管理人日記 2004年10月 
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■2004.10.31  afternoon   管理人 wrote

情けない、情けない、情けない・・・・・。
打ち合わせが不十分で、正門前に集まったのは私と代表Mさんの二人だけ。
実行委員長にビラ配布を申出ると断られた、とMさんが言う。
私より先に来て、受付の実行委員長嬢に掛け合ったらしい。

実は私、出かける前に妻に冗談半分「今日は学生と乱闘するかも知れないからな?」と言って出て来ていた。
既に、こめかみはピクピクしている。
Mさんに「私も学園祭実行委員長に掛け合う!」
正門前受付に行くと、大人しそうで融通の利かなさそうな女子大生が鎮座している。

昨日の繁華街のビラ撒きで、「明日は地元の国立大学の学園祭へ安田さんの講演会のビラを撒きにいこう」と約束していた。
世話人で手伝ってくれている女子大生も手伝ってくれる手はずになっていた。
この学園祭、メインイベントは関西のお笑い芸人のショー。
前週の街頭行動の際、同じ世話人のGさんにこう云われていた、
「学園祭は芸人のショー以外に何かあると思うでしょうが、そのイベント以外は食べ物の模擬店以外何にも無いんですよ」
そうは聞いていたが本当に模擬店ばかり、遠くでバンドの音が聞こえてくるだけ。

   

「何方のチラシ配布もお断りさせていただいています」
「私達は大学生に是非参加してもらいたいとここに来ている、是非配らせて欲しい」
「学園祭が混乱しますので、管理上お断りします」
「管理上?、混乱するって?」
「チラシが構内に捨てられ、後で片付けるの大変なので・・・・」
「捨てる、捨てないは学生さんの道徳心の問題でしょう、これは営業的な性格のチラシではないのでお願いできないか」

ここなあたりでもう殆ど切れ掛かっていた。
町内会の夏祭り、保育園の夕涼み会、それ以下だ。
学生から”管理上”という言葉を聞くとは夢にも思っていなかった。
私は皮肉を込めて
「私の学生時代は無謀な学生を、年配の方々が諌め宥めた」
「今は無謀な年寄りを、学生が管理上規制する時代なのですね」
「おじさんは勝手にチラシを配らせていただく、規制をするなりどうなりすればいい!」

ここでMさんが「もういいです、止めましょう」とレフリーストップ。
これなら冗談抜きに”赤ヘル"被って、手拭で覆面しビラを配ればよかった。
国立大の体育会系学生に、この老体を羽交い絞めにしていただいても良かった。
実に情けない!




■2004.10.31  morning   管理人 wrote

昨日は4回目の街頭行動、約束の時間に誰も来ていない。
一人で敢行しようと思ったが、待つ事20分Gさんが来られた。
二人でしばし歓談していると代表Mさんも現れ、30分遅れでビラ配り開始。
地元地方紙に紹介記事を載せて頂いたこともあるのか、2・3人がアレッという反応でビラを受け取ってくれた。
今までのビラ配りでは無かった反応だ。

今回の人質事件で安田さんが時折マスコミに顔を出している。
政府の対応は相変わらず、一政策を優先し、国としての本来の義務を放棄した対応。
生死の瀬戸際を経験した安田さんの話は、反戦とか平和とか言う以前に聞いてみたい。
相変わらずTVのコメンテーターには腹立たしい。

ビラ配りの後、珍しく書店へ。
これで2冊目の「チョムスキー、世界を語る」を購入。
以前Gさんが紹介してくれた本だ。
ジャーナリズムに関する「メディア・コントロール―正義なき民主主義と国際社会 」を最初に読んだが今一分からない。
今度買った本を読破してから感想を書きたい。

私は書物を全くと言ってよいほど読んでいない。
学生時代は自分のやっている事の正当性を裏づけしたくて、その手の本を脈絡も無く少し読んだ。
その中でも少し真面目に読んだものはレーニン選集やトロツキー選集。
「異議なし!」という感想は在っても、今には何にも残っていない。
時代の流行で吉本隆明や高橋和巳、マルクーゼ、W・ライヒというものも読んだ覚えがあるが、内容は全く憶えていない。

そんな訳で、脳みそは経験だけが詰まっており、皺は極めて少ない。
初老の手習いで今頃読み出すと、筆者の思想に”洗脳”されてしまいそうで。
色んな考え方を比較対照するほどの脳みその皺が無い。
入ってくる思想(世界)と、私の一人分の経験がどう衝突するか。



■2004.10.27  night   管理人 wrote

今日は朝からヘージの更新どころではなかった。
一昨日、新しい業務システムで初めて支払いのアクションを掛けた。
生成された支払いデータが、ファームバンクシステムに流れ支払い依頼が送信される。
送信は順調に完了した。

銀行から送られてきた支払い結果リストを見て唖然とした。
かなりの支払いデータで、エラーが生じている。
二重に支払いがされている所もある。
頭から血の気が引いていくとはこの事だ。

起きてしまった事は仕方ない。
エ〜イままよ、という全共闘魂で気持ちを奮い起こす。
「命に別状ある訳ではないし」
自分で勝手に納得させながら、手書きの振込依頼を午前中ひたすら書き続けた。

午後からは、払いすぎた先様にご返金をお願いする電話。
最終的にウン千万円ほど支払い過ぎていた。
昼直ぐには、システム会社のSEと部長が飛行機でブッ飛んで来た。
出来れば習志野空挺師団のようにパラシュートで降りて来る誠意を見せて欲しかった。

このホームページで吠えてはいるが、仕事で手を抜いた事は無い。
試行テストではチェックできなかったバグ(プログラムミス)が原因。
天下の大銀行でさえ起こすトラブルだから仕方あるまい、とスクランブルのSEに気休めの一言。
それにしても今日は疲れた、胃が食べ物を受け付けてくれない。



■2004.10.26  night   管理人 wrote

昨夜夕食後、次男坊は早々と自分の部屋に上がったが、長男が居座り母親にしきりに訴えている。
先般の台風で、長男の任されている作業センターが浸水被害を被っている。
被災の翌日から、他の職場の方々が復旧作業の応援に来てくださっているらしい。
復旧作業初日、大勢の応援の方々のために息子は昼食弁当を手配したらしい。
昼前に弁当が届き、皆に配ってさあ食べようとしたら、例の若い職員が見当たらない。

若い職員とは、溢れた水を前に尻込みし自分の職場に着付かなかった二人の事。
何処に居るのかと、念のため彼らの事務所に電話を入れたという。
「こちらで、自分の手弁当を食べています」という電話の応答、ここでブチ切れたと言う。
横で長男の話を聞いていた私、「別に何か問題があるのか?」

ここで、長男のボルテージが一段と上がった。
「父さん、そうじゃないだろう!」
長男に言わすと、わざわざ応援に来ていただいている方々だ、
弁当を配り終え、皆さんが食べ始めるのを確認してから自分らが食べるのが”礼儀”と言うものだ、
と力説する。
早々とその場を離れ、応援の方より早く昼食に有り付いた二人が許せないらしい。

そう言えばそうだが。
ウ〜ンお前、父さんより考え方古いな。
酔いに任せて刷り込んできた全共闘節の影響か、父さん少し反省しなければ。
でも・・・、やっぱりお前の言う通りだ。



■2004.10.26  morning   管理人 wrote

昨日メールを頂いた36才の方から再びメールを頂いた。
母校の学生会館が取り壊されたと嘆いておられたので、松岡さんの後輩に当るのではと昨日の日記に書いた。
「私は白ヘル○中さんの拠点校H大卒です」との事。
学生会館の消滅を嘆いておられた鹿砦社・松岡(元D大全学闘)さんの話の流れで、てっきりそうだと思ったのだが。
大変失礼をしてしまった。

しかし、学生会館の消滅は期せずして同時期。
西の赤ヘル拠点の伝統校、東の白ヘル拠点校、単に時期が重なっただけではない時代の流れのよう。
象徴であった学生会館が物理的に消滅する。
松岡さんの母校D大では学生の自治組織自体が実質的に消滅しているという。
老人は語らない、若者は寄るべき拠点、組織を失う・・・。

私たちの全共闘運動は、個別日大では確かに任侠ストーリーのような特性を持っていた。
その途中で、佐藤栄作が登場し、大学立法が上程される羽目になった。
個別日大で到達したものが、政治の介入で全て反故となった。
途中から、私(達)が意識しようがしまいが、私(達)の主張と行動は変質した。
世の中に対する”異議申し立て”だ。
政治的に意識の低い(皆ご免!)日大生の申し立ては、世の中全部に対する「ノー」だった。
とにかくどうでもいい、全てに「ノン」だ。

途中から学科闘争委員会は、Kくんが丹精込めて作った日大全共闘の名が記された”黒色旗”を担いだ。
黒旗は、世の中に対する”異議申し立て”であり、全てに対して「ノン」の象徴だった。
私よりはるかに若い諸君、
貴方達はたなびく黒旗を見たことがあるか。


1969.1.20 AM7:55
陥落翌朝の安田講堂でたなびく我学科の黒旗、担いでいるのは、ワ・タ・シ。



■2004.10.25  night   管理人 wrote

>先日、我が母校の自主管理の象徴であった学生会館が取り壊されたと聞き、
一つの時代が完全に終わった気がしております。


今日、36才の方からメールを頂いている。
読後の感想とともに上の一文が添えられていた。
多分松岡さんのD大の後輩ではないかと思う。
松岡さん、甲子園だよりでも嘆きに嘆いているが、学生会館の消滅は世代を超えて”衝撃”であったことが伺える。
私の理工学部一号館が、ガラス張り近代的ビルに変貌した際の衝撃の比ではないようだ。
悔しいけど素直に認めます。

加齢現象で、気持ちの抑揚が激しいが。
でも、こういうメールを頂くと、さあ!明日も恥を書くぞ、という元気が出る。

先日のビラ配り風景、世話人Nさん撮影



■2004.10.24  morning  管理人 wrote

>若林さん──あなたも、そして私(〜たち)も、闘いの拠点としていた同志社の学生会館も、今は解体されて、もうありませんよ。学友会や自治会も……。
 しかし、私たちの心の中には、あの堅忍不抜の闘う拠点=学生会館はいつまでも在り続けます。
「Ich war,ich bin,ich werde sein!
(わたしはかつて在り、いま在り、こんごも在る)」(ローザ・ルクセンブルク「ベルリンの秩序は維持されている」)

鹿砦社「甲子園だより」われわれの内なる<1970年代> 7 より引用
10月21日アップロード。

ご案内が少し遅くなりました、続く会議で、週末はダウン気味。
独逸語、懐かしいですね。
私は理系ですので、第二外国語は独逸語を選択。
かなり手こずりました、でも単位は”優”をいただきましたが今は全く忘却の彼方、話せませんハイ!。

1970年頃というのは”赤軍罪”という罪状がありました。
公安にマークされると、どんな理由でも拘束される。
たとえば、横断歩道を渡る途中、信号が黄色に変わると”道路交通法違反”の現行犯逮捕。
彼らはどんな理由をつけてもパクる時はパクる。
嘘だと思うだろうが本当だ。

松岡さんの話で、あらためて思い出した。
仲間が私の借りたレンターカーで検問を突っ切った。
それから結構な期間、公安のマークが付いた。
公安の訪問を受けた研究室の教授が「彼は今はおとなしいですよ」と応えたらしい。
経験したものでしか分からない不気味さ、合法的ストーカーだ。
実家の親、在京の兄、随分な迷惑を掛けた。

松岡さん、さすがだ!



■2004.10.23  morning  管理人 wrote

猛暑と度重なる台風の来襲を凌いで、クリスマスローズがこれから生育期にはいる。
何をやってもイケイケで、走ってしまう性格。
気が付いたら庭中この花の鉢だらけ。
その多さに手を焼き、この初春にはかなり花壇に移植はしたが。
お蔭で、台風が来るたびに避難場所に移動の大仕事、花の心配ばかりしているとひんしゅくを買うが。


昨日で一週間続いた会議がヤット済んだ。
帰り道は一般道で3時間半の行程、堪える。
昨日、往路でもそれだけ掛かっているので、車の運転で7時間程費やした事になる。
帰り着き、2日ぶりにパソコンを開くと、地元新聞社・社会部記者から取材のメールが入っている。
早速、世話人代表のMさんに連絡。

歳の性か、疲れるとセンチメンタルな気持ちになる。
これは疲れだけでなく、加齢による”回顧趣味”なのか。
途中で立ち寄ったドライブイン、コーヒーは飲み過ぎで珍しくレモンティーを注文。
三日月形にカットされ、添えられたレモンを見て”喫茶レモン”を思い出した。
早速、帰り着きレモンの甘酸っぱい思い出を書く。

よ〜く思い出すと、喫茶レモンの眼下でゴーーっと走り抜けていく電車は、神田川を跨いでいく地下鉄丸の内線だったような気がしてきた。
ま〜あ、私の心象風景だから、細かい事はいいか。
丸の内線は赤い車両だったのでは?、
車両の赤とレモンのイエローが私の心象に刷り込まれている。



■2004.10.22  night   管理人 wrote

聖橋と御茶ノ水口との中間に画翠(画材店)があった、名前は”レモン”
4〜5階の建物で、階毎に油絵、水彩、日本画というように画材の種類が分けられていたように記憶している。
画材を眺めながら上がっていくと、最上階に喫茶店があった、その名も”レモン”
画翠に喫茶店、御茶ノ水らしいオシャレな取り合わせ。

絵を描く方、興味のある方は、順番に階を見ながら最後に喫茶レモンに行き着く。
絵画に趣味の無い方はエレベーターで直行。
私は絵には殆ど興味が無い、見ていても特段感じるものが無い極めて不調法。
絵は難解で、如何してもインプレッションが沸いてこないのだ。

北側の窓からは遠くに湯島天神や順天堂医大が見える。
眼下には神田川、その傍を中央線と総武線が走る。
オレンジ色とレモンイエローの電車がゴーゴーと走り抜けていく。
窓際の席は滅多に空いていないのだが。

御茶ノ水駅を利用する大学は結構多い、それに色んな学校もある。
美術学校や池の坊、文化服装学園もあったな。
レモンにくる客はそんな身奇麗な女性客が大半。
周りにいる綺麗なお姉さんを見るもの勿論目的の一つだが、窓から眺める風景がとても好きだった。

その中に薄汚れたジャンパー、綿パン、頭は長く洗っていないむさ苦しい学生。
近くに寄れば、襟や袖は汚れ、汗臭く臭っていたかもしれない。
学生街の御茶ノ水で無ければ”ご入場”を断られたかもしれない。
私はそんな障壁を意に介さずよく通った。

その店名からして”レモンジュース”。
評判のメニューで、生レモンがたっぷり入って結構酸っぱいが。
「好きな子と一緒に、このレモンジュースを飲めたら・・・」
その時から今まで一度も実現していない夢が10年ほど前に潰えた。
久々に訪れた御茶ノ水、画翠から喫茶レモンが無くなっていた。

画翆レモンの最上階、喫茶”レモン”。
オレンジ色とレモンイエローの電車を眺めて過ごした時間。
あの甘酸っぱいレモンジュース、貴方は憶えていますか。

催涙ガスにはレモンが効くと誰かが言い出した。
出かける前に救対ビラとレモン一個ポケットに。
そんな”時代”を憶えていますか。

あの子が突然出てこなくなったバリケード。
立川発梓号、ジャンパーにビーチサンダルで信州に。
あの子の頬の林檎色、憶えていますか。



■2004.10.21  morning  管理人 wrote

昨夜は夜も更けて帰ってきた長男、珍しく”しらふ”。
両親、弟を前に、昨夕起こった騒動を報告してくれた。
台風の影響で、長男が任されている作業センターの前の小川が氾濫したらしい。
あれよあれよという間に、作業センターは膝まで浸水。
センターには沢山の機器類や、コンピューター駆動のベルトラインがある。

丁度、本部の部長と所属長、取引先と長男の4人が打ち合わせをしていたらしい。
取引先はスーツ姿、本部部長もそれなりの身なりをしていたが、スーツやスラックスをずぶ濡れにして床のもを高いところへ担ぎ上げてくれたらしい。
長男には、部下に当る若い職員が数人いるらしい。
直ぐに携帯電話で事務所からこちらに急行せよと指令を出した。

作業センターの前の道路まで来ていた若い職員、いくら待っても来ない。
携帯で連絡を取ると、腰上まで水に漬かりそうだから行けないという返事。
息子は「やかましい、そんな事はどうでもいいから早く此処へ来い」と怒鳴ったという。
その旨を所属長に上申すると、「来ないとぶっ殺すと言え」と更に過激。

結局水が引くまでの2時間余り、応援無しで4人プラス、センターにいた数人で全身ずぶ濡れになって機器類やコンピュターラインを守ったという。
取引先のスーツは、もう着るにはならないだろう。
でも取引先、”最高”の営業活動をしたことになる。

弟が、「兄ちゃん、それでその若い職員はどうなるの?」
兄、「・・・・・・・・?」
オヤジ、「そりゃ〜、ぶっ殺されるだけよ、終わったなその二人」
弟、「でもね、無理して行って、小川でも落ちたら危なくないか?」
兄、「危ない?・・・別に、泳げばいい!」

人間、普通でないときにどう行動するかで、ある意味その人間の本性が出る。
兄はオヤジのDNAが濃〜く遺伝している。
弟は少し薄いかな。



■2004.10.21  morning  管理人 wrote

1970年も半ばを過ぎる頃から、もう気持ちはボロボロ。
唯一の支えは仲間と音楽だった。
aaghさんの云うジョージのファンキィーや、新宿、高円寺、阿佐ヶ谷にはよく通った。
私はJAZZもROCKも両方好き(今はクラッシックも)だったので、ジョージのビバップにも通ったな。
ビバップは、クリームやジミヘン、ジャニス・ジョップリンをガンガン鳴らしていた。
ビートルズが掛かると、皆が床を踏み鳴らしたものだ。
中野のサンプラザの何階かにあった、名前も忘れたJAZZ喫茶も良かった。

     Fanky

とにかくジョン・コルトレーンは強烈だった。
メディテーション、インプレッション、ラヴ・シュプリーム。
救済と癒しの音。

’68〜’69のリアクションは、それから30年以上の沈黙だった。
今日は10.21、そう云えばかつて”国際反戦デー”なんて有ったな。



■2004.10.20 night   管理人 wrote

私の場合、地方のとあるメーカーに就職が決まっていた。
4年の秋、詰襟学生服に身を固め試験を受けた。
日当に旅費までいただける、今では夢のような就職試験。
時代は佐藤栄作から田中角栄に代わり、日本列島改造にまっしぐらに突っ込んでいく矢先。
就職先は贅沢を云わなければ幾らでもあった。

メゲタ心で、出来れば東京と私の実家の中間距離くらいの地方都市に暮らそうと思っていた。
東京は・・・・・、私には辛すぎた。
就職は順調に、ほぼ思い通りの地方都市に決まった。
後は卒業を待つだけ・・・・・だったが。
必死科目を一科目だけ落していた。
この科目、数学科で数学、物理学科で物理を落すと同じような必須中の必須。
2月に早々と留年が確定した。

正月が明けた頃から、内定の会社の人事から「一度会社訪問に来い」という催促が入り始めていた。
その会社、就職試験は東京会場で受けたので、一度も訪れた事が無かった。
結局一度も会社訪問すること無しに、ご辞退いたした。

でも今思う。
生産メーカーの会社、入社していれば多分今頃はリストラの憂き身。
良くても系列へ放り出されているのが関の山だろう。
時代の勢いで大量採用された団塊世代、後の世代にとっては邪魔者以外の何者でもない。
殆ど負け惜しみだが。



■2004.10.20  morning  管理人 wrote

妻が、洗濯に出していた次男坊のスーツを慌てて探している。
今日、次男坊は採用が内定している人事部に面談に行く予定。
妻は、採用試験を受けに行く時と同じくらい気を揉んでいる。
予定は9時というが、本人起きてくる気配が無い。

人事部との面談は、年内中に一度だけ出て行けばよいとの事。
採用通知が来たのが8月末だったので、もう1月以上経っている。
一緒に受かった方たちは、既に全員出向いているらしい。
のんびりしていると云うか、妻が気を揉んでいる。
息子は相変わらずボサボサ頭。
「いいよ、このままで」

   

頼むぞ息子


■2004.10.19 night   管理人 wrote

ミディアンテンポのフォービート。
心臓の鼓動と共振する。
ウオーキングベースも良い。
疲れた体なら尚更良い。

フィフティーズのビーバップ。
GO A HEAD
タイトなフォービートが、サックス、ピアノ、ペットを噛む。
トレーンのバラードを聴いてみろ。

ヤバイ集会に出かける儀式は、黒いお皿のコルトレーンだった。
6/8の滑らかな拍子の上で、トレーンが咽び泣く。
A LOVE SUPREME A LOVE SUPREME A LOVE SUPREME
ポケットを空に、救対のメモを大事に捻じ込む。


   

今日もかなりハード、疲れているな。



■2004.10.19  morning  管理人 wrote

昨夜は缶ビール一本で早々とダウン。
妻が北海道民芸家具のカタログを手にしきりに話しかけてくる。
何でも、カタログで家具店に注文すると表示価格の6掛け(60%)で購入できるらしい。
気合が入っている、「若い頃からこれが欲しくて夢だったの!」

「貴方が欲しければどうぞ(財政を握っているのは貴方だから)、でも置く所あるの?」
我が家は建て替えた時、今時の家に習い大きな収納スペースや作り付けの収納家具を備えた。
タンスや書棚、その他家具類は必要ないのだが。
こういう”合理的”発想が宜しくないらしい、生活の潤いは不必要なものも必要な事が”合理”らしい。

早々と寝たせいで、今朝はいつにも増して早起き。
昨日BBSに書き込みのあったaaghさんから書き込みがあっている。
明大仏文卒、元ジョウキョウ(ご自分で表明している)、と云っても多分お分かりになる方は稀だろうが。
東京幻想旅行記のたかし・Yさんも確か仏文卒。
理工系とは、感性の緻密さのランクが違う。

aaghさんのホームページ、「チェンマイから」と「ダンプスまで」を読む。
何かプツンと切れた存在感、紛れも無く時代を共有した方だ。

before this dance is through
I think I'll love you too
I'm so happy when you dance with me

これって、歌詞なのかな?



■2004.10.18 night   管理人 wrote

午前、午後をぶっ通しての会議の進行役。
エンドユーザー(顧客)を相手の会議なので全神経を使う。
この手の会議を司った夜は、決まって胃が痛くなる。
齢を経た無神経さは誇っても、胃は極めて軟弱で直ぐにストライキ状態。

今週は5日勤務日中、3日の会議と移動日1日。
殆ど出張り状態、若い頃はなんでもなかったのにとにかく辛い。
いくら此処で吼えても、やはり歳をひしひしと感じる。
頭も禿げて来たところだし、早く定年を迎えたい。

50を過ぎて憶えたホームページ作成と画像処理のテクニック。
ここまで役に立つとは思わなかった。
口うるさいオヤジが、Webの技術を持つとこんなにうるさく吼えまわる。
日本中の団塊の世代がWebを習得すると、世の中きっと”騒乱状態”になるのに。

しかし人並みの仕事をして、今日は吼える馬力が無いのだ。



■2004.10.18  morning  管理人 wrote

昨晩、安田さんを招く会・代表世話人のMさんがチケットを取りに自宅近くまで。
以前もビラを取りにこられたが、近くのJR駅前で密会。
妻に「Mさんにチケット渡しに駅前まで出掛けるとよ」というと、
「是非、家に来ていただいたら」と云う。
妻と三人で夕刻の”ティータイム”を持った。

妻曰く、「なかなか芯の強そうな方ね」。
そりゃ〜そうだ、この濃いおじさん連の代表世話人だもの。
この代表がまた一つ課題を持参してきた。
その課題とは「沖縄琉球国際大学・米軍ヘリ墜落・写真展」

   画質は非常にいい

既に関係者の方とはコンタクトを取り、50数枚収録されたCDロムを取り寄せている。
先日、PCに取り込む”ご指導”をさせて頂いたばかり。
その為に彼女、最新型のノートパソコンを即決で購入している。
それもSONYのバイオで、うらやましい限り。
つくづく、女性の決断力の早さには感服する次第。

A4サイズで、プリントショップでプリントすると1枚で800円ほどすると云う。
50枚で4万円程。
またまた脇役で、私の今まで磨いてきた画像処理のテクが生かせそうだ。
それと、展示するフォトギャラリーも、心当たりを当たってみなくては。

学生を当てにするのは止めとこう。



■2004.10.17  noon  管理人 wrote

やるせない話の他に嬉しい話も。
金曜日、夕方次男坊は飲み会に出かけていった。
次男坊に飲み会は珍しいが、就職試験の面接会場で仲良くなった例の仲間たちとの飲み会らしい。
その夜は結局帰ってこず、土曜日の朝帰り。
珍しい事で尋ねると、中の一人が午後10時閉鎖の公営駐車場から車が出せなく、朝まで皆が付き合っていたと言う。

土曜日夕方ビラ配りから帰ってくると、やっと起きた息子がビラを差し出す。
「このビラ、父さん達がやっているものだろう」
息子の持っている安田さんの講演会のビラは青い紙、少し印刷も不鮮明。
世話人会で刷ったチラシは白い紙を使っている、青い紙には覚えが無いが・・・、確かに私達の講演会のチラシ。
「このチラシ、何時何処でもらったの」と尋ねると、昨日金曜日、繁華街で夕方配っていたという。

  玄関脇、秋明菊が秋風に揺れている

これで納得した。
地元のアムネスティー支部の方々が、毎週金曜日に定例で街頭行動をしている。
アムネスティー支部の皆さんは、協力しますと言ってくださっていたが。
まさか、自分たちでチラシまで刷り増まして、街頭で配っていただけるとは予想していなかった。
アムネスティー支部の皆さん、私と同じ世代かそれ以上のご高齢の方が多数。
あり難い、真にあり難い。

俺は胸を張って言う!
「今の若い奴は・・・・。」
おじさん、その内お前ら”挑発”してやるからな。



■2004.10.17  morning  管理人 wrote

安田さんを招く会の街頭ビラ配り。
何も変装するつもりでは無いが、頭頂ハゲを隠すため慣れない帽子を被り登場、これで二度目。
なかなか受け取ってくれない、キャッチセールのチラシを配る若者とは明らかに風体が違うのに。
4名が、60才台2名、50才台2名で合計年齢が230才、道行く人も戸惑うだろうけど。

30才〜40才ぐらいの男性はまず受け取らない、いや絶対受け取らない。
カップルも殆ど受け取らない。
受け取るのは若者、中年のご婦人。
働き盛りの男性は、オーラの様なバリアーを感じる、多分私もそうだったのだろうけど。

ビラ配りを始める前、同じようにビラを持った学生の集団が居た。
その数10数名、塊になってなにかボソボソ話している。
手に持っているビラを眺めると、地元国立大の学園祭の案内ビラの様。
私達が配り始めても、一向に配り始める気配がない。
親近感もありその集団に近づいていった。
「お〜い、学生さんたち一緒に配ろうよ」
ちらっと女子学生がこちらを振り返ったが、その顔には表情が無い、つまりニコリともしないのだ。

近づいていってリーダーと思しき男子学生に、交流のつもりでビラを渡そうとしたが受け取らない。
「何だ、この学生たちは!」と思ったがすごすご引き返してきた。
その後、学生たちは二手に分かれて、私達と遠く離れた場所でビラ配りを始めた。
ビラ配りも終わり際、学生に議論を吹っかけ挑発してやろうかと思ったが。
「止めとけ、今の学生あんなものだよ」、50才の世話人Mさんに押し止められた。

・・・・・やるせない気持ち。



■2004.10.16  morning  管理人 wrote

危ない話は自粛して。
授業再開があり、集中講義と単位バラ撒きの試験が次々に行われた。
屈辱に絶えながらも、試験に臨んだ。
中には革命を標榜し突き進んだ仲間も確かにいるが、私(達)を含む大半の者が目指したのは、かなり乱暴な過程であったが、学園民主化であり、それ以上ではなかった。
大学を辞し、去る仲間は周りには居なかったはずだ。

試験は、机右上に学生証を置いて受ける。
問題用紙を配る際、試験官である教授や助手、院生が本人をチェックしていく。
大半の試験は問題なく受けれたが、一科目だけこのチェックで引っかかった。
私の顔と学生証を見比べ、学生証を掴み取り持ち去ろうとした。
エッ・・!、とした表情をして見上げると、その助手は憎憎しげにこう言った。
「お前たちには試験は受けさせない!」

  my blue sky

学内がかなり沈静化してきた時期だ。
ロックアウト解除後は、ストに批判的だった(株式会社日本大学の従業員)の助手は、全共闘の力を見くびって、こう云う様な行動に出てきたのだ。
私が立ち上がると、すかさず5〜6名の仲間が立ち上がる。
教壇に向かうこの助手を後ろから組み倒し、捻じ伏し学生証を取り戻す。
この後徹底的にこの助手を”恫喝”し、二度とやらない事を約束さす。
やられたらやり返す、この精神はバリケードで染み付いた全共闘のスピリッツだ。

この後、これで収まらない仲間がとった行動。
コーラのビンに液体を入れる。
ビンの口に布を差し込む。
この液体入りコーラビンを、助手の居る研究室のドアの前に置いてくる。
これは、心理的且つ”現実的”な警告だ。
助手当人と研究室がこの液体入りビンにどう反応したか知らないが。

やっぱり、話は危なくなるなあ。



■2004.10.15 night   管理人 wrote

鹿砦社・松岡さんから
>最近はずいぶんと”危ない話”も多くなりましたね(笑)。
というメールを頂いた。
実録版で”壊した”とか”爆薬”とかいう話、そう云えば穏便な話ではない。
少し自粛する必要があるかも。
松岡さん、「甲子園だより」われわれの内なる<1970年代> 6、を本日アップロード。
タイトル「 プロテスト群像──ある寮母さんの想いと寮生との絆 」
週一ペースで頑張っている。

文中の端々に、私を上回る思いの強さがにじむ。
>かつては気づかなかったが、砂野さんが、これほどまでに若い学生の闘いを支えたのには、戦時下にあって戦場に送り出された寮生の姿が、まだ若くして寮母として就任した砂野寮母の、物悲しい青春の残照としてあり、これが原点となっているのではないか、と最近思うようになった。私のような生来愚鈍な者でも、50歳も過ぎれば、そういうことが判ってくるようになってきた。
無断引用、松岡さんご免!


■2004.10.15  morning  管理人 wrote

ロックアウト解除後、一号館校舎のみならず全ての校舎の門や窓に鉄格子がはめられた。
日大アウシュビッツ体制と呼んだ、この言葉も懐かしい。
しかし、校舎や施設をどんなに厳重にしても、学内の大学と学生の力関係はそれ以前と逆転していた。
体育会は怖くないし、以前のように大手を振って学園内をのさばることは無くなっていた。
見えないところでは隠然と勢力を保っていたろうが。

1、検閲制度を撤廃せよ
1、集会の自由を認めよ

この要求は1968年9月30日の大衆団交で、大学理事会に認めさせ、その翌日当時の佐藤栄作首相の直接節介入で反故にされた。
しかし、バリケードストライキ以降卒業まで一度として表現に検閲を受けたことは無いし、集会の許可を取った覚えも無い。
学内集会を開くのに大学に許可をお願いする、という発想自体がバリケード闘争を通じ既に無くなっていた。

それまでの日大は、現状に批判的な発言をしたり、批判的な集会を開うとすると、露骨で暴力的な妨害を受けた。
個人的に体育会系に付狙われるなどして、徹底して個人も集会も潰された。
個々ではひ弱な日大生が共闘会議を形成し、この体育会系の暴力装置と正面から対峙し、200日を越すバリケードストライキを打ち抜いた。
体育会系の度重なる激突にも一歩引かず撃破してきた。

私たちは個別日大では決して負けていない。


■2004.10.14  night  管理人 wrote

1968年を綴る目的で書き出したが、’69や’70にどうしても話が進む。
出来れば’68だけで、’69以降は余り思い出したくはないのだが。
それだけの事やって、お前ら教室に戻れたのか?、当然の疑問。
私の身近な範囲(学科)では、誰も”処分”はされなかった。

バリケードだけでなくロックアウト、授業再開、またそれ以降もかなり暴れた。
ロックアウトされてからも、度々奪還闘争を繰り返し、一号館に乱入した。
天野屋さんも居たと云う一号館奪還・乱入闘争は、丸太でブロンズの正面ドアをぶち抜いた。
ぶち抜いたドアから飛び込むと、目の前に光るものがある、思わずゲバ棒を打ち下ろした。
正面の天井近くまである大鏡がバラバラと砕ける。

その足で教務課(学生課?)に飛び込んだ。
授業再開を阻止するため、何とかダメージを与えないとと近くにあった消火器を取った。
室内のデスクというデスクに消火器をぶちまけ、課室は真っ白。
もう自分が何をしているのか分からなかった。

200日を越すバリケード篭城、度重なる奪還闘争、そして授業再開阻止闘争。
私らは外に遠征して暴れるのではなく、主に自分の学園の中で暴れる。
それでも、学科2闘で処分を受けたものは居ない。
理工学部でも最強を誇った行動隊が無傷で生き残っていた我が学科、教授会も怖くて処分が出せなかったのだろうか。
本当に処分をしようと思うと、その数は全学で万は下らないだろうし。
授業再開以後、結構露骨な嫌がらせは受けたが。

授業再開から少し経って試験があった。
とにかく単位をばら撒き進級させねば、経営に差し支える。
株式会社「日本大学」は深刻な経営危機に面していた。
全共闘だろうが、スト無関心の一般学生であろうが、誰彼なく単位をばら撒いた。

処分などして、また最強の全共闘に火をつけたくないのだ。
強権的な対応が決して良い結果を生まないと言う事を身をもって学習している。
のしを付けて、早くトコロテンで押し出したかったのだ。
’69以降の事は少しずつ話そう。




■2004.10.14  morning  管理人 wrote

昨夜、少し物騒な講義の話をしたが、かつての実験テキストがあった。
でも、何故か私の物ではない。
工業化学科Sくんの名前が記されている。
Sくんは最近時々工化OBでBBSに書き込んでいただいている同期の方だ。


やっぱり真面目に実験に出なくて、テキストやノートを写させてもらっていたのか?




■2004.10.13  night  管理人 wrote

文書を綴っていく上での一人称が乱れ始めている。
気分で、私、俺、僕、が入り乱れ始めた。
どの一人称を使うかによって、結構文章のイメージを決めてしまうから。
熱が入ってくると俺になり僕になる、私はもの書きでないので、さてどうするか・・・、
どうでもいいか。

   今日は夕焼けでなかった

高校時代から、学力レベルは別として数学や物理、化学が好きだった。
対照的に国語や英語は苦手、古文にいたっては教科書を開けるのも嫌、取り敢えず理系タイプ。
・・・と思っていたが、入学してみると”優”が付くのは英語や文系の単位ばかり。
大学の理工学部に、工業高校から進学してくる方達が居たのは私の想定外。
彼ら一年次の基礎実験や基礎科目は、既に高校で履修している。
これには遅れをとり苦労した。

二年次、闘争に入る以前の学期早々に選択科目で高等数学を履修した。
この時の授業は印象に残っている。
出された設問のなかの一問、「ゼロの概念を述べよ」
「ゼロはゼロでしょう、何にも無いのがゼロ」では答案にならない。
数学的且つ哲学的に深められた答えでなければならない(力が入っている)。
こういう問答が嫌いでないので、結構文系かも。

1970年過ぎの三年次後期か、四年次前期かは忘れたが、人気の選択科目があった。
その名も”工業爆薬”。
普通は、土木科とか化学科の学生が履修するが、この年の履修生は多学科に渡った。
それも履修生多数で教室もあふれ出すほど。
勿論私もしっかり履修したが、教室を見渡せば全共闘落ち武者多数。
これに焦った教授、カリキュラムの一つの”雷管を支給しての感度実験”は最後まで行わずに終わった。
実験に使ったダイナマイトは助手がしっかり回収していった。

爆薬は、化学の知識があれば農薬でも何でも簡単に出来る。
問題は”雷管”なのだ。
今でも”発破師”の学科免除の受験資格があるよ。


■2004.10.13  morning  管理人 wrote

そうか、御茶ノ水トライアングルの明大の事を忘れていた。
経闘委ホームページ→日大全共闘博物館→三崎町界隈・古戦場散策と辿ると、当時の明大学館という3枚の連続写真がある。
昨日、BBSに有志の書き込みがあった。
確かに、日記10日に載せた写真は大変お世話になった明治大学・学館だ。
一時、この角の4階か五階の一室に居候していたことがある。
ウ〜ム、悔しいが決定的な連続写真を見せられると、中大赤レンガ校舎説は脆くも崩れた。

頭の中で時系列がグチャグチャになっているが、このときは1969年4月12日?
そうなら、踏み倒された立て看の「4.26」が時系列で整合性を持つことになる。
この後機動隊は明大学館へ突っ込み、中にいた学生の誰も彼もを全員検挙したのでは。
1969.4.12 法・経奪還闘争、明大学館前にて2000名結集、お茶の水周辺を解放区に。
機動隊明大学館に乱入し、128名逮捕。(経闘委年表より)

このマル機が、Kくんと私(達)のマドンナをパクったのだ。

この時の詳しい状況はもう殆ど記憶に残っていないが、
明大学館で集会を開き、法・経バリケード奪還に明大通りにデモを繰り出し激突。
機動隊、催涙弾の水平撃を仕掛けてきた記憶もある。
誰かさんが駅前交番の屋根に上がり、神田解放区の看板をぶら下げたのもこの時かな。
御茶ノ水一帯の”騒乱状態”は何度もあったので、記憶が不確かだが。



■2004.10.12  night  管理人 wrote

中央大学の今は無き駿河台キャンパス、赤レンガ校舎。
懐かしい校舎中庭の写真を見つけた、パクリで載せるよ、中大OBさん。
逮捕礼状が出ている中、久々に僕等の前に秋田さんが登場したのもここだったと記憶がある。
写真、演説するのは羽仁五郎、1969年2月11日。

ちなみに、日大闘争年表1969.2.11に『2.11 「日大闘争勝利五万人集会」に50000名参加』とあるのは、この中大校舎中庭の集会なの?
潜伏中の秋田さんが登場したのはこの集会?

 

それと、私はこの校舎で中大理工学部を受験した。
嘘だと思うだろうが、結果は”合格”。
高校の受験指導の教師に相談したら、「そりゃ〜理工は日大だよ」の一言に田舎小僧すっかり騙された。
それと、日大があんな”激烈”な大学とは入るまで知らなかった。
その教師、後で知ったが”日大出身”だったんだ、嘘のような本当の話。
中大に入学していたら、俺の人生変わってたかな。


■2004.10.12  night  管理人 wrote

昨夜は、夜遅くまで兄弟の話し声とギターの音が聞こえていた。
28才と24才の兄・弟。
下手くそな音だったので、多分兄が弟に手習いしていたのだろう。
次男坊はそれなりの音だから。

7年前、次男坊を大学の入学祝にと楽器店に連れて行った。
「どれでも、好きなギターを選らんで良いよ」
ヤンキー息子が全くの予想外(学校もウッ・・・)、大穴で大学に受かって、私も有頂天だった。
どれでも良い、と言うのに値段ばかりを気にしている、
質素に育ててきた子、オヤジの言うことを半分しか真に受けてない。

オズオズと選んだのが、昨夜兄が弾いていたエレアコギター。
アコーステックギターにマイクを内蔵したギターで、アコーステックとエレキと両方に使用できる。
京都では隣室を気にして、余り弾けなかったらしい。
それにしても、兄のギターは聴くに堪えない。

   夕焼けになり損ねた空

私が酔狂で買ってきたヤマハのソリッドギターでバンドを始めた。
高校の学園祭で、当時のジュディー&マリーというバンドのコピーを演奏した。
広い体育館で観客は僅か、ボーカルは可愛い同級生の女の子。
親がバンドのきっかけを作るなんて、変わった家だと友人に言われたらしい。
バンドにヤンキー、彼の高校生活は充実してたのか知れない。

3年前に家を建て替えたとき、妻と話した。
新しい家で、家族4人で暮らすことはもう無いだろうと。
柱に刻んだ子供の成長、壁に書かれた幼い頃の落書き、(祖)父母を看取った6畳の部屋。
思い出はみんな無くなってしまったけど。

しかし、早寝早起きの私には、夜遅くまでの笑い声と下手クソなギターの音は辛かった。


■2004.10.12  morning  管理人 wrote

− 速報 −

一昨日10日の日記に掲載した、駿河台の中大校舎と思われる写真の評定がでた。
中大OBさんの評定は「○」。
日大理工学部一号館斜め前の、今はドでかい三井住友海上のビルが建っている、かつての中大赤レンガ校舎に間違いないとの事。
ちなみに立て看板の「健保」とか「PM4〜」の内容は、中央大学の夜自(夜間自治会?)のものではないか。
また、69年のカルチェラタン闘争では、ここまでの最深部に入ってきた機動隊は滅多滅多にやられて、写真のような状況ではなかったので違う、と中大OBさんは伝え聞いている。
・・・・・というコメントが書き添えられていた。

地勢的には、結構私の推測も的を得てたようだ。
では、一体何でマル機(機動隊を呼ぶ業界用語)が日大理工学部一号館前を走りぬけているのか。
いつ頃なのか、何の”イベント”なのか。
道路中央で踏み倒されている夜民(二部民青、私らはこう呼んでいた)の立て看は?

この写真が日大全共闘の手によって撮られたということは、やはり日大全共闘の”イベント”ではないか。
市街戦を交えた際、近くにあった夜民の立て看を引っ張り出してきたのだろう。
理工学部バリケード奪還闘争では?
ブントさんの立て看は、失礼で(怖くて)もって来れないだろうから。

中大OBさん、貴重な”評定”ありがとうございました。
考古学的に歴史を紐解くことも、結構面白いですね。


■2004.10.11  morning  管理人 wrote

1968年10月11日
□ ソ連、チェコ侵攻に抗議した知識人にシベリア流刑の判決
□ 南ベトナム解放戦線代表、パリ到着
□ 米アポロ7号打ち上げ
□ 東京外語大全共闘無期限スト入り
□ 中大、大講堂で大衆団交
□ 駒澤大全共闘と応援団が乱闘
□ 福島大で学長辞任

当時たった一日で、学園紛争(マスコミはこう言っていた)もニュースが結構あった。
この後10月14日、あの歴史に残る火炎瓶投げ合い(新聞はこう報じていた)の、日大郡山工学部バリケードへの体育会系の襲撃事件が起こる。
朝日新聞、都内発行の同日夕刊には「火炎ビン、投げ合い乱闘」「本館占拠派と一般学生」との見出し。
”一般学生”には苦笑する。
当時の日大は、”一般学生”が未明にヘルメット、火炎瓶、それに空気銃まで持って押しかけてくるらしい、笑止物である。

   1968年10月14日、朝日新聞夕刊

朝日記事本文には”午前三時、体育会系学生約百五十名”と書いており、
当日の毎日新聞には”午前一時ごろ四年生を中心とする一般学生二百五十人”と書いてある。
新聞なんかいい加減なものだ。
どちらが先に火炎瓶を投げたかは定かでないが、真っ暗闇で火炎瓶の飛び交う激しいバリケード攻防戦が闘われた。

バリケードから一歩も引かず、名実とも死守した工学部四闘、今は亡き大塚先輩を偲ぶ。



■2004.10.10  noon  管理人 wrote

 転載承諾済

どうも勘違いしていたようだ。
機動隊は頻繁に御茶ノ水通りから明大通りへ一号館前を駆け抜けていった。
建物の角に当たる部分が理工学部1号館の正門と思ったが、ホームページ「日大理工学部一号館の記録」の写真を見ると、明らかに窓の形状が違う。


踏み倒された立て看板に「4.26」と見える。
もし、建物が理工学部一号館なら、1968年4月26日前後には駿河台にこういう風景は無かったはず。
69年なら、日大闘争史(経闘委)に照らすと、新入生・移行生歓迎集会となるが、立て看の雰囲気が少し違う。
いずれにせよ、建物は日大理工学部一号館ではない。

ア〜ア、格好悪い。
懐かしさが先にたって、経闘委ホームページに使わせてくださいとお願いしたのに。
写真の所有者にも了解を取って頂いたのに。
冷静に見れば見るほど違う。

私の推測は、当時隣向かいにあった中央大学の赤レンガの校舎ではないかと思う。
そうだと、機動隊は明大通りから御茶ノ水通りへ、理工学部一号館と中央大学の間の通りを”進軍”している構図となり、写真は一号館正門あたりから撮られたものだ。
ひょっとして、中大ブントさんのカルチェ(バッグではないよ)ラタン闘争かな?
通りの雰囲気は、駿河台のものにほぼ間違いないと思うのだが。
中大OBさん、違うかな?
経闘委、2004.3Kさん、早とちり済みませんでした。
でも、機動隊、私らより格好いいなあ!



■2004.10.10  morning  管理人 wrote

次男坊は地元の新聞社を3回(3年)受験した。
受験する前から知人に「コネクションはあるの?」と聞かれた。
地元新聞社は地域経済に深く関わっている、全国紙と違いコネクションが必須だと多くの方から言われていたが。
平々凡々、庶民の私に「息子をお願いします」とお頼みするような実力者の知り合いは居ない。
親の力の無さを「男は素の勝負よ!」と、励ましてやるのが精一杯。

全国紙、出版社もコケ、この地元紙もコケてコケて、コケ続けた。
最後は、受付の”おばさん”(息子の表現)がニコニコと笑顔で接してくれるようになったと言っていた。
息子は3回とも一次の学科・教養は難なく通過し、面接まで進んだ。
その面接も、息子の報告は「面接官の反応もバッチリ!」
親は3回とも、息子以上に期待が膨らんだのだが。

経済後進県で有力企業が少ない私の県は、地元新聞社は県内で有数の大企業。
裾野に沢山のファミリー企業を抱え、田舎コンチェルンを形成し、新聞社はその頂点に立っている。
新聞社が株式会社で、営利企業である事は忘れがちだが、狭い一地域で情報ツールを独占しているという事は他を圧倒する有利な強さを持っている。
都会のように大手新聞、地方紙が入り乱れている所は分からないだろうが、
私の地域では”唯一の地元新聞社”であり、他を圧倒する購読部数を誇っており、地元紙の論説が、世論と履き違える事がまかり通っている。

息子を落したから憎さ百倍で云うのだな、と思うだろう。
その通り、私は極めて単純明快。
妻に至っては私の比ではない、二人揃ってバカ夫婦。
でも、自分の力の無さは棚に上げ、他にも幾つか理由もある。

立川自衛隊官舎へのビラ入れで不当逮捕された一件を、事件1週間後くらいに投書した。
直接、社にも電話を入れたが「共同通信社より配信が無いので知りません」と、一切無視。
アムネスティーがアジアではスーティーさんに続く”良心の囚人”と認定してから、その事実だけをやっと報道したのが一月もとうに過ぎる頃、権威にはなびく報道姿勢。
安田さんを招く会代表世話人のご婦人も、イラク人質事件で投書したというがこれも無視されたという。
そんな思いが仲間とWeblogを立ち上げた動機ともなっている。

4回目さすがに、息子は地元新聞社はいくら受けても掛からないという”学習”が出来たようで、地元ではそれよりも難関と言われている試験に鞍替えした。
これはコネも何も無しで、一発で受かった、
人生て、こんなラッキーな事もあるんだ。
しかし、運が良かったんだろうが、バカ親としてみれば「ザマー見ろ!」だ。

その息子を駅に迎えにいっていた。
車の中で、「父さん藤本敏夫さんて先輩なんだね、知らなかった」
彼が新聞学科の同窓生に聞くと「あ〜、あの”大地”の人ね」位の認知度らしい。
私は大いに不満である。
こんな素晴らしい大先輩を持って、お前達は贅沢極まりない。



■2004.10.8  night  管理人 wrote

学生諸君に警告する!
直ちに解散しなさい!
諸君の行動は、都公安条例(?)に違反している。
これ以上を警告を無視し解散しないと全員検挙する!

機動隊の指揮車から、スピーカーがガ鳴り立ててくる。
そんな事は無視して、
我々〜は、断固〜最後の〜最後〜まで・・・・・云々かんぬん。
気分は最高にハイテンション。

検挙・・、検挙・・、全員検挙!!
指揮棒が振られ機動隊が前進しだす。
自分の大学の前で集会を開いて何処が悪い、校舎をでれば其処には道路しかないじゃないか。
公道上の無届集会は”都公安条例違反”とガ鳴り立ててくる。
こちとらは、「やかましい、どこが悪い」

最初のうち、1968年7〜8月頃まではこちらも殆ど無防備。
楯で小突れ、鉄芯の入った腕カバーで殴られっぱなしだった。
7月のいつ頃だったか、デモの規制で顔面を殴られ前歯2本が折れた。
どう謙虚に理解しても、機動隊の過剰警備だ。
お前らが先に殴るから、角材を持ったんじゃないか、何が公安条例違反だ。

一時折れた前歯の間にタバコを挟んで吸った、間抜けな面これが結構受けた。
金が無いので、当時は保険の利くプラスチックの差し歯しか入れられなかった。
今は自費治療の高級セラミック差し歯で、私しか分からぬ勲章!
パクられた時は、機動隊の事前警告は全く聞いた覚えが無いんだけど。



■2004.10.8  noon  管理人 wrote

1968年5月27日午後3時30分ジャスト、
「日本大学全学共闘会議」がこの瞬間に結成された、それからほぼ1ケ年。

●救対ニュース(1969年5月18日発行)日本大学全学共闘会議救援対策本部
 逮捕者総数<個別日大闘争>997名
 起訴者総数            68名
 負傷者総数重傷         713名
        軽傷        6296名
        失明           3名
      現在拘留、拘置者    27名 <経闘委日大闘争ドキュメントより引用>

上記でも分かるように、逮捕しても起訴まで持ち込まれたのは一割にも満たない。
大半のものが、無差別に手当たり次第に逮捕されている、私の様に。
警察も、後から後から沸いて出てくるような日大生にほとほと手を焼いていたはずだ。
一々起訴していたらキリが無かったのだろう。

逮捕された者でも、もともと活動家で在ったものは極めて稀で、学生運動の活動家と違いその後の処世には幾つかのパターンがある。
大らかに凱旋して出てき、更にパワーアップする者、
警察の出口で親に”確保”され、拉致され自宅軟禁にあう者、
本意か不本意かは別にして、戦列を離脱する者。

私の場合は、意気揚々と凱旋した。
臨時に救対本部が設けられた明治大学学生会館に赴き出所届けを。
着詰めの服を着替えるために桜上水の下宿に戻ると、待っていた父親に確保されてしまった。
連れ帰られ自宅軟禁ほぼ一週間、なんとか嘘をついて再度上京し懲りずにバリケードに復帰した。
自宅生ならこうはいかなかっただろう。



私のマドンナ(勝手にそう思っていた、実態は片思い)は、明治の学館に逃げ込み全員一網打尽。
日大のお嬢学生スタイルの、スカートにヒール靴で留置所に入った。
出所後は親に連れ戻され、それ以後二度とバリケードに出てくることは無かった。
切ない思い出話。



■2004.10.7  night  管理人 wrote

二日続けての夕焼け、昨日と同じようなピンクの雲が綺麗
今日も定刻の退社、残る仕事をそのままにしてそそくさと帰宅。
2時間程帰宅が早いという事は、2時間在宅時間が長くなる。
この2時間がとても貴重、家事を削ることなく徒然の日記が夜アップロード出来る。

 

濃〜い思いは持っているが、平凡なそこらのオヤジ。
我ながらよくもまあ書くことが有るなあ、と自分に感心。
週末は先週決めた街頭行動、何故かワクワクする。
一つだけ心配なのは、この薄くなった禿げ頭を”大衆”に晒す事。
決意と思想は別にして、出来ればヘルメットを被りたいのだが。

昨日NHKで、明治維新とちょん髷の番組をやっていた。
ちょん髷の由来は、武士が兜を被るとき、髪で頭が蒸れない様に頭頂を剃り落としたことらしい。
36年経って、私の頭はヘルメットを被るのに適切なヘアーになってしまっている。
仕方ない、帽子でも被るか。
如何しても”変なオジサン”風情になってしまうが。

安田さんを招く会の最年長の世話人さん、9月初めより市中を自転車で周り、ビラをポスター代わりに貼って下さっている。
2〜3日前、チケット頒布に協力頂いている団体に匿名の市民から電話が入ったらしい。
ピラを張られた事で、電話でその団体に苦情を言ってきた。
団体には迷惑をお掛けした。

私は日大闘争で、四方八方に迷惑を掛けた。
いや、日大闘争は、迷惑の塊だったといっても過言ではない。
その是非は別としても、迷惑を掛けるからと行動にブレーキを掛けることはなかった。
節度あるビラ貼り、という選択肢がベストだが、私は迷惑覚悟でイケイケの気持ちを大事にしたい無節操派。
このビラ貼り行動への対応で、元全共闘イケイケの私と、他の節操ある世話人とでかなり意見(感覚?)の違いが生じている。
つい素の感覚になってしまっていた。



■2004.10.7  morning  管理人 wrote

昨夜、夜も更けて、妻は待ちきれなくて次男坊に電話を入れたらしい。
電話のむこうはワイワイガヤガヤ、どうも酒席らしい。
息子の声は明るく朗らかだったと言う。
随分な変わり様

長男は帰省していた次男坊にこう聞かれたという。
「兄ちゃん、一日中勉強ばかりして暮らした事があるかい?」
兄は躊躇無く答える、「俺は一度も無い、そんな事をしたら気が狂う!」
妻が、就職試験で帰ってきた次男坊のカバンに、精神安定剤を見つけてオロオロしていた。
彼は彼なりに、自分との闘いの極限を彷徨っていた、今の就職戦線はそれほど厳しい。

今日は定刻に、どうしても起き上がれなかった。
昨日の会議が堪えているようだ。
都会は景気が横這いか微増だと云うらしいが、ローカルは不況の真っ只中。
どうする?、たってどうしようもないのに、どうするか延々と話し合う。
これを私達はかつて「消耗な戦い」と呼んだ。

日大全共闘の経験で仕事に活かせる事の一つ”開き直り”。
これの良い所は、他人には”動かぬ強さ”と映るところ。
「何をするったてどうしようも無いから”やるしか”ないでしょう、以上!」
国語的には意味不明だが、会議で疲労した皆の頭には会議の締めくくりとして妙に説得力がある。
要は、皆消耗な会議を早く終わりたいのだ!

状況が混迷すればするほど、
「主体的な決意で、客観情勢を乗り越える」、
「一点突破、全面展開」。
意味不明、心情理解の新左翼的目眩ましが結構使えるのだ。
これはかつての”皇軍”の精神とも相通じる。
議事進行役の私は、強引に終了宣言。



■2004.10.6  night  管理人 wrote

昼からズ〜っと続いた会議。
すっかり集中力を使い果たし、定刻で退社。
西の空が夕日でとても綺麗。
中空に中途半端に浮いたちぎれ雲、夕日に淡いピンクに染まっている。
ピンクは日大カラー、体育会系でなくても愛校心はあるぞ。

 

ここんとこ吠えまわっている。
でも実は、勢いの割には少しビビッている。
この歳になっても正直、体育会・右翼は御免こうむりたい。
あんまり吠えると、やっぱりあいつら怖いからな。

義理は重んじる、先輩は神様と思っている。
高校野球は、文句なしに付属を応援しているし・・・・・、
お前らに愛校心は負けないぞ。
でも、少し違うか?

夜、Tシャツ一枚で、切らした味噌を買いに行く、寒い。
でもやっぱり、買ってきた味噌は妻に指示されたものと違う。
桃井コンミューンでは、仲間の世話役に徹していた私だが、料理だけは苦手。
いつまで半袖で頑張ろうか。



■2004.10.6  morning  管理人 wrote

ここんところ気持ちが全開気味である。
である・・・なんて書き出し事体が相当フルパワー。
昨年の今頃も、フルパワーでこのページを書いていた。
9〜10月というのは、そういう気分にさせる季節なのだろうか。

私達は体を張って、命を張って全共闘を突っ走った・・・。
この言い様を、「何を大袈裟に言うかと」と皆は受止めるだろう。
事実、同僚との会話で、ふとした事でこんな言い様をしたことがある。
その時、相手は「フン!」と反応し、端から馬鹿にした反応が明らかだった。

のどかな国公立大、自由なミッション系大学で”体を張る”という状況は、自らが出かけて行かない限り、まず無いのだろう。
そんな大学を馬鹿にしている訳ではない。
私達の大学は、そこに居るだけでその脅威があった。
事実、夜に昼に襲われ傷ついた。
日大闘争はヤクザまがいの、そんな原始的な戦いだった。

私達が掲げたスローガンで、学内民主化にかかわるものはたったこれ2つだ。
1、検閲制度を撤廃せよ
1、集会の自由を認めよ
こんなスローガン、安保闘争を闘ってきた”全学連”には笑われるだけだ。
国公立大学の自治会は、「お前ら今更何言っているんだ」ぐらいに理解不能だったろう。

日大生はこれを要求し、認められない集会を開いただけで、体育会系学生の集団に襲われた。
彼らは闇にまぎれて襲ってくるのでなく、白昼堂々と木刀やチェーン、果てや日本刀まで振り回して襲ってきた。
事実の裏が取れないと絶対そういう事は書かない新聞でさえその状況を報道している。
日大闘争のスタートは学内民主化の戦いであり、当たり前の要求から始まり、バリケードストライキは自己防衛の最低の手段だった。
その到達点が1968年9月30日の大衆団交であったのだ。

その大衆団交を、「多数の学生が集団で威圧した集会であり、絶対に認められない」と佐藤栄作首相は厳しく言った。
何を言うか!、
栄作、お前は背中を切られ意識不明で水に浮かんでいた学友、校舎から投げられた机で重症を負い救急車で運ばれ所在不明になった学友、襲われ針金で縛られ校舎から吊るされた学友が居た事を知って言っているのか。

何度も言う、日大全共闘は、
1、検閲制度を撤廃せよ
1、集会の自由を認めよ
これを要求しただけだ。
自由が、どれだけ貴重で大切なものか、
それを守るのはどんなに大変な事か、身をもって味わった。



■2004.10.5  noon  管理人 wrote

10月に入ると、確か2日か3日の各新聞に、佐藤栄作首相の談話が一斉に載った。
あの歌舞伎役者のような眼光で、このような学生の暴挙は決して許されないし、交渉で成立したことも決して認めない、との表明だったと憶えている。
ノンポリの私には、権力とは目の前の機動隊の青い乱闘服、鉄亜鈴の入った腕カバー、ジュラルミン盾をさしていた。
一国の宰相のその発言が如何なる力を持つのか、その力の大きさは実感として分からなかった。
でも、その力は、これから後の秋田さんの逮捕状から始まり、嫌と言う程味わうのだが。

これから直ぐ、郡山工学部が空気銃まで持った武装右翼に襲われる。
1968年6月には、経済学部で体育会系学生が抜き身の日本刀を振り回し、怪我人が出たのは有名な話だが、ここに至って”飛び道具”まで彼らは持ち出してきた。
この事もあってか、文闘委行動隊が鉄の盾を持ってデモったのも語り継がれている。
郡山には、急遽遠征隊が募られ、上野発の夜行で出張った話は以前に書いた。

右翼は、大学当局だけでなく”お国”が後ろに付いたのだから、それまでに増して勢いづいてきた。
この後、各学部に夜討ち朝駆けの襲撃が頻繁にされるようになる。
彼等の動きは実に巧妙に、警察と連携していた。
私が直接知っているのは、先の郡山、三軒茶屋の農獣医、それに江古田の芸術。
バリケード襲撃が上手くいけば間髪をいれず機動隊が入り、校舎をロックアウトするという筋書きが書かれていたことは周知の事実だ。

襲われれば徹底抗戦する。
すぐさま、他学部の仲間が遠征して奪還に駆けつける。
1968年の間は、バリケードは最終的に守りきられた。
しかし、右翼・体育会に一時的に制圧されたケースもある。
大怪我を負った上、ここでは書けないようなひどい事をされた仲間も少なくない。

江古田の芸術学部の話はページに書いてあるが、襲ってきた右翼・体育会学生は300名以上。
数日後の11月14日の毎日新聞には、体育会学生約200名が襲撃と報じているが、これは大胆にも芸術バリに立て篭もり、全共闘部隊を迎え撃った人数。
実際は、江古田の駅前で白ヘルメットの数百人の部隊が蜘蛛の子を散らすように早々と逃げ散っている。
右系大学から全都動員された混成部隊、中には六大学の学生も居たが敢えて大学名は伏せる。
支給された揃いの乱闘服に、白いヘルメットまで被っていた。
私の仲間は背中の傷の疼きを抱えながら、憤怒の塊となって右翼に占拠された芸術学部バリケードに突っ込んで行った。
この時驚いたのは、新宿で島を張る”モノホンの筋の方”が居た事と、
後年、角界で綱を張った日大生の御仁をその修羅場で確認した仲間がいる。
この御仁、この時の心的後遺症が一生のトラウマになっていると、ウワサ話を聞く。

 


■2004.10.5  morning  管理人 wrote

鹿砦社、松岡さんの「甲子園だより」、
われわれの内なる<1970年代> シリーズ 5 、本日アップ。
同志社全学闘と日大全共闘、30数年を経ての涙の再会編。
敢えて寸評はせず、ご一読あれ。


10月1日アップロード済、われわれの内なる<1970年代> シリーズ 4
より引用
>「埋葬の日は、言葉もなく/立ち会う者もなかった、/憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった/空にむかって眼をあげ/きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。/『さよなら、太陽も海も信ずるに足りない』/Mよ、地下に眠るMよ、/きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか」(鮎川信夫「死んだ男」より)


■2004.10.5  morning  管理人 wrote

玄関脇の斑入りススキの柔らかな穂先が風になびく。
秋明菊がぼちぼち咲き出す。
朝、新聞を取りに出ると肌寒い。
酷暑の夏はもう終わり。

1968年は、9月30日を境に先の見えない状況に入っていった。
今まで相手にしていた大学理事会の前に、お国が出てきたのだから。
長引くストライキに、一般学生にも微妙な態度の変化が見られだしたのもこの頃から。
日大は東大などと違って、大きいだけで普通の平々凡々な大学だ。
最初から革命なんぞは目指してないし、”知の解体”とか、果てや”大学解体”などと言っても、だれもピンとこない。
こういうスローガンは東大や京大、早稲田にあって初めて似合っている。
この頃からだろうか、全共闘の中にやっと”反戦”のスローガンを掲げる分子が登場してきたのは。
これは、強権力を反面教師とした、ポン大生のリッパな成長だった。

お国が無理難題を通してくると、単純にお国がしている事が全て信じれなくなった。
襲われた方を逮捕し、襲った者たちを逃がした(本当だ)機動隊を見ている、なお更だ。
今では当たり前の産学協同を、「産学協同路線、粉砕!」というスローガンで堂々と主張し始めた。
大学の研究機関と産業界が協同するのは、学問と独占資本を結託させる国策である、という理解だ。
お国憎しだから、東大全共闘のスローガンを何となく拝借してのだろうか?

あと「造反有理」というスローガン、これは文句なしに気に入ってよく使った。
中国の文化大革命で紅衛兵が使ったスローガンだ。
叛くことには理があるという意味、紅衛兵はさておいて、とてもよい言葉だ。
東大の正門に、白いペンキでデカデカと書かれていた。

日大の余りの運動の大きさに、東大全共闘が敬意を払ってくれた。
日大生が東大生に敬意を払われるなんて、日大生にとっては建学以来、後にも先にもはじめての出来事である。
そのためか、日大らしからぬ結構無理なスローガンもあったが、「反戦・平和」だけは今も私の中で続いている。

  1969.1.18 東大正門


■2004.10.4  night  管理人 wrote

当時(今も?)、日大は殆どの学部で一年と二年以上で校地が分かれていた。
理工学部は入学すると、世田谷、習志野、三島と3つから入学する校地を選択する(と記憶しているが?)。
そのため、一年と二年以上の交流は殆どない。
一年生とお茶の水の2〜4年生は殆ど別の大学といっても過言ではない。

当時(今も?)理工学部は一学科一クラス。
クラスといっても200名を越す、一クラスで国公立大の一学部くらいに匹敵。
聞きしに勝るマンモス大学でマンモス学部。
全共闘も2年坊は、マンモス学部でも最多を誇るやんちゃな学年。
ゲバルト行動隊でも、2年坊=2年闘争委員会は最大部隊。
3年、4年と学年が上がるほど数は減っていくが、それでも結構な数で2年坊に睨みを効かしていた。
でも、学年を超えて仲がいいんだ。

同窓会には当時の1年から4年生までが集まる、1968年が基準の学年だ。
不思議なもので、この学年の序列は厳然と生きている。
実社会の序列がたとえひっくり返っていても、同窓会ではこの学年の序列が優先される。
若干例外もあるが・・・・?。
先の同窓会、2年が1年に酒を継いでいる、訳を聞く、「あいつは役所でおれより上位だから」。
私はド田舎からの上京、そんな浮世の序列は一切関係ないピュアーな2年闘争委員会。



■2004.10.3  night  管理人 wrote

中大OBの方から返信メールが入っていた。
法律事務所のホームページなのに、トップページにこんなお断りがある。
このページは・・・・・・・ですから、法律相談はしません、法律家のホームページとしての「責任性」はありません。
ただ、私と共有するあなたが、ネットワークを少しずつ広げて、私たちが、生活し、成熟し、たとえ個体としての寿命を迎えたとしても、そのネットの中で生きつづる事をささやかな目的ともしています。
ようこそ!!

気に入った、弁護士さんの弁護士さんらしからぬ、法律家として驕らないこのセリフ。
目線が私(達)と同じだ、読み進むと1969年が彼の原点と見た。
ページコンテンツ「風景として」→「年年歳歳・歳歳年年」→「1969ハイスクール覚書」へ進んでみてください。
この1969ハイスクルール覚書が良い、実に良い。
是非ご一読あれ。

夕方電話が鳴った、経済2闘からだ。
彼とは一昨日、電話で話したばかり。
鹿砦社の松岡さんの厚意で、彼は先日、恩義のある同志社全学闘と電話で30数年ぶりの再会が叶った。
松岡さんがその様子を是非知りたいと連絡があり、その了解の電話を彼にしたのだ。

経済2闘は「今日は理工の4闘(4年生)と一緒だよ、電話変わるよ」
思わず受話器を握り締め緊張する。
オイオイ、神様のような4闘が何故其処に。
4闘とは、1968年私が2年生の時、既に4年生であった方々の事を云う。
考えても見てくれ、それまで活動家でもなんでもない卒業と就職を控えた大学4年生が、夏にバリケードに泊り、角材を持って走ると云う事はどんな事か。
今の学生は3年生になった早々から、就職活動に邁進しているだろう。

4年の夏、普通なら躊躇する。
殆どの4年生はこう云った「皆の気持ちは判るけど・・・」
私(達)はそれを責めなかった、気楽な2年坊とは訳が違う。
私は誰が何と言おうが4闘は”神様”だ。
そんな4闘から電話を頂き「ホームページ見たよ」と言っていただいた、感激である。



■2004.10.2  morning  管理人 wrote


仕事で用あってマリーナの近くまで出かけていた。
職場に戻るまでの一時、浜辺に出て少し休憩を取った。
夕暮れ時、ウオークボードを散歩する人の長い影が伸びる。
浜辺はもう秋。

ベンチに座り、海を眺めること30分ほど。
この美しい景色に本人は溶け込んでいるつもりだが、
如何にも勤め人風情のタソガレた中年、
ボードを行きかう人には、多分金策に困ったオヤジが夕日を浴びて途方にくれている景色に映ったと思う。

 

仕事も結構忙しいが、10月に入ると安田さんの講演会の事も気に掛かる。
昨日の世話人会は、一月足らずになったこともあり結構活発な議論があった。
「ぼちぼち街頭行動ですね!」
街頭行動と聞くと、何故かワクワクしてくる。
「ヘルメットを用意しなくては」、とボケをかまそうと思ったが浮き上がりそうでじっと我慢。

少し気になる情勢も報告された。
丁度そのころ選挙になる可能性があるという。
そうなれば、ビラ撒きや街頭行動がかなりやり辛くなるのでは、という意見。
私達の活動が、選挙期間中の”政治活動”として一派一からげに扱われる可能性があるかもしれないという。

ここで元全共闘の本領発揮、「いいよ!そん時きゃ〜、おれが逮捕要員になるわ」。
皆、それは良いと賛同・・・、結構冷たい!?。
我慢が出来ずに、房内での基本的人権の扱われ方についての”留置場学”を、人文学部の学生さんに講義。
家の息子以外に、こんな為になる講義はめった聴けないよ。
ぼちぼち気合を入れてやるか。

 

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