9月*日

9月4日以来、昼は奪還、夜は引き上げという繰り返しが続いていた。
私は50名位の比較的小規模のヘルメット部隊で法学部1号館までデモをし、その前で集会をしていた。
周りにはシンパや一般学生も多くいた。
集会をしていると校舎の角からジュラルミン楯を前にした機動隊の一隊が現れた。
私たち行動隊は立ち上がり」角材をかざし、機動隊と対峙した。距離は20m位だったと思う。
其の瞬間、ジュラルミン楯の後ろで指揮棒が振れた。
其れと同時にジュラルミン楯が幕を引くように別れ、機動隊員がこちらめがけて突進してきた。

ヤバイ、と思い反対側に全力で走った。
隣を仲間も必死に走っていた。
どれ位走ったかは定かでないが、多分4〜50m程だと思う、後ろからジャンパーの襟を掴まれその場に倒れた。
気がつくと機動隊が馬乗りになっていた。
私はヘルメットにタオルのマスク、ご丁寧に角材も捨てずに持っていた、完璧である。
捨てる余裕がなかった。
引き摺り起こされ、後ろ手に手錠を掛けられた。
後で聞いたのだが後ろ手手錠は違法だそうだ。そう言えばニュース等で後ろ手の手錠は見たことが無い。

検挙

機動隊員は私を「確保」したのだがここは全共闘の勢力地域、今度は機動隊が原隊に逃げる番だ。
私は後ろ手のまま、後ろから押されて走りに走らされた。
走りながらこの隊員に「お前は一生刑務所から出てこれないぞ」というような内容でののしられた記憶がある。
機動隊は8機だった。
護送車は窓が無く、何処に走っているのか全く分からなかった。

連れて行かれたのは多分桜田門の警視庁だと思うが、定かではない。
武道場のような所で取調べが始まった、周りには隊員と検挙学生のペアが数組いた。
写真を撮られ、指紋をとられそれから畳みで胡坐を汲んだ隊員に簡単な事を聞かれた。
このヘルメット、この角材はお前のものか、などの質問だったように思うがこれも定かではない。

それよりも、少し時間が経ち若干気が緩んできて隊員がした話を良く覚えている。
彼は日大の法学部の2部の勤労学生であるという事。
学費の一部は警視庁が補助してくれているという事。
夜間の授業がきついという事。
しかし授業は早く始まって欲しい、お前たち昼間の学生は恵まれていて甘えている、などとぼそぼそと私に言った。

再度護送車に乗せられ着いたところは**町**警察署だった。   9月5日新聞

留置

留置場では私は19号だった(と思う)。
留置所では名前が無くなる、何号になる。
基本的人権も拘束される、立つ、歩く、話す・・・・全てだ。

持ち物とベルトを取られた。
身体検査では下着を下ろし入念に検査された。
留置所に入り足を投げ出すと、看守が鉄格子をけって怒鳴った「ここは反省するところだ、足を投げ出すな!」
私は膝を折り曲げ座った。
房内には二人先客が居た、一人は反物の置き引きをした学生、もう一人は年配の筋の方だ。

置き引きの学生は終始メソメソしていた。
窃盗でもう就職できなくなるとか、大学を除籍になるかもしれないなどと嘆いていた。
嘆くなら最初からするなと言ってやった、私の気合はとりあえず抜けていなかった。
もう一人は肩から刺青がチラリと見えていた、礼儀正しく板の間に座っており少し不気味だった。
年配の人に、夜寝るときは看守のほうに頭を向けて寝る事、毛布は首までで頭を隠して寝てはいけない事、など等いろいろ房内のルールを教わった。

捕まった初日は警察官の取調べだった。
ヘルメットと持っていた角材を持ってきて「これはお前が持っていた物だな、この調書に署名しろ」と言われた。
「黙秘します」と言うと、署名しないと実刑を食らうぞと言われたが、それでも「黙秘します」というと、傍にあった角材を机に叩きつけられて、「署名しないとここから出さないぞ」と言われた。
これには結構ビビったが、何とか完黙を続けた。
取調べ調書には署名を拒んだ 。

2日目の午前には弁護士が来た記憶がある。
彼は大丈夫と言ってくれたが、何が大丈夫なのかよく分からなかった。
弁護士は差し入れを持ってきており、バナナと歯磨きが差し入れられた。
バナナは置き引きの学生と年配の人と3等分して食べた。
昼からは黒いスーツを着た人に取調べを受けた、警察官とは雰囲気の違う人で検察官だった。
物腰は柔らかいのだが、みょうに威圧感が合った事を憶えている。

 

トイレ

房内は四畳半位で板の間、手を伸ばすとやっと届くようなところに小さな窓があった。
水洗トイレが隅にあった。
周りには30cm位の囲いがあり、周囲から丸見えで小用しか出来なかった。
年配の方は平気で大の用も足していたが、私にはとても無理だった。
大の方は3日目の地裁まで我慢した、と言うより出なかった。
用を足すと看守に「19号水をお願いします」と声を掛けた、そうするとトイレの水が流れた。
夜は確か8時が就寝だったと憶えている。
朝食は麦飯と薄い味噌汁、漬物だった。

留置所は半円に房が配置されており、端に女性の房が配置されていた。
私が入った時は若い女性が入っており、風俗関係で入っているようで、
用を足すとき看守に大声で「見るな!」と叫んでいた。
男性と同じようなトイレだったんでしょうか、
私は確認出来なかったが、今なら人権侵害で問題になるはずですが。

 

地裁

3日目は地裁に出頭した。(させられたが本当)
警察署から地裁に送られる際、護送車は警察の前の道路に止まっていた。
私(達)たちは腰紐に手錠というスタイルで警察署を出た。
ちょうど8時ごろで歩道で登校中の高校生の集団とすれ違った。
彼女らは腰紐・手錠の私(達)を横目でみて、殺人犯を見るような視線で見たことが記憶に焼きついている。

地裁のトイレのドアは半分で高さ90cm、何とか体が隠れた。
手錠の紐の先を警官に持たれたままだが、何とか用を足す事が出来た。
地裁の判決室には20人位の者が座っており、中に日大の仲間の数人が確認できた。
判事から処分を言い渡されるまでは相当緊張した。
拘置延長になるともう10日留置所に留まる。再度延長になるともう10日延長がつく。
そこで起訴か不起訴か別れ、起訴になると拘置所へ移送される。
大きな分かれ目だ。

後で聞いたのだが、私がパクられた後も全共闘の怒涛の進撃はやまず毎日100名単位で逮捕者が続出していたそうだ。
嘘か本当か都内の留置場は満杯で、留置延長・起訴している暇はなかったそうだ、若干眉唾だが。
私の処分は不起訴・放免。
この時私は20歳と10日ほどで、これが20歳前なら確実に少年鑑別所送りになっていたと後で知らされた。
この時は判事が神様に見えた。
腰紐・手錠が外され護送車で警察署に帰り、所持品を戻してもらい警察署の玄関から出た。
真っ直ぐバリケードへ戻ると、救隊が明治大学の学生会館へ避難していると聞き、そちらへ出向き報告をした。

着替えるため下宿に戻った。
下宿には父が来ていた。

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