マドンナ

仲間には筋金入りの女性闘士も居たが、理工学部ということもあり、泊り込みやヘルメットでデモに参加する女性はさすがに多くなかった。
その中でも**科には女性が多く、バリケードにもよく出て来ていた。(他学部スナップ「日大闘争」より
デモにも必ず傍を着いて来るシンパも少なからずいた。
その中には私が気になる女性もいた。
美人ではないが、目の透きとおった知的な女性だった(と私は思っている)。

昼間は皆でバリケード近くの喫茶店によく出かけた。
彼女の実家は信州の病院という事で、親元を離れているせいもあり比較的自由に、自分の気持ちで行動が出来たのだろう。
その他の女性も、付き合っているとさすが日大(?)、皆裕福な家庭であることが知れた。
こんな事が無ければ、私には付き合うことの無い「お金持ちのお嬢さん」達だった。

闘争委員会は男の多い集団、喫茶店に行くと平気で「好き!彼女になってくれ」とストレートに言う奴が結構いた。
バリケード空間は何故か気持ちに素直になれる所、私も皆に負けずとアッタクしたのだが・・・・。
当の彼女は全く意に介せず、いつもクスクス笑っているだけ。

何時の事だったか前後関係は忘れたが、御茶ノ水一帯が騒乱状態になった時、私たちは機動隊に追われ逃げ回った。
彼女もデモの傍らにいたのだが一緒に逃げた。
彼女とは途中ではぐれてしまい、私は逃げおうせた。
彼女は私の科の仲間と一緒に明治大学の学生会館に逃げ込んだ。
仲間はそこなら機動隊も入ってこないと思ったらしい。

機動隊は学生会館に入り、中にいた全員を検挙した。
シンパである彼女がパクられてしまった。
出てくると、親元に連れ帰された。
彼女はそれ以降バリケードに顔を出さなくなってしまった。
日大の逮捕者の中にはこんな女性もいた。

今でも信州のリンゴを見ると、彼女のクスクス笑っていた顔を思いだす。

 

Mくん

Mくんとはバリケードで出逢った。
メガネを掛けて小柄で、真面目を判で押したような印象だった。
デモではいつも最前列におり、前で指揮も取っていた。デモでは指揮者が一番に狙われるため一番やばいポジションだった。
学科の部屋には、いつも部屋の主の様に居た。



6月の経済学部のデモの時、体育会の学生と衝突があった。
その時彼は放水で水浸しになった経済学部の教室で、背中を日本刀で切りつけられ気を失って水に浮くように倒れていたらしい。
6月といえば理工学部はザワザワしていたが、私たち「一般学生」は騒いでおらず人事としか見ていない時期だった。
そんな時期に彼は駿河台から三崎町に出かけ体育会系学生と渡り合い重傷を負っていたのだ。
仲間からその話を聞くまで彼の物静かな印象からは想像もつかなかった。
彼はどんな時も勇猛であった。
小柄な体の何処からあんな迫力が出てくるのか、アジ演説も上手く、彼の演説には皆「異議なし」と呼応した。

芸術学部でのスト破りとの衝突の時、私たち応援組はバリケードを奪還しスト破りを制圧したので、朝一番に帰路についた。
彼は一緒に帰らずそこに留まった。
後で聞いたのだが彼は、彼らに”背中の傷”のお返しを黙々としたそうだ、これ以上は言えないが。
彼は全共闘がバリケードを追われた以後**派に入った。
**派の活動で実刑をくらい長くお勤めをした。
出所した彼を出迎えた仲間は、ふっくらと太り人相の変わった彼に皆驚いたという事を聞いている。
それ以後10年以上現役で活動していたが、今は活動から離れはるか南の離島に家族で移住しそこで暮らしている。

2007.01.02追記
上の記事について2007年1月2日、20年振りにMくんから電話が入った。
書いていることに誤りがあるので訂正して欲しいとの申し入れだった。
訂正内容については当日の管理人日記を参照ください。

2007年1月2日の管理人日記

6月4日大衆団交を呼びかけるビラ

 

バリ祭

10月か11月だったか時期ははっきり覚えていない。
理闘委でもバリケード内で大学祭をやろうという事になった。
大学祭のテーマは・・・・・・忘れた。
ちなみに東大は「止めてくれるなおっかさん、背中のいちょうが泣いている、男東大どこへ行く」だったかな。
内容も全く記憶が飛んでいるが、私は食堂を開きバリケードに訪れる人たちにスパゲティーのメニューを提供した。
秋田委員長も私のミートソース美味いといって食べてくれて事を覚えている、委員長覚えていますか。
汚い部屋を何とか飾ったっ記憶がかすかにある。
入り口では官憲(古い表現だが)と右翼入場お断り、と看板を立て行動隊が入場を厳しくチェックした。
上野高校の女子高生が4〜5人で入って来た事を覚えている。
彼女らは入るには相当勇気が要ったのだろうが、バリケードが珍しく興味本位で見に来たのだろう。
バリケードの中を案内してやり、色々話をした。

これが68年の話だが、それから1年位後だった思う、新宿西口でフォークゲリラと称して毎週末に大集会が開かれるようになった。
その頃はバリケードを追われており、私たちは闘争資金のカンパ集めに、人が集まる新宿西口に行って日大全共闘の看板をぶら下げ署名を集めていた。
その時フォーク集会の輪の中心にいた女の子が私に駆け寄ってきた。



私は彼女が誰だか分からなかったが、彼女は私を覚えていた。
バリケードを見せていただいたあの・・・・、」と彼女が言った。
私はやっと思い出した、「ああ、あの上野高校の!・・・」。
彼女は高校を卒業しベ平連で活動していた。

彼女の顔は輝いておりフォーク集会の輪に戻っていった。

ベ平連:「ベトナムに平和を、市民連合」の略称、アメリカのベトナム侵略戦争に反対する市民団体。
活発な街頭運動を繰り広げたが、新左翼セクトの過激な運動とは一線を画し、広範な市民連帯を求めた、・・・と私は理解している。



 

遠征

日大は大きく学部がいたるところに離れてある。
近くは隣に歯学部があり、神田三崎町には法経2学部があり、江古田には芸術学部、三軒茶屋には農獣医学部、世田谷には文理学部、福島県郡山には工学部、千葉県習志野市には生産工学部、それに静岡県三島にもある。後は・・・ごめん忘れた。
法経2学部や江古田の芸術学部へは遠征と言えないが、工学部は遠征といってよいだろう。
工学部は福島県と遠くは慣れているため、再三体育会系のスト破りに襲われ何度もストを破られた。
これも何時だった全く覚えていないがバリケードの奪還に全共闘で遠征をする事になった。汽車代をカンパで集めた記憶がある。
この遠征には私は行かなかったが、帰ってきた仲間に色々聴いた話を書く。

上野から夜行列車にのって出発した。
集団が集団だけに遠征隊の車両に一般客は近づかなかったらしい。
殆ど車両を占拠状態で郡山まで行った。
郡山に着いたのは未明、ほとんど人気のない駅に降り立ち校舎まで川の土手のようなところを行進して行った。
地方都市で異様な集団が黙々と進む様は殆ど「やくざの出入り」に近かったのではと思っている。
ここでも全共闘の恐ろしさは知れ渡っていたのか、スト破りは逃げ出し殆ど勝負にはならなかったそうだ。
その様は地元紙のトップに報じられたらしい。
彼らは意気揚々と東京に戻ってきた。

もう一つ、理工学部からは参加しなかったが、京大か同志社の闘争支援(?)という事で京都まで遠征した学部がある、何学部かは忘れたが。
ブントの本場京都に日大全共闘参上、かなりセンセーショナルだったと思う。
この時も地元の機動隊は殆ど寄り付かなかったそうだ。
この1件で、ここに書く詳しい情報を持ち合わせてないのは残念だ。

京都遠征については「文闘委」のホームページに詳しい報告があったので、
ここに勝手にリンクを張らせてもらった。

文闘委ホームページ


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