| ■ 2004.2.10 wrote
森田童子の語りを聴いてて、こんな事を思い出した。
1971年春、阿佐ヶ谷北から杉並の桃井に引っ越した。
追い出された訳ではなかった。
全共闘の仲間が2人で共同生活しているアパートに私も参入したのだ。
四畳半だったか6畳だったか記憶は薄いが、大学四年生が家賃7500円を三等分の共同生活。
怖いものは何にも無かった。
地震は何時でもこいと思っていた、
くると喜んで柱を揺すった。
火事も泥棒も怖くなかった、
泥棒には盗むものが何も無いのだ。
火事で焼失する財物が何も無いのだ。
バリケード生活でアナーキー?なしたたかさが身についていた。
暖かい時期は窓は開け放し、ドアも閉めずに寝た。
朝、仕事に向かうサラリーマンが、窓やドア越しに見えた。
当然向こうからも寝ている私達が丸見えだ。
何を見られても躊躇する事は何にも無かった。
その年の暮れもう一人仲間が参入した、共同生活は4名に増え家賃は四分の一になった。
当然仲間連中の溜まり場になる。
夜トイレに出て戻ると、寝るスペースが無くなっている、押し分けてスペースを作る。
見知らぬ誰かが寝ている事もよくあった。
肉屋で鶏の皮を買うと1kgで確か40〜50円だった。
鍋に湯を沸かし脂を抜き、砂糖と醤油でコゲ付く寸前まで炒る。
ドンブリに白い御飯を山盛りに盛る、一人当たり実費 40〜50円、5〜6名の夕食になった。
少しの贅沢は樽から分け売りで買った野沢菜。
このトリ丼and野沢菜はたまらなく美味かった。
不便だということで電話を引いた。
しかし、通話料を払わないので2ケ月くらいで不通になった。
風呂屋が遠かったので、道路から丸見えの共同洗濯場の流しの上で、水道水で体を洗った。
通行人から真っ裸を見られても恥ずかしくなかった。
誰とはなしに私達のアパートを「桃井コンミューン」と呼ぶようになった。
■ 2004.2.11 wrote
6畳(四畳半?)一間に4人はさすがにキツかった。
四人だけならまだしも必ず客人が来る、泊まる。
4人の所持品も少しはある、テレビ、冷蔵庫、ステレオ、コタツそれに設計テーブルとくれば一人に1畳のスペースがない。
畳の寸法というものは不思議なもので、一人の人間が座る、足を投げ出す、横になる、何とか一畳あれば足りる。
一人に1畳ないと自然の動作が制限される。
いくらバリケードの不自由な生活を経験している4人でもこれは辛い。
そうかといって客人は拒みたくない、コンミューンは来るものは拒まずだ、・・・が。
この上に一人居候が常駐しだした。
誰の友人か未だに分からないが、北海道から出てきている浪人生だった。
私達4名は全員大学4年目生(四年生ではない)、何故3〜4歳年下が居候していたか未だに解せない。
とにかく極限は越したわけで、打開策を練った。
たまたま、隣の隣の部屋が空いたので私と最後の参入者がそちらの部屋に移住した。
冷蔵庫やテレビ、ステレオは母屋に残し、ふとんと着る物と彼の設計テーブルだけもって移住した。
これで客人を迎えるキャパシティーは大幅に増えた。
この頃から、夕食から続く毎夜の酒盛りが始まった。
アルバイトの帰り、ウオッカやジン、焼酎やサントリーの安ウイスキーなど度数の強い安い酒を誰かが買ってくる。
ビールなんぞは高く、飲んだ覚えが無い。
私は下戸なので、食糧の準備や泥酔者の介護に毎晩暮れる生活が続いた。
幸い就寝スペースは離れ部屋に確保されていたのでアルバイトの妨げまでは至らなかったが。
このコンミューン生活はかなりアナーキーであった。
周りは桃井の閑静な住宅街。
私達の騒がしさは周りに相当響いていたはずだ。
アパートは2階建てが2棟あり、もう一棟は会社が社員寮として借り上げていた。
こちらも結構騒がしく、私達の目立ちも少しはカバーされていたが。
ジャニス・ジョップリン、ジミ・ヘンドリックスと4名の音楽的趣味は一致していた。
それなのにステレオは2部屋に1台。
誰が言い出したか、アンプとプレーヤーは母屋に置き、スピーカーをそれぞれの部屋に置きジャニスを夜目一杯で鳴らした。
これで1回、赤色灯をクルクル回転させながらパトカーがおいでになった。
呼んだのは母屋と離れ部屋の間の住人。
もう1回は少し騒がしかったのか、気が付くと窓の外で赤色灯がクルクルと回っていた。
記憶の範囲では計2回パトカーがお出ましになった。
■ 2004.2.12 wrote
東京幻想旅行記のyamamotoさんから森田童子のライブ盤を贈って頂いてから、何故か70年前後の事を思い出す。
それも、70年安保や全共闘のことでなく、阿佐ヶ谷や荻窪、桃井で暮らしていた頃の思い出だ。
yamamotoさんは中央沿線に強い郷愁をお持ちとの事、それが引き金になっている。
1971年、訳あって阿佐ヶ谷北の雀荘の2階のアパートを引き払った。
何故かは当時の仲間にも本当の事は言っていない。
yamamotoさんには正直にお話したが、はばかる話なのでここでは「疲れ果てて」にしておく。
転がり込んだのは他学科の仲の良い仲間2人が暮らす、杉並区桃井のアパート。
荻窪の駅から歩いて20分は掛かった。
閑静な住宅街の中に、周りには似つかわしくない2階建10部屋の2棟。
バリケードを追い出されて以来の共同生活。
ここが「桃井コンミューン」と呼ばれるまでに時間は掛からなかった。
荻窪駅北口を少し上がった教会通りに「シルクロード」という喫茶店があった。
桃井コンミューンは駅から遠く、とにかく狭い。
何時しか、皆がここをサロン代わりに使うようになり日大全共闘理闘委中央沿線一派の溜まり場、行けば必ずと言って良いほど仲間がいた。
店の常連客には、都の清掃局に勤めている中年の方、この方はコップの水にタバスコをタップリ注ぎ旨そうに飲む。
清掃車で一日中肉体労働をしているらしく、このタバスコ水が疲れを取る?と涼しい顔をしていた。
いつも小難しい表情で店の奥で専門書を開いていた東大の哲学科?の院生、もうすぐフルブライト留学生でフランクフルトに留学するとおっしゃっていた。
私たち単ゲバは内心バカにすることで、お互いプライドを保っていた。
杉並高校の小生意気な女子高校生。
私たちの事を「おじさんたちはもう年寄り、もう何にも出来ないくせに」と平気でののしっていた。
でも何故かかわいくて憎めなく、皆で妹のように手荒くかわいがった。
この子は、店丸ごと借り上げのクリスマスパーティーの際は、まめに手伝ってくれた。
かなり後になって「朝日ジャーナル」の何かの座談会記事に彼女が載っていたらしい。
日大全共闘を平気で小バカにしたこの子、杉並高校でもかなりの跳ね上がりだったのでは。
■ 2004.2.13 wrote
桃井コンミューン住民の何人かと同じバイトをしていた。
赤坂見附の通りに面した外資系の化粧品会社で、化粧品のボトル詰めと発送のバイト。
老舗虎屋を左手に、5分ぐらい歩いた所にあり、ビルのまん前は東宮御所だった。
通りに面したビルの窓は全てすりガラス、屋上は立ち入り禁止だった。
御所を見下ろすのは不敬だったのだろうか。
外資系で日給1700円で週払いだった。
時折休みはしたが、何せ生活がかかっていた、結構真面目に働いた。
1週勤めれば1万200円、一月で4万前後の収入になった。
大卒の初任給が2万円そこらの時代、結構な稼ぎになった。
赤坂見附は下車して右にすこし歩けば、直ぐ国会議事堂がある。
バイトに向かう真面目な勤労学生?も、頻繁に所持品検査を受けた。
装備を固めた機動隊が、地下鉄出口をあがってくる風体の悪い者の所持品を調べているのだ。
ネクタイ、スーツの紳士は調べない、私達は100%調べられた。
下手に抗議すると、問答無用で近くの装甲車に連れ込まれる。
バイトが終わると、荻窪教会通りの喫茶「シルクロード」に直行した。
この喫茶店、行けば誰かがたむろしている。
夕刻からの客はほぼ馴染みの客ばかり、アットホームのような居心地の店だった。
途中で銭湯へ行く者、春木屋(ラーメン店)へ食事に行く者。
店は一様10時が閉店だったが、店を閉めてもマスターは私達を追い出さなかった。
閉店後、時には翌日までマスターや馴染み客とワイワイガヤガヤと過ごすことが出来た。
日付が変わって桃井へ辿り着くこともしばしば。
アルバイトでカウンターに入っていたのは音大に通う女子大生。
彼女が欠かさずカウンターに飾っていたフリージア。
この香りを嗅ぐと、今でも喫茶「シルクロード」を思い出す。
■2004.6.12 noon wrote

5月下旬にニ輪咲いたバラを切り戻しておいたら、
また三輪花芽が付き、咲き始めた。
オヤっと気が付くと、早くも花瓶に差されている。
二番咲きだが結構大輪だ。
’71年過ぎの何時頃だったか、確か梅雨時ではなかったか。
お馬鹿な渋谷事件について。
桃井の同居人と赤坂のバイトの帰り?、だったと思うが記憶が定かでない、皆酒が入っていた。
ワイワイガヤガヤと渋谷の山手線ホームで電車を待っていた。
その時、一人がプラットホーム壁に張ってあるポスターに目をつけた。
渋谷パルコの、当時人気だったスターがモデルの大きなポスターだった。
これはいただきだ!、と仲間で剥がしに掛かりゲット。
獲物をもって意気揚々と電車に乗り込みドアが閉まった。
すると駅員が走ってきて窓から「降りて来い」と怒鳴っている。
当時はある意味”怖い物なし”状態の不埒な学生集団。
駅員の要求には応じず、窓越しにさんざん罵った。
当然、電車はサ・ヨ・ナ・ラ〜と発車するはずだった。
車内で勝ちどきを上げていたが、一向に電車が発車しない。
何分か経っただろうか、突然ドアが開いた。
私達の数を上回る”鉄道公安官”がなだれ込み、あっさり御用。
この後”悪質”という事で、渋谷の警察に引き渡され深夜まで絞り上げられた。
別に警察は怖くなかったが、皆この一言にはシビレ上がった。
「お前たちは国電を3分止めた、国電を1分止めると200万円の損害だ、国鉄から請求があったら払わなきゃいけないぞ」
当時の国有鉄道は”寛容”で助かった。
もうボチボチ喋ってもいい、お馬鹿な事件が他にも幾つかある。
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