当運動史は、1960年代から1970年代に掛けて「全日本医学生連合」に関与された有志の方から善意で当ホームページへ寄贈された私的編纂版です。
有志は、当時の多くの資料に基づき出来る限り史実に忠実に編纂を行っています。
しかしながら、あくまで個人のライフワークとして編纂されたもので、細部で考証できてない部分も一部あるかも知れません。
寄贈いただいた有志は、現在いかなる政治的な団体にも所属しない一私人であることをお断りします。
内容に異議を持たれる方が居られましたら当ホームページ管理人までご連絡をいただければ幸いです。
寄贈いただいた御方に深く感謝いたします。2004.7.20

 
(2011.3.4、編者の要請で一部追記)
日大医学部・高等看護学院運動史
 


1945
 (昭和20年)

11月13日 日本大学医学部進学課程の学生は同盟登校に及ぶ。要求項目は、
 一、学園の民主主義化。
 二、集会掲示の自由。
 三、軍国主義者なる野沢予科長及び河合教監の辞任。
 四、無能教授の追放。
 五、報国団費、校友会等の報告。
 六、復員軍人の入学拒否。
11月22日 日本大学医学部学生大会を開き学生全員による学校組合を内容とする自治事業案を決議。
12月 5日 日本大学医学部は都下学生連絡会議に呼びかけ発起人として参加。


1949 (昭和24年)

11月24日 日本大学医学部は加盟していた全学連医学協内に関東インターン対策委員会発足し、劣悪なインターン制度問題で厚生省との会見に参加。● 
出席は、昭和医専・順天堂医専・横浜医専・慶応・東京女子医専・日本医大・日本医大付専・慈恵医大(未加盟)・東大・東大医専・慈恵医専・慶応医専・千葉医大・東邦医大・前橋医専・東京医専・日大医・日大医専。


1954 (昭和29年)

11月12日 全日本医学生連合結成大会に医学部が出席し加盟す。東大医学部一号館で医学連結成大会が開かれ46大学医学部中39校出席、7校が欠席した。
日大は卒後インターン制度について独自案を提案している。
出席校:北大、札幌、弘前、岩手、東北、福島、東大、MD(東京医科歯科大学)、慶応、日大、日医、慈恵、東邦、東医、東女子医、順天、千葉、横市、群馬、信州、新潟、名大、名市、岐阜、三重、京大、京府、阪大、阪市、大阪医大、神戸、金沢、和歌山、岡山、山口、九大、長崎、熊本、鹿児島。39校
欠席校:昭和、大阪女子、鳥取、広島、徳島、久留米大。7校

〔12日の総会日程〕
12日の総会日程は議長団選出の後、
 1、インターン中央書局案、
 2、医学連準備中央書記局案、
 3、九州ブロック案
の三議事日程を討議し、三案の日程を満場一致で決定。

厚生省への交渉に各ブロック代表が出発。そのあと、インターン中央書記局と医学連準備中央書記局より報告。
休息後国際ゼミナール準備会より報告の後、各校、各ブロック報告。
(1)、講義内容改善運動。
(2)、三月一日のビキニ事件以来、原水爆禁止運動にほどんどの大学が参加をしているとの報告。
東大、MD(東京医科歯科大学)、千葉、信州、岡山、京大、阪大、九大等ではつくった展示や幻灯をもって地域にはいっている活動報告があった。
阪大では原爆症研究会が軸に大阪府・各団体・大学を動かし大阪地方連絡会を結成。又、百枚のパネルの大水爆展を市内で行なう、夏休み中に医学生全員で4、5万の原爆反対署名を集める。MD、横浜、慶応等で原水爆国際医師視察団招請の署名、資金運動を展開。
(3)、インターン闘争で九州・関西が願書保留が出来、関東で出来なかった事への討論が行なわれる。
(4)、学生生活への圧迫強化。暗黒化が報告された。
東京女子医大ではロシア語講習会が禁止の弾圧。
鳥取、厚生補導部で手紙の検閲が行なわれる。
日本医大では部室・サークル名簿・研究会の講師等に大学当局が干渉して来る。

山口では医学の封建性に対する取り組みが。
長崎では戦災校舎での授業に対する取り組み。
(5)、サークルの発展。ロシア語講習会からソビエト医学研究会へ発展の見通し。
日本医大、千葉、横市でコーラスに数十名が参加。セツルメント、社医研の発展。

(6)、学生政治改善へ。名大から報告。
(7)、中央体制の確立を。
(8)、学生の利益を。身近かな問題からと岡山から。クラス会討議の徹底が自治会
の強化にと九大から。
同じ悩みの解決には全国的な協力をと鹿児島から。この後、ブロック代表者会議に移っ
て大会を終わった。

〔13日の総会日程〕
6項目が議題とされ討議された。
 1、インターン運動の基本方針は医学教育の充実にある事。
 2、各校報告に基く学生の現状について。
  a 学生と委員の遊離、委員の責任感希薄について。
  b 学校側の圧力に関して。
  c 各校の当面する問題を如何に取り上げ、交流するか。
 3、医学連にインターン対策委員会を包括する事について。
 4、財政問題。
 5、自治会組織のない学校の医学連参加について。
まず、1については京府医大、名大より発言があり、インターン運動が一つの枠に止まる事なく大きく総合された運動の一環として発展すべきこと、授業内容改善運動に止まらぬ事、が強調された。機構に関しては、医学連中央書記局案、インターン中央書記局案と日大案、九州ブロック案の修正動議が出され医学連と九州案の折衷案が賛成35、反対なし、保留3で可決。夜から14日にかけて医学連とインターン分科会が開かれた。

〔14日の総会日程〕
両分科会終了後、総会を開催し、全国統一機関紙、中央新聞を中央執行委員会が発行する事を賛成28、反対1、他は学生にはかり加盟の努力の旨を約した。
最後にインターン対策委員会を医学連の一分科会として強力に運動を押し進め、インターン中央書記局に出来るだけ仕事をやってもらう提案を可決して全体会の議事を終了した。
結成宣言採決、委員長に東大生の遠藤君。また、この日に関東セツルメント連合結成大会が開催された。

1966 (昭和41年)

4月25日 医学連関東ブロック主催のインターン制度完全撤廃決起集会(清水谷公園)に日大も参加。1500名で厚生省へデモ・座り込み。5名重軽傷、医学連デモに始めて武装機動隊が登場して弾圧。日大医学部は厚生省にアッピールをすると風船を持って登場、日比谷公園での総括集会で慈恵や東京医大など関東私学の他大学から「お祭りじゃないぞ」とヤジが飛び乱闘寸前に。 中執と日本医大の隊列が割って入って収める。日頃は暴力反対を言う民青は肝心な時に対応出来ず。

1967 (昭和42年)

3月12日 インターン制度完全廃止を叫ぶ医師国試阻止闘争に日大の卒業生も参加。青医連・医学連700は前夜から旅館など都内泊まり込み、午前六時半に駒込公園に結集し試験場突入をはかったが7名逮捕。青医連は36大学2400人加盟。
受験生3150人中、受験者数は405人にとどまった。仙台では飛行機をチャーターして「今からでも遅くはない、試験場から出て下さい」と呼び掛けた。

1968 (昭和43年)

6月 5日 医学部学生委員会、全学共闘会議を承認。 
6月13日 「日大の民主化のために右翼学生の暴力と大学当局の責任を糾弾しすべての学友と教職員・院生は総決起しよう! 」の民青系「U部法学部学生会。U部経商短学生自治会。農獣医学部学生会。津田沼自治会。」ビラに日本大学医学部学生会も連署。
7月 1日 日大医学生委員会 パンフ「学園民主化の為に」を発行。
9月 3日 当局、9月11日からの授業開始を新聞に公告。
全共闘、日大病院駐車場で古田会頭に合い団交拒否抗議。機動隊出動求するが拒否される。抗議する学友の座り込みに対し機動隊がゴボウ抜きで規制,学生3名逮捕される。
9月14日 日大医学部スト権確立397対80

1969 (昭和44年)

1月13日 日大医学部で教職員、父兄、右翼学生によるスト破壊。スト解除、全共闘より脱落。
5月16日 医学連・青医連全国統一行動に日大結集。全国で2000人、中央集会は500人が清水谷公園から国会・厚生省へデモ。 日大医学部闘争委員会(医闘委)へ12000円カンパ。
スローガン〔健保特例法延長阻止!健保抜本改悪反対!中教審答申案粉砕!医局解体単一青医連結成!第三次研修協約闘争勝利!報告医・専門医制粉砕!防衛大医学部設置粉砕!〕
6月17日 日大医自・6自治会主催の日大闘争破壊、分裂集会へ参加。
8月29日 総長選医学部会場へ乱入、「実力粉砕闘争」スト続行。
9月 3日 学生大会で8日より無期スト宣言、(大学立法粉砕・古田体制打倒・教授会権力打倒)
9月 8日 学生大会で無期スト決議。当局のロックアウトを400人で粉砕。
9月13日 民青脱落後の医学連第16回定期大会へ日大学生会も正式参加。
46大学中42大学結集。29正式代議員、4正式自治会オブザーバー、400名。
大会は会場の東京医科歯科大学が当日未明機動隊にバリ封鎖解除され2名逮捕、ロックアウトされたので日医大に移り開催。慶応の医進課程自治会が加盟。
9月18日  医闘委、教養校舎占拠に参加。
9月20日  医学部教授会に乱入、執行部と団交。本館2階をバリ封鎖。
9月27日  医本館解放闘争に200人で取り組み占拠する。
9月30日  日大全共闘の神田カルテェラタンに医闘委も「五人組」編成で参加。
10月 1日 医学部1回団交予備折衝を持つ。
10月18日 官憲による医学部包囲。
10月19日 官憲導入、医学部ロックアウト。
10月23日 医闘委の医学部奪還闘争(メット80人)。ガードマン・右翼・官憲を粉砕する。以後11月1日まで連日大学周辺デモ。
11月 2日  当局の医学部集会(両国講堂)を完全粉砕。
11月 4日  医学部学生委員会、授業再開に350人で抗議行動。250人で医学部キャンパスへデモ。
11月 5日  医学部で8名逮捕。10月23日 医闘委の医学部奪還闘争に18名の逮捕状。
11月 7日  医学部で授業再開を強行。連日闘争が起こる。右翼とのゲバルト、15日まで。
11月13日 精神科医局スト権確立。
11月17日 医闘委18名の逮捕により大衆的に闘争敗北。
12月 2日  27名処分。
12月 3日  処分撤回医学部本館前集会。100名参加。

1970 (昭和45年)

3月 4日 日大医学部より 中村君虐殺抗議集会へ参加。
3月11日 中村君虐殺弾劾日大全共闘集会集会へ参加。青医連の小島医師、撲殺の真相を証言。
4月  日 12月処分組全員復学。医学部活動者会議への活動家結集。
5月  日 医療反戦登場。一闘委・三闘委が再建クラス委選挙に勝利.
6月23日 医学部40、看学30結集。医療研、文研による活動家再結集
6月23日 全都の看学共闘単独200で戦う。日大看学初参加デモ。(明治公園から日比谷公園まで)
7月  日 医療地区反戦を準備。
9月 2日 看学卒論ボイコット闘争
9月 8日 当局と大衆会見
9月11日 8日に続き当局と大衆会見
9月26日 看学自治会主催の高橋晄正東大講師講演会に30数名の医局員・講師・ガードマンのピケ。
10月 6日 日大看学当局、学生7名を停学処分。
10月16日 日大看学闘争支援カンパ(看共闘)東京。
11月7〜8日 医学連第17回定期大会へ日大医学部学生会が代議員参加。50自治会中29自治会。オブザーバー16校、350人。(於 東邦大学医学部)スローガン「日帝の反革命統合医療体制を粉砕し、階級的医療労働運動の革命的再編を勝ち取れ」
12月23日 日大看学当局、京浜安保共闘系学友に退学処分。レッド・パージ


1971 (昭和46年)

1月20日 日大看学処分撤回闘争を全都200人で戦う。

 

 
 


編者コメント
 全日本医学生連合からみた日大闘争です。
 戦後、普通の学校として再建されるはずの大学が古田体制に染まってゆく。古田への戦いは同じような境遇の関東の私立医大の学友には理解出来、格段の同情がありました。
 自治会の基盤は弱いなりにありましたから、むしろもっとも過酷な運命を強いられたのは日大看学生たちでした。
 将校としての養成されるものと使い捨て兵員の差でしょうか。医師の看護婦に対する当時の意識は学卒の「学士様など手元で使えない」というものでした。

 1970年6月、自分達の旗を持って始めて明治公園に現れたキラキラした彼女たちと、その後の浅間山荘に至る歴史は涙が出る物語です。最初にこちらに来ないかと声をかけなければもう少し違った運命となっていたのではと悔やまれます。


表題について(HP管理人)

編者から寄せられた当運動史の表題は「日大医学部運動史」という題が付けられていました。
「見出しの白衣の天使は 私の言葉ではないから直接はかまいませんが、ここらあたりの論争も当然通過しています。
それで運動の論理ではまずいことはあらかじめ承知しておいて下さい。
聖職者論とかになります。 それから白衣デモは日共はしていますが、私達は止めました。白衣幻想とか大学なら「象牙の塔」、「専門バカ」とかになります。(編者mail)」

私の希望で、日大闘争では語られる事の無かった日大高等看護学院の名前を表題に付け加えさせていただきました。
日大全共闘の闘争の最高揚期には登場することなく、70年も半ば、いわば全共闘の大半が闘争の挫折に打ちひしがれている時期、’70.6.23に彼女たちは登場したと運動史は記しています。
彼女たちの一部は京浜安保共闘、連合赤軍へ行ってしまう訳ですが。その事のセンセーショナルな一面もあり、全共闘の仲間のうちで表立って語られる事はありませんでした。
医学という産別の特殊性もあるとは思いますが、同じ学園民主化に立ち上がった彼女たちが”総括”という凄惨な渦中に身を置いたのか、私は無関心ではいられない思いです。
日大闘争はその規模、問題性の深さゆえ体制・権力が決して許さない局面まで行ってしまいました。
仲間の多くは、その思いをそれぞれ胸にしまいこみ学園を去っていきました。
彼女たちは学園をパージされた後、皆も知る壮絶な経過を辿る事になります。

        元全共闘の皆、彼女たちの事を決っして忘れないで欲しい。


             浅間山の夕焼け

 

 
トップページに戻る