■9月4日 この日未明機動隊によって法学部と経済学部のバリケードが破られた。 私は其の日バリケードに泊り込んでいたが3日の深夜にその情報が入ってきた。 レポ隊の説明によれば機動隊が法学部か経済学部のバリケードに捜査のため入るという情報が入ったとの事だった。 いわいるガサ入れだが、日大の場合は右翼・体育会系と機動隊の動きが連動しており、バリケード解除と授業再開が本当の目的だった。 電気科の仲間が無線機を出して警察無線を傍聴していた。 当時はデジタル無線などというものは無く電気科の学生にすれば傍聴などはお手の物だった。 泊り込みの全員が大教室に集まりどうするかを話し合った。 書記局の仲間が法学部と一緒に経済学部やここ(理工学部)にも機動隊が入る可能性があることを述べた。 皆でどうするか話し合った。 事が事だけに真剣に話し合ったが結論はすぐ出た。 |
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法学部バリケード | ||||||||||
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私は残った。 記憶が曖昧だが当日は50名位は泊り込んでいたと思う。 個人の事情でバリケードを出たのは4〜5名ほどだった。 私は、多分皆もそうだと思うが異様な緊張感で体が強張っていた。 しかしすぐさま作業に取り掛かった。 バリケードの補強をする仲間、敷石を剥ぎ屋上に担ぎ上げる仲間、皆黙々と動いた。 通常バリケードは一階入り口と2階へ上がる階段に築いているが、この時は3階に上がる階段にも急遽バリケードを築いた。 バリを張るのは日大全共斗の得意技だった。 それに私たちは理工学部だ、建築科も土木科も機械科もいる、1時間ぐらいで済んだ。 その後バリに留まった仲間全員で屋上に上(退避)がった。 法学部は水道橋の白山通りの近くにあり、駿河台の理工学部からは歩いて10分くらいのところにあった思う。 皆はそちらが気になり屋根の上に上がった。 駿河台は高台で結構周りが見渡せる。 よく憶えていないが3時か4時くらいに、西の空からドスンドスンとかすかな音が聞こえてきた。 9月だが肌寒い屋根の上、無線を聞く仲間、西の空に耳を傾ける仲間、緊張して皆の顔は引きつっていた事を鮮明に憶えている。 私は小柄だし腕力があるわけではない、シャツの下に新聞紙を何重にも折り入れた。 機動隊は顔や腕など見えるところではなく見えない腹や胸を殴ると聞いていた。 ヘルメットと軍手、シャツの下の新聞紙がささやかな防備だった。 攻めてくる事を待つ、という気持ちはどう表現したらいいのか。 多分4機(第4機動隊、機動隊でも最強の部隊といわれていた)にひどい目にあうだろうな、という思いで皆言葉少なくなっていた。 法学部の仲間はどうなっているのだろう、と案じながらも自分がパクられたらどうしよう、嘆く母の顔が浮かんできた。 これで前科が付くだろうなあな・・・などいろいろ思いめぐらした。 |
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遺言状 43.9.4 AM4:00 お父さん、お母さん、お許し下さい。 僕は 今日 逮捕されるでしょう。 僕はテッテイ的に戦います。死ぬ かもしれぬ、又、おおケガをするかも しれません生前の不幸をお許し 下さい。経3斗争 (経済学部壁書き) |
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■助かった 法学部と経済のバリは破られ、仲間が全員パクられてしまった。 |
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「封鎖解除」を報道する9月4日夕刊 | |||||||||||
■日大の強さ |
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■全学動員 |
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「再占拠」を報道する新聞、9月4日付け | |||||||||||
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9月4日(だと思う、12日かも知れない)理工学部9号館空き地での、法経学部への機動隊導入抗議・全学集会。 集会の後、神田三崎町へデモに出発する先頭のヘルメット部隊、この後ろに万に近かいシンパ、一般学生が続く。 この後1週間機動隊との激しい攻防が続いた。 最前列に「無傷」の理闘委の、モヒカンヘルメットの行動隊が見える。 |
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9月12日三崎町、 三崎町白山通りをゆく日大生 | |||||||||||
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