐ヶ谷北にすんでいた。

家出同然なので当然家賃も出してもらえない。
金無し生活の極限を極めていた。
アパートにはフトン一組だけの何もない生活をしていた。
深夜1・2時に、我がアパートへ訪れるのだ。
汚いコートのポケットにはいつも啄木の詩集を持っていた。

私もなけなしの金をはたいて駅前の喫茶店にいくのだ。
阿佐ヶ谷駅前では深夜喫茶が結構営業していた。
その中で、地下に降りていくと5〜6席しかないJAZZのかかる飲み屋があり、「吐夢」という名で時折行った。
ウイスキー一杯で粘るのだ。
この店で聴いたビリーボリデーの歌「ストレンジ・フルーツ」は、心に沁みた。
あたりが白けたころにアパートに戻る。
そんな、彼との阿佐ヶ谷の夜の徘徊を憶えている。

彼は全共闘であるが、決して左翼的ではなかった。
どちらかと言えば右翼的な感性ではなかったかと思う。
次の詩も好んでよく口にしていた。
パイプを燻らす彼は、心優しい愛すべき友だった。

 


はてしなき議論の後--石川啄木

われらの且つ読み、且つ議論を闘わすこと、
しかしてわれらの眼の輝けること、
五十年前の露西亜の青年に劣らず。
われらは何を為すべきかを議論す。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
’V NAROD!’と叫び出づるものなし。

われらはわれらの求むるものの何なるかを知る、
また、民衆の求むるものの何なるかを知る、
しかして、我等の何を為すべきかを知る。
実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
’V NAROD!’と叫び出づるものなし。

此処にあつまれる者は皆青年なり、
常に世に新しきものを作り出だす青年なり。
われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂に勝つべきを知る。
見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しさを。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
’V NAROD!’と叫び出づるものなし。


 

彼のバイブルはキャピタル(資本論)でも、レーニンでもなかった。

卒業

卒業出来なかった、留年だった。
必須単位を落としていた。
時は猛烈な高度成長経済時代、就職先は贅沢を言わなければそれなりにあった。
地方都市の、とあるメーカーに内定していた。
出社せよ、という催促が何度もきた。

残したのは必須1科目だけ、3月から殆ど授業に出ずバイトに励んだ。
授業料を稼ぐためだ。
期日までに半期の授業料を納めないと除籍になるのだ。
必死だった、親の手前も何としても卒業したかった。
夜と昼の掛け持ちでバイトをした。

5月の連休明け、研究室の教授から出てこいと電話が入った。
教授のところへ行くと、残した科目の教授の所へ行け、と言われた。
行けば「単位をくれる」ということだった。
その教授の部屋に出向いた、確か4号館か5号館だったと思う。
座ると教授は私に教科書を渡し、ページを開くように命じた。
幾つかの質問があった。
質問の解答は、全て指示されたページにあった。
それで終わりだった、屈辱だった。

学科によって対応は極端に違っていた。
学部教授会は学科毎に「日大出身の教授閥」と「定年退官で雇われた国公立出の教授閥」に分かれていた。
前者が力を持つ教授会の学科は、徹底して卒業させてもらえなかった。
私の仲間も授業料未納で「除籍」になった。
私は後者の学科だった。
みな”のし”を付けて出してしまえ、が科の方針だったのではと思う。

1週間程して卒業証書が郵送されてきた。
放り出された。


Sくん

71年2月、留年が決まった。
内心かなりあせっていた。
仲間は殆ど卒業がきまっていた、残された思いが強かった。

親には電話で知らせた、父親は「そうか」と一言いっただけだった。
親に、次の「授業料を出してください」とは言えなかった。
アルバイトで稼いで、自分で出す決心をした。
当時、赤坂の化粧品会社でアルバイトをしていた。
日給1700円で、週6日働くと週給で1万200円貰えた。

半期の授業料を5月ごろまでに納付しないと除籍になる。
半期授業料は10万円程だったと思う。
このアルバイトだけでは足らなくて、夜3時間で時給270円のビル清掃のアルバイトも加えた。
当時の時給で270円は相場以上だったが、高所での危険な窓拭き作業も組まれていた。

3月に入って、仲間がお別れの会をすると連絡してきた。
卒業して東京を離れる仲間も少なからずいた。
その会に出なかった。
気持ちに余裕をなくしており出れなかった。
自分のことしか考えれなくなっていた。

数日後、仲の良いSに呼び出された。
何故出てこなかったのか、と詰られた。
確か「そんな余裕はない」と言い返したと思う。
Sに胸倉を捕まれぶん殴られた。
それ以上何も言い返せなかった。

Sくんとはバリケードで知り合った。
出身は違うが、私と同じ地方出でも、臆することなく地元言葉で堂々と喋っており、存在感があり頼もしかった。
彼は、実験用白衣にヘルメットを被りデモに出てくるのだ。
これが何というか迫力があった。
硫酸や薬品で汚れ、穴が開いた白衣だが、彼のトレードマークになっており、まさに理工学部の学生だった。
下宿も近く、お金が無くなるとインスタントラーメン一個に"もやし"を沢山いれ、二人で分け合って食べてしのいだ。

Sくんとは長い付き合いをしている。
お互い遠く離れているが、小学生の子どもを連れて家族4人で我が家に遊びに来てくれた事もある。
2000年には、仕事のついでに東京で落ち合い、二人で信州を旅した。
おじさん二人の"信州センチメンタルジャーニー"だ。
浅間山の山荘でゆっくり温泉につかり、近況を話し合った。

今でも本気でぶん殴ってくれたSくんに感謝している。

2000年6月浅間山の夕焼け浅間山に咲く山ツツジ
トップページに戻る次のページへ