民青

私は民青が好きでない、嫌いだ。
これは思想ではない、感情だ。
日本共産党は正しい事を言う。
平和と暮らしを良くするため真面目にやっていると思う。
それでもやっぱり嫌いだ、受け入れられない。

理工学部は1968年7月8日バリケードストライキに突入した。
バリケードの中では毎晩全体会議があった。
スト破り以外のものであれば誰でも参加でき自由に発言できた(と思っている)。
先進的に運動を担っている仲間はいたが、いわゆる「幹部」と言われるような者はいなかったし、それぞれ各自自分の信念で動いていた(と思う)。
少なくとも私はそうだった。

時期は正確に覚えていないが多分7月の末ごろからだったと思う。
全体会議でバリケードのストライキは止めようと提案してくる複数の仲間が出てきた。
他学部ではすでに体育会系や右翼学生に襲撃される事例が頻繁に起きていた。
バリケードは大学当局に少なくとも対等にものを言うのに必要なもので、他大学のような「象徴」ではなかった。
提案してくる仲間もそれは十分承知しているはずで、バリケードのない今まではものを言うことさえ出来ない学園だった事も承知しているはずだった。
その提案は全体会議で受け入れられないものだった。
私も賛成しなかった。
彼らはそれからバリケードへは出てこなくなった。

**科の先輩のBさんはそれまで一緒にデモもしたし、バリケード内で親しく話もしていた。
ストライキは理工学部の過半数の学生が賛成してくれていたし、そうでなければやっていない。
私には彼の提案が理解出来なかった。
彼らが自分の意思でストライキ反対を提案してきたとは思いたくなかった。
この後Bさん達とは二度とスクラムを組むことはなかった。
彼らは日大民青同盟員だった。


民青その2

日大闘争では他大学とは違い、民青は何も役割は演じなかった。
私たちの相手は大学当局とその手足のスト破り学生であり、民青は取るに足らない存在だった。

しかし民青は怖いと聞いた仲間の話がある。
帰ってきたその晩、本人から直接聞いた話なのでかなり正確だ(と思う)。
いつだったか市ヶ谷の*政大学のバリケードが民青に襲撃され乗っ取られたことがある。
私の仲間は、*政大学全共闘の要請を受けて救援に出かけた。
私はちょうどその日泊り込んでいなっかったので行けなかった。
私たちは右翼を相手にしており怖いものなしと自負していた。

夜もかなり更けていたと言うことだ。
市ヶ谷の*大キャンパスに着いた。
*大は日大と違い一様キャンパスがある。
ほとんど照明のないキャンパス内を占拠された校舎に向かった。
校舎は物音がせず不気味に静まり返っていたそうだ。
近づくと真っ暗な校舎から物が投げられて、足元の地面に鈍い音を立てて刺さった。
よく見ると下水に被せてある鉄格子を十字に切り落とした鋭利な得物だった。
この時はかなりヤバと感じたらしい。
その後その得物や椅子、ゴミ箱などありとあらゆる物が投げられてきた。
石や椅子が飛んでくることは右翼で経験していたが、鋭利な手裏剣まがいのものにはあせったらしい。
この後小競り合いを続けているうちに民青は逃亡した。

*大の学生に聞くと、彼らは二部の勤労学生の民青と、共産党系列の印刷所などで働く地区民青ということらしい。
特に千代田区には屈強な地区民青がおおく、最強のゲバルト部隊で出没するということだった。
統制の取れた行動や、殺傷能力の高い得物を使用する点など恐ろしい相手だったと聞いた。

ところでこの千代田の地区民は「ゲバルト部隊」で使われすぎて、代々木のお荷物になったらしい。
真偽は定かでないが、その後ほとんどが共産党に残れなかったと言われている。
*大生は彼らを「民トロ」」と呼んでいた。

トロ:共産党や民青同の皆さんが全共闘や新左翼を指して呼ぶさい使う。
ソビエトロシアで、レーニン没後スターリンと対立し粛清されたソビエト赤軍の創始者トロツキーの事で、日本共産党は自分たちに対抗する左翼的勢力を区別なく「トロツキスト」と決め付けてそう呼ぶ。
私も仲間も「暴力学生でトロツキスト」と一方的に呼ばれており、反対に新左翼のほうは日本共産党のことを「スターリニスト=スターリン主義者」と呼ぶ。
民トロ(トロ民とも言う)とは、トロツキスト顔負けでゲバルトを行使する民青の行動隊を揶揄して呼んだもの。

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