仲間からの便り
 

ホームページを見て寄せられた仲間からのメールや便りを紹介します。
掲載については本人から承諾をいただくか、連絡が付かない場合は一部修正し個人情報を載せないようしています。
このコーナーに載せさせていただいた便りへの返事もお寄せ下さい。


むしろ旗と時代を撮ったペンタックス Mail 2004.1.6
  
〜農獣医学部・水産学科闘争委員会さんより寄せられました〜

     

むしろ旗1号レプリカ
バリケードを追い出され、ロックアウト中に制作。
日比谷周辺をデモ行進中、警官とのもみ合いに際し、ほんの数秒で崩壊する。幻の1号旗。 2号旗は、カマスを使用。重くて、実用できず。
3号旗、ござを使用。催涙弾直撃よけに、効果あり。しばらく使用。当時、むしろ旗もどきをごらんの方は、3号旗をごらんだったでしょう。

アサヒペンタックスSU.
1960年ごろ製。手動巻上げ、絞り、ぴんと、シャッター(1/500)のみ。
1969年〜1972年にかけて、街頭闘争、私服警官の顔写真を撮影。コダックASA400モノクロ100フィート缶フイルムを、小分け使用。1600まで、増感。
作品は、一部セクト機関紙に採用されたもの以外、存在しない。
最終処分は、1972年秋。岩国、ファントム ベトナム出撃阻止闘争にて逮捕。婚約者(現妻)が,焼却 。


K.Sさんからの便り 葉書 2003.12.13

「祈りの家」

葉書が届いた。
優しい文面で「いつか私も自分の言葉で、あの時を表現し、・・・・・」と記されていた。
学科は違ったが、親しい仲間だった同学年の女性からだ。
葉書には、11月に出来上がったという木立に囲まれた家の写真がプリントされていた。
差出住所は私の出した住所と違う住所が記されており、第二の家のようだ。
「私の祈りの家」と紹介されており、「近くに来る事があれば寄ってください、玄米御飯でもてなします」、と
うれしい言葉が記されていた。

私はかなりの田舎に住んでいるが、退職したら小さな家を建ててもっと田舎に移りたいという夢を持っている。
K.Sさんの素晴らしい館「祈りの家」は、私の夢を現実に見せられたような思いがした。

彼女は何を祈るのだろう。


ジャドウ当事のニックネームくんからの便り 2003.12.6  (12.4 mail 受信)
ジャドウくんは私と同学科同学年、当事彼は自家用車を持っていたので、デモに先立ち機動隊の配置情況や動向を調べる”レポ隊”をやってくれていた記憶がある、レポ隊は私服警官に見つかるとパクられるやばい任務だった、我が学科闘争委員会の有力なメンバーの一人。管理人
wrote

HPの紹介、有り難う御座います。
また、下宿への転がり込み、お礼もしてなかった様で・・・有り難う御座いました。ペコン

それにしても**君のHP、よく調査されてますね!!
懐かしく読まさせて戴いてます。

言い古された事ですが、、、インチキグウタラ全共闘の私にも、、、あの時代は大切な時代。
15年前に会社を退社した直後、、、「俺の価値観はナンダベ?」の自己疑問に対する回答が、
18年勤めた会社の価値観では無く「全共闘時代の価値観」ダケ!!
 には、、、正直参りました!!

私なりに「全共闘」を総括しますと、、、
「普通の人が、普通の事をやったら、なってしまった活動」
そして、
”「普通である」が故に、日常の中で継続して居るのでは?”
は残ってしまってます。
・・・「残ってしまっちゃったんです」
それだけ、自然な偉大な活動だったと感じてます。

現在、私は陶芸が生活の中心に、、、モチ売れないですょ
その他、日払い仕事をポチポチで、、、ナントカ生息してます。

さて、私もHPを持ってます。
全共闘とは直接関係ありませんが、、、一つのライフワークとしております。
最近、チト更新をさぼってますが、これからも続けるつもりです。
もしご了承を戴ける様でしたら相互リンクをお願い致します。

http://homepage1.nifty.com/tomandogu/

**君のこれからの発展を心からお祈りしてます。
ご家族の皆さんにも宜しくお伝え下さい。

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貴君のHPのメールサーバーの動きが気になります。
HP上からメールサーバーを起動させると一回「暴走マーク」が出ます。(Windows)
古いMAC(os 8.1)ではExplorerが暴走します。
もし宜しかったらご確認下さい。


くんから返事が来た。  2003.11.14 管理人wrote

くんとは、1999年の同窓会でメルアドを交換していた。
2〜3回メールをやり取りした後、私のパソコンはディスクダンウでクラッシュした。
not found opretion syst ・・・・ と表示が出るだけ、沢山のメルアドも一緒に飛んでしまった。

パソコンは修理を諦め廃棄した、パソコンの無い生活を2〜3年していたが、仕事でホームページを作る際に自宅にもノートパソコンを備えた。
東芝の業務用ノートのサテライト、Win2000を搭載しておりメモリーも512MBに増設、クラッシュした以前のパソコンとは格段に違う高性能機でこれを使っている。
ホームページを作るため色々資料を探していたら、偶然交換したKくんのメモを見つけた。

4年前のメルアドなので、宛名不在ではね付けられるのを覚悟でメールを出してみた。
出して30分経たないうちに携帯から返事が入った。
勤務中のようで簡単なメッセージだが、彼らしい優しい口調で書かれていた

くん wrote

ほんとに久しぶりですね。
お元気の様子、とても嬉しかった。
お互いに年をとりましたね。私も白髪が多くなりましたよ。
早速会社でHPを見さして貰いました。サラッと見て懐かしかった。**は良くいろ
んな事覚えてるね。 上野高校の女の子はあれからいろいろあったんだよ。
今度ゆっくり見て詳しくレポ送ります。
こっちは走り三昧、日曜日も東京国際女子マラソンのサポートなど忙しい毎日で
す。
私が担当のHPも見てください。Yahoo!で****走友会で飛んでください。

早速彼の担当しているホームページに飛んでみた。
アクセスカウンターが8万回を越していた。
地域のランニングの同好会のコミュニティーサイトとして彼によってページが運営されていた。
活動の紹介ページの写真の中に懐かしいKくんの姿もあった。
掲示板も彼が運営しているようで毎日会員に定期的な情報を流している。

くんは学科で「斗う黒旗」という学科の機関紙を発行していた。
当時でいう「情宣」活動である。
闘争の経過報告、考え方、学友へのメッセージと彼が一人で地道に原稿を書き、ガリ板を切り、バリケードで夜遅くまで刷っていた。
ガリ板印刷は、ローラーにインクを付け、一枚一枚擦って印刷する極めて原始的な印刷方法で、ヤスリのような鉄板の上で、鉄筆を使って油紙に書くガリ文字は、その人の個性や特長がでていた。
刷り上ったばかりビラは、インクの香りが漂い、すぐ手に取ると手にインクが写り付いた。
翌朝刷り上ったビラを片手に、バリケード前で朝日を浴びてビラ配っている彼の姿が今でも記憶に残っている。     くんの作ったビラ

くんは私と違って先進的だった。
1967年の羽田闘争にも参加していた。
当時の日大は学生管理が強権的であり(それ以後も変わらないが) 、参加の事実が知れただけで退学などの処分を喰らう”恐ろしい大学”だった。
彼はそれを承知で、日大生を隠して運動に参加していたらしい。
いろんな事で私より一歩先を行っていた。

こんな彼だったが、シンパの「マドンナ」と明大学館に逃げ込みパクられるというドジを踏んだ。
彼女を庇って逃げ遅れたのだ。
このことは「マドンナ」の話題で書いたが日時の詳しい情報が経闘委の年表にあったので引用させていただく。

1969.4.12 法・経奪還闘争、明大学館前にて2000名結集、お茶の水周辺を解放区に。
機動隊明大学館に乱入し、128名逮捕。(経闘委年表より)


彼は当時川崎市に住んでおり、私達はすぐさま彼の下宿に急行した。
彼の部屋にあった闘争に関連のあるビラや資料を回収した。
「クラス新聞や日大新聞などの資料を良く持ってましたね。」ともメールに記されていましたが、
くん・・・・、これは貴方の物ですよ!

理工のモヒカンヘルメットや黒旗を今も持ってるとのこと、写真をいただければ後日ページ上でお披露目したいと思っている。

元気にランニングしている近況が知れてうれしい。
彼もホームページを作成管理しているので、心強い同志が出来た思いだ。



公郎さんへ  2003.11 管理人wrote

**公郎 様

出張で家を空けていたため返事が遅れました。
当方の勝手なお願いを承諾いただきありがとうございました。

私はホームページを作るにあたって、ヤフーとかグーグルで色々検索してみましたが、それらしきページは余り見当たりませんでした。
それとは反対に、全共闘や70年前後の学生運動に興味を持ち、知りたいという掲示板への書き込みを少なからず見つけました。
ページを作るのに付いては、酒の肴に喋る「武勇伝」は書きたくなかったのです。
芸術学部へ出張ったときは本当に怖かったです。
ページでも書きましたが顔が引きつり、走っていて足がこわばり前に進むのがやっとでした。
本当にどうしようかと思ったのを憶えています。

高橋さんの正直な気持ち、出きれば多くの人に伝えたいと思いました。
勇気を強要し、責め立てて行ったセクトの運動と結末がどうなったか、誰でも知るところです。
私はオルグされた記憶もないし、勇気を強要された記憶もありません。
やりたくなければ何時でもバリケードから脱けれました。

ページを作ったもう一つの理由は、下の息子が大学に行っているとき友人に私の話をしたそうです。
息子は友人に「お前のオヤジは社会主義者か?」と聞かれたそうです。
私は自分を左翼と思ったことはありません。
30数年たって、息子へのメッセージも一つの理由で、当時の思いを綴った個人史のホームページを作りました。
息子に知らせたら、見てくれた様で「父さん、分かったような気がする、友達にも見るよう教える」と連絡をくれました。
誰が見てくれるよりも正直うれしかったです。

今年の4月より、左肩に激痛が走るようになりました。
整形外科で見てもらうと「50肩」と言われました。
痛みは日に日にひどくなり、5月頃には夜もまともに寝れなくなりました。
痛みが治まったのは8月に入ってから。
左腕は90度より上に上がらなくなっていました。
ヨット仲間に「**さん何時ヨットに復帰するの」と急かされています。
海が恋しいのですが、未だセーリングに不安があります。
もう少しリハビリに徹して、万全を期したいと努力してます。

公郎さんのお店のページ見せてもらいました。
写真も拝見しました
私は30数年前の写真をページに貼っています、今は髪は真っ白で頭頂は薄くなっています。
若い時の写真を貼っている自分が少し卑怯だと反省しています。

公郎さんはセーリングでスピンネーカーは張りますか。
私のクルーは誰も面倒がってスピンはあげようとしません。
ランニングでもメインとジブだけで手抜きセーリングです。

掲載をご承諾いただきありがとうございました。
またお便り下さい


公郎さんからの返事  2003.11.6


さっそくのご返事ありがとうございます。
私は電気科で同じ1971年卒で昭和23年生まれです。
東京都の**市と言う所に住んで自宅で薬局を行なっています。
**公郎と言うものです。
ホームページらしきものはないのですが、ヤフーで「****薬局」と検索してもらえればすぐ検索されます。
日本中医薬研究会というページの会員紹介の中に載ってます。私の写真も載ってますので・・
ちなみに****とは仲間と共有しているヨットの名前です。
今のヨット(4艇目ですが)は****システムという会社を経営している友人(盗聴の張本人)がオーナーになってます。

メール文を掲載する事や学科名等も問題ないです。たいした内容が書けなくて申し分けありませんが・・・
今はメールがありますので全国の昔の仲間と交流出来ると嬉しいですね。

ではまた
(追伸)今度の日曜は伊豆の伊藤でクルージングです。
    海と風を楽しんで来ます。


公郎さんへの返事  2003.11.5  管理人wrote

公郎 様

やっと理闘委の「仲間」からメールをいただきました。
ページをあげて約1月、妻が「お父さん、昔の仲間にページを知らせたら」としきりに言っています。
それと妻は「皆が見たら何と言うかしら、こき下ろされるかもしれないね」と心配してくれています。
私は「大丈夫、嘘は一切書いてないから、記憶間違いはあるかもしれないけど、仲間の悪口も一切言ってないから」と応えています。

日大全共闘の仲間以外から結構メールをいただきました。
埼玉大の全共闘だったかた、同志社の全学闘だった方などからで、ページをリンクしてくれています。

私は****科です、新宿の同窓会にも出席しました。
お顔を拝見すれば憶えていると思います。
私はあの当時参加していた仲間は、誰一人「日和った」とは思っていません。
全共闘に参加し、バリケードストに寝泊りする事自体が日常を超え、勇気の要る事だったと思っています。
色んな事で「勇気比べ」をするため参加したのではないと思っています。
ささやかな勇気を持った者が思い切って参加し、自分の勇気の範囲で出来る事を行い、強制されなかったからこそあの「日大闘争」があったのだと思います。
セクトの闘争じゃないんですから「日和った」なんて言わないでください。

私のページは、時間を掛けて「増殖」させていくつもりです。
お願いがあります・・・・。
いただいたメール文を便りとしてホームページに掲載させていただけないでしょうか。
お許しをいただければ、学科名は伏字にして載せたいと思っています。

私は職場のパソコンにも個人のメルアドを設定していますので、メールはリアルタイムで受信できます。
ご返事をお待ちしています。
****学科 1971年卒業
**県在住 ****


公郎さんからの便り 2003.11.5

こんにちは
ホームページ懐かしく拝見させて頂きました。
私は当時電気科の二年で同じ学年だと思います。
中央大の学生会館で友達と無線機で警察無線の傍聴をしていた張本人です。
しばらく記憶の奥底にしまっていた記憶が読ませて頂いて、だんだんと湧き上がってきました。
芸術学部の江古田の事件はやはり壮絶で一番記憶に残っています。
その他郡山、習志野、津田沼等の遠征も記憶によく残っています。

電気科はあまり他学科との交流は少なかったと思います。
別に孤立してたわけではないのですが、私を含めてラジカルな人間が少なかった様にも思います。
バリケードの徹底抗戦の時も残る勇気も真の仲間もいないで結局盗聴すると言う事で中大の学館に逃げた??ような苦い記憶もあります。

以前14〜5年前(ちょっとはっきりしませんが)に新宿で佐久間さんの呼びかけで理闘委の同窓会?に行った時も、電機はちょっと日和見みたいな話があってカチンと来ましたが、たぶん事実だったのでしょう。
話をすればきりがありませんが、学園闘争をラジカルに経験した人はその後の人生にいいにしろ悪いにしろ、かなり影響した事は間違いないと思います。
私もすくなからず、つねにその事が心の中で物事の基準になっていたような気がします。

今は電気と関係なく25年ほど薬局をやって来ました。(内のが日大薬学だったので)
子供も娘がもうじき30歳になります。下に息子が二人います。
ガーデニングはやりませんが趣味がヨットで(電気の闘争仲間と)また二年前に二歳上の兄を亡くした事も、なにか通じる事もありメールをさせて頂きました。
ではまた 頑張って下さい。


 

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