管理人日記2005年10月 
管理人トップへ戻る

 

■2005.10.31  evening   管理人 wrote

アッテンボローさんのブログでは、革命的恐妻主義者としては厳しい交渉となるだろうと、悲観論が混ざった展開を述べています。
私も腰が半分浮き上がっているのです、
11.11の勝利集会の、美味しいところへ馳せ参じたいのですが。
10月に2度の上京を決行しているため、懐は底を着き厳しいのです。

この田舎からでは、往復の飛行機代だけでも馬鹿にならないのです。
妻が「ナイトクルージングのバスが割安では・・・・」と優しく(?、のたまうのですが。
4〜5年前に決行しましたが、
ダメですあれは、体がバラバラになります、再起不能の恐れがあります。

という訳で、早々と11.11への結集は断念したのですが。
伝手があって管制塔サイトの関係者と繋がることがありました。
当日はリアルタイムに近い状態で、刻々と状況をアップロードする(かも知れない?)と内緒話を聞かせていただいています。

でもね〜、やっぱLIVEは違うの!
シュピレフコールが聞きたいの!


■2005.10.31  morning   管理人 wrote

昨日は外出せず終日花と庭木の世話に精を出す、とはいっても時折のメールチェックは欠かさなかったが。
メールを開けるだびに、山のようなスパムメールとしつこいウイルスメールの中に埋もれるように何通か”本物”のメールが入っている。
掲示板にも一通連絡の書き込み。
夕方には顔が赤く日焼けしていた。

夕食前にメールをチェックすると、農闘委JUNさんから。
いまさら”農闘委”なんて冠詞を付けるのも何なのだが、やはり仲間内ではこれが一番自然。
日大闘争で亡くなった仲間の墓石の写真を送ってくださった。
墓参に出かけ撮って来たとコメントが書かれていた。
早速、農闘委写真集にとりあえず掲載した。

それと、もう一つ嬉しいコメントが。
JUNさんの写真が私のホームページに有るという。
写真集の「叛逆のバリケード」の(2)のページ。
学友を不当に検束する官憲(7.20)
この写真の”主役”が自分であるとJUNさんが確認した。
但し、拘束日付は間違っているという。
それとこの写真も農闘委Sさんと判明した。


■2005.10.30  morning   管理人 wrote

昨日は定例の街宣行動日。
イラクの現状をフリージャーナリストにリポートいただく講演会への呼びかけ。
定刻には相変わらず3名、「しゃあない、始めるか」、アーケード繁華街に散る。
10分程すると仲間が1名、また1名と増え、昨日は何と7名の大量動員。
現金なもので自然と呼びかけの声が大きくなる。

嬉しくなって皆でお茶に行った。
金曜の夜は殆ど腑抜けだったが、爆睡のお蔭でリカバリー。
会員各々が取り組んでいる事の情報交換。
日中、河川の暗渠化反対・自然保護活動、反原発、女性九条etc・・・・、私は勿論管制塔カンパ!。
しかしまあ、皆個性豊かだ。

帰宅して夕刊に目を通して、フリーズ。
ド田舎の地方紙の夕刊*面、管制塔カンパ記事がトップで載っている。
共同通信配信かなと思い、ネットで関連情報を調べるがそうでもなさそう。
私の地元で、この手の(失礼!)ネタを記事にする記者は居ないはずなのだが。
*面トップ、*段抜きだよ。
よっぽど新聞社に電話しようと思ったが、かろうじて思い止まった。

あまり詳細情報は避けたいので、証拠の新聞写真だけ貼っとく。


■2005.10.29  morning   管理人 wrote

昨夜は金曜サロン。
管制塔サイトの勝利宣言と集会のビラを急遽プリントし持参。
何名かの方にはカンパを頂いている。
会長女史からもカンパをいただいている、「この運動をどう繋げていくかが課題でしょう!」
相変わらず手厳しい。

会の後半から疲れで集中力ゼロ状態。
皆の隙を見て居眠りをこく。
先週は巡業出張に土曜出勤、
今週は旗日も無く目一杯働いたのだ、金曜日の夜はドット疲れが来る。
会長女史の、「チラシが足りないの!」の一声にハット我に返った。

帰ると妻が「遅かったのね、一緒に食事に行こうと思っていたのに・・・」
簡単な夕食を取り、早々と床に就く。


■2005.10.28  morning   管理人 wrote

昨晩、帰宅のBGMはノラ・ジョーンズのフィールズ・ライク・ホーム。
夕闇にアコーステックのギター、ビロードのようなノラの歌声。
先日帰宅すると、珍しく駐車場に次男坊のスーパー・カブが鎮座している。
「今日は兄ちゃんの誕生日だからな」
彼は飲み会を断固撥ね付け、ご帰宅と相成った訳だ。



妻の車がない、どうやら予約のバースディー・ケーキを取りに行っている様。
蝋燭は大が3本。
「御免、父さんすっかり忘れてた、しかしもういい歳だな」
息子二人、四人家族が何時まで続くのか。
この状態が良いようで、良くないようで。


■2005.10.27  morning   管理人 wrote

ここ数日管制塔サイトには、コアな元セクのお兄さん方が涙ながらに登場している。
そりゃ〜そうだ、こんな軟弱なノンポリ元共も登場したのだから。
筋入りの彼らが登場するのは当然至極。

Jさんが披露してくれた「9月20日K君からの手紙」、連れを亡くし難病を抱える子を待った元セクの仲間が差し出した2万円。
元プロ統一さんの今日の書き込み、失業中の先輩が差し出した数千円。
金額の多少はもちろん重要だが、それは出せる者が精一杯出せばいい。
レトロと馬鹿にするならすればいい、お涙頂戴と謗らば謗れ、
運動は湧き出てくる気持ちなのだ、それをこのカンパの運動は改めて思い出させてくれた。

こな糞な若造、お前らにそれが分かるか。


■2005.10.26  night   管理人 wrote

一昨日の晩10時頃、、寝ようとしていると長男坊がびっこを引きながら帰ってきた。
見ると、足の親指に包帯を巻いている。
聞くと、親指の爪を剥いだと言う。
現場で素足でやる作業があったらしい、ア痛ッ!と思った瞬間、見事に綺麗に爪が剥がれていたと言う。
「もうそれ以上言わないで・・・」と、横で妻が顔を引きつらしている。

右足なのでアクセルが踏めない、同僚が運転してくれて外科医へ駆け込んだ。
向こう2週間の毎日通院を宣告されたと言う。
「お前、生爪剥がすってのは拷問でもあるくらい痛いんだ、大丈夫か?」
「痛いけど仕事だから仕方ないよ」
膝小僧を擦り剥き、「お父さ〜ん」と泣いて帰ってきたあの頃が懐かしい。

昨晩も十時過ぎに寝た、次男坊は未だ残業らしい。
今朝は仕事の都合で社長出勤、ゆっくり新聞を読んでいたら妻が二階で叫んでいる。
8時を過ぎたと言うのに次男坊が未だ起きてなかったらしい。
深夜の残業で疲れ果てていたのだろう。

5分もしたらバタバタと駆け下りてきた、ボサボサ頭の首にネクタイ巻きつけて。
「オイ、危ないからバイク飛ばすなよ、遅刻してもいいじゃないか?」
「残業して、遅刻するなんてみっともないよ!」
カブのエンジン全開で、すっ飛んで出て行った。

いつの間にか二人とも・・・・・、親父が要らなくなってやがる。


■2005.10.25  nightU   管理人 wrote

会場を移して懇親会。
本会に間に合わなかった仲間も加わり員数が増えている。
幾つかの報告があった後、乾杯。
教授・教官、先輩、後輩、同輩、初めて会う再会、あれから早40年近く経つ。

不思議なのだ。
下戸な私はビール一本位が限度、普段はそれ以上飲まない、飲めない。
その限度を超えて飲める時が極稀にある。
この仲間達と飲むときだ。

10年目の理闘委の同窓会、幾らでも飲めるのだ。
20年目、30年目も同じ。
そして昨年、そして今回。
しかし・・・・・、この後の二次会では一気に酔いが醒めたのだが、それは云わない。

「お〜い!、お前も入れ」と呼ばれ撮った一枚。
後輩は一人だけ、後は全て四闘の先輩や先生に囲まれ恐れ多くも真ん中。

画質は落しています


■2005.10.25  night   管理人 wrote

藪さんが鼻血もなくなりました(笑、という管制塔カンパ。
私は頭に登り上がる血がすこし少なくなりました(笑。
7月17日、ふとした事から目に付いた旗旗さんの呼びかけに、レトロ親父が時代を間違えフラッシュバック。
お蔭で、赤減る(丁度良い変換なのでそのまま使用)信奉者と間違われる事態に。
絶滅危惧種にKOUANのマークが再び付くのではと、少し緊張感が出ている昨今。

10月20日時点で9520万円。
「誰がこの展開を予想できただろう!」と関係者が皆口を揃えて興奮している。
でもね・・・・・、私はうすうす予感していたのだ。
このド田舎のレトロ親父が反応したという事は、これは全(国)共闘なのだ。
私が反応したから、この運動は広範なのだ。

>ハンドルから察しがつくように、私は仙台にすむ。また、連帯サイトのサーバも仙台にある。もちろんノンセクトであるので4トロはじめ、管制塔闘争を主導した赤ヘル3派とも縁がない。
Webマスター 北@仙台
週間管制塔タイムスより

初めて管制塔被告連帯基金支援WEBサイトの管理者が名乗りを上げた。
首都ではなく北の杜、仙台の地にサーバーと管理者が居ると言うのも実に良い。
反応した一人が、彼の地よりも辺境のド田舎に住むこの親父というのも良いではないか。
ここでは、皆が本音で語っている。
カンパは当然当たり前、礼の一つもよこさない何処かのセクトとは違う。
親父はコミュニケーションが欲しいのだ。
出したお金への気持ちが欲しいのだ。
この全てに、今回の取り組みは応えてくれた。
目指すは1億2300万円。


■2005.10.24  morning   管理人 wrote

〜10月15日の日記から続く。
芸闘委版・日大闘争の記録ビデオの試写会の後、休憩。
休憩時間に任士官を賜った訳で。
再開後は、日大闘争を一身に支援してくださった田賀秀一先生(弁護士)の講演。
先生は1938年生まれだから、当時は頼もしいお兄さんと言ったら失礼になるか。

先生は最近大きな病を患われ、少し痛々しく見えたが、話され始めると背筋を伸ばされ、その語気は凛とされていた。
当時、大学当局から多額のお金を積まれ、巧妙な切り崩しをうけたという裏話や、司法は日大全共闘には全般的に”好意的?”だったというエピソードも披露頂いた。
私が下町の番屋で接見を受けたのは田賀先生だったかどうか定かではないが、とにかく間接・直接にお世話になっている。
先生は、「1608名の逮捕者」という本を大光社から出版されているとも聞いた。
先生は私らにとって何時までも大きな存在だ、何時までもお元気でいてください。

会は一通り終わり、懇親会場への移動。
天野屋さんが何やら持ってきた大きな荷物を解く。
巻かれたムシロとビニールパイプ、うわさのムシロ旗だ。
この時のために、わざわざ自宅より持参したという。

 日の丸?)を背した反戦ムシロ旗 by 農闘委


都内のど真ん中。
行き交う人が何事かと振り返る。
私は恥ずかしくて少し離れて歩く。
誰かがシュピレフコールなんぞ始めたら、私は通りの向こうに逃げ出していただろう。
天野屋さん、貴方は偉い。


■2005.10.23  night   管理人 wrote

伸びすぎたつるバラの手入れ。
溜まった洗濯物のやっつけ、掃除。
夕方まで主夫業に勤しみました。
やっとこさ一息、旗旗さんのブログを訪問すると・・・・?

オッッッ・・・これはXOOPSではないか!。
このXOOPSを正確に発音できる人は稀、イックスウープスと読む。
2003年11月、厚労省管轄の職業能力開発センターで自主的に自費で受けた夜間講習。
一週間ほどの講習だったが、まるでチンプンカンプンで終えた”リナックスのサーバーの構築”カリキュラム。
講習最終日、サーバー攻撃のハッキングの実習、セキュリティーを装備していないサーバーはものの数分でダウン、破壊を好む性格からか楽しかった・・・のだ(これは自分のサーバーを守るための講習ですよ、念のため)。

日本と違い、中国はマイクロソフトの支配下に入る事をよしとしていない。
言うなれば国家の生命線を握るコンピュターOS、国防の制御システム、財政・金融システム云々もアメリカの一企業のOSに依存しているのだから、中国の選択はオープンソースのリナックス。
中国が国策で採用しているという例のOS。

私はリナックスOSのレッドハットというバージョンの講習を受けたのだが。
そのレッドハットのアプリケーションとして講習で使ったのが、旗旗さんがブログとして採用したXOOPS。
このリナックスのブログ、意外な人が採用している、小沢一郎とか安倍晋三とか。
今のブログの起爆剤となったのがこのリナックスのXOOPSじゃないかと思っている。

私は?、一週間の講習の成果あってかますますチンプンカンプン、
リナックスは許して欲しいのだ。


■2005.10.23  morning   管理人 wrote

やっと帰ってきました。
週初めから一週間、ネットと無縁な僻地を巡業していました。
知ってますか、採算が取れないためADSLが来てない僻地を。
山のように溜まった迷惑メールをやっとこさ削除。

「あの目線潰しは不気味だよ、ソンビみたいだ 笑)」
先週アップした農闘委の写真集に対するコメント、確かに言われる通り。
40年近く経っているのだから、マスクを掛けなくても良いと思う気も有るのですが。
目線をぼかして潰すマスキングは止めて、スクエアーなマスキングに5・6点の写真は変更しました。

実は今回の写真アップで、ホームページサイトの容量が殆ど満杯に近づいています。
URLを見ていただいてもお分かりのように、このホームページはブロバイダーのサービス領域に書き込んでいる。
無料サービス領域でもこれだけのボリュームのページが出来るのですよ、質は別として(これ自慢!)
2回目の、有料の容量アップを申し込みました。


一週間近く家を空けているうちに、庭の秋明菊が咲き誇っていました。
クリスマスローズも薄緑の新芽が顔を覗かせています。
鏡を覗き込むと、知らぬ間に秋の日差しで、鼻頭が赤くなっていました。
一日一日秋が深まります。


■2005.10.18  morning   管理人 wrote

黄昏時、夕陽が綺麗だ。
BGMはシャルル・クロー、乾いた声が薄闇に通る。
昨夜は、「昔左翼、今二児の母」と名乗る方のブログにずうずうしく訪問。
それにしてもMSNのブログはコメントを書くのに”サインイン”の難しい事前登録を強いてくる。
ブツブツ言いながら登録、これで同じMSNのJさんのブログにもコメントできる訳だ。



今晩から週末まで僻地への巡業出張。
予約の宿に「部屋でインターネット出来ますか?」と問い合わせを掛けると、
出てきた女将さんらしき方、「ヘッ・・・???」という意味不明のリアクション。
「こりゃ〜ダメだ」。

という訳で、HPの更新は週末までお休み。
10月20日が管制塔カンパの一様の集約日、ライブで知りたかったのに。
巡業先で管制塔のサイト開けるも、こりゃ〜また周りをはばかるし。
やっぱり、週末まで諦めるしかないようだ。


■2005.10.17  morning   管理人 wrote

日曜日は早朝に起床、シコシコと画像処理に精を出した。
農闘委JUNさんから、1968−1970年の貴重な写真を賜ったからだ。
写真は35点、全学の集会風景が10点位で農闘委のものが大半。
スキャナーから起こした原版だろう、きめが細かくリアル感が違う。

出来ればそのままアップロードしたかったのだが、
其のままの容量だと私のホームページが潰れるので、画質を五分の一程に圧縮。
原版では個人が特定出きるので、イメージを壊さない程度に目線にマスキング。
右翼、教授らしき人物はそのままで晒してやるのだ。

初めてご覧になる方のために写真にコメントを書き足したいのだが、如何せん他学部なので正確なことが分からない。
私に分かるのは秋田議長、文闘委田村委員長(故人)、法闘委S委員長、芸闘委M委員長ぐらいかな。
それとNo.3、デモ先頭の旗持ちのショット、隊列向かって左側の旗に「工化」の字が識別できる。
これは我が理工学部の工業化学科の旗ではないか、この濃さから言えば紛れも無く黒色旗。
メガネの優男、並み居るヘルメッット集団の中でヘルメットを被らず、手ぬぐいで隠さず。
理闘委の仲間、「貴方はサイコーーー」、こういうのも「格好良い!」のだ。

農闘委のショット、ボチボチでよいから天野屋さんコメントを。


■2005.10.15  night   管理人 wrote

少し興奮している。
Jさんからメールが届いている。
件名は「すざまじい勢い」、
管制塔占拠被告の連帯基金の事だ。

連帯基金は10月末が締め切りでの取り組みだったが、
連帯金事務局が10月20日を一応の目途でカウントを開始したらしい。
ここ数日、100万円を越す勢いが続いており、Jさんによれば260万円を記録した日が出たと言う。
公式サイトの大本営発表では10月12日現在時点8470万円。
Jさんの丸秘情報14日時点では目標まで1000万円を切った記されている。

今日は11月に予定している「イラクの報告会」の街頭ビラ配りを繁華街で敢行。
メンバーは女性二人と私の3名。
たかだか数百枚のビラ配って、それが何ぼのものかと云えばそれまでだが、
やると言ったらヤルのだ。
しかし、相変わらず反応は鈍いがそれは承知の上。

ビラ配り後、女性二人におじさんという奇妙な組み合わせで「お茶」を。
しかし金曜サロンで付き合いだして、ず〜っとそうだが、この二人の女性は街頭行動を外した事が無い。
この一途さには頭が下がる。
「管制塔のカンパ、どの位になりましたか?」、彼女は先月末私にカンパを預けてくれた。
「じゃ、私もしましょう」、もう一人の彼女からありがたい言葉が。

前田「隊長」からのアピール
>「管制塔を壊すのに三十分だった。4000万が三十分というのは案外国家はもろいのかも知れない。
国家の狙いは明らかだが、今回の国家の失敗は被告を合流させてしまった、昔戦ったものと今戦っているものを合流させてしまった、そして職場で生活している職場仲間をも合流させてしまったこと。」

(以上、旗旗さんブログからの転載)

こんな田舎の私のところでも、前田「隊長」のアピールが実現してますよ!


■2005.10.15  morning   管理人 wrote

ビデオ鑑賞が終わって休息タイム、ロビーで文理の先輩が茶封筒を差し出す。
先輩は「叛逆のバリケード」編集・出版に関わった文闘委書記局の元中心メンバー。
茶封筒にはセピア色に変色した「叛逆のバリケード」初版本が入っている。
「お蔭で、自主出版の初版本361冊の配布を完了したよ」

先輩が引き継ぎ保管していた「叛逆のバリケード」を全て希望者に配布し終えたと言う報告だった。
私もホームページの広報・告知で協力させて頂いていた。
是非欲しいと言う方の中には、高校生の女の子もいたという。
先輩が私に感謝を込めて、自主出版版の”最後の一冊”を下さるという・・・、
「もったいない!」。

茶封筒の中には、感謝状も一緒に入っていた。
感謝状の最後には、以下の一文が記されていた。
    
                  告

2005年10月1日を持って、原隊・理工学部闘争委員会所属のまま、
文理学部闘争委員会書記局「叛逆のバリケード」編集委員会付とし、
名誉編集委員(待遇・士官級)に任ず。
今後とも、栄えある日大全共闘の一員とし、刻苦勉励奮闘せられたし。

                  日本大学全学共闘会議副議長
                     ** *(自筆のサイン)


とッ・・・・・いう事は、一兵卒から37年目にして士官に昇進したわけだ。
軍隊ならとうに定年退職を過ぎているのだが。
武勇では昇進叶わなかったが、文才?)で昇進を勝ち取った訳だ 笑)。
私は生涯一兵卒のままでよかったのだが、先輩の最大限の感謝の気持ちなのだ。

ところで。貴重な貴重な最後の初版本、
「俺は持っていない・・・」と、隣で欲しそうに眺めていたラッパの大将さんに。
余りに欲しそうなのと、私は’68年にバリケード内で手に入れ持っているので。
御免なさいね、先輩。


■2005.10.14  morning   管理人 wrote

天野屋さんに連絡いただいて、経闘委BBSに書き込みのあったJUNさんにメールした。
メキシコで9月12日に亡くなられた、農獣医の笠置さんの映る1968年当時の写真をアップされている。
笠置さんは全共闘後の活動履歴の方が一般には知れているが、私(達)の繋がりは全共闘だ。
一枚は全体会議のショットだと思う、何処の学部でも毎晩必ず皆が集まって討論した。
勿論、全共闘書記局からの一定の方針や提案はあったが、それはあくまで”討論の材料”であり、皆が納得するまで話し合った。
この写真は、笠置さんが映っていて懐かしい一枚だが、当時の全共闘の有り様を映している貴重な一枚だともいえる。

農闘委JUNさんより拝借、中央こちら向きに腰掛けているのが笠置先輩


もう一枚は、リーダー的な存在(だと思う)の笠置さんがデモの2列目外側に映っているもの。
先頭2列、外側という位置が偶々だったかどうか定かでないが、4闘(4年生)がこの位置にいることは珍しい。
理工学部では、先頭集団は元気の良い2闘か3闘が占めていた。
4闘は事務局か、後方支援に就いていただいていたと思う。
笠置さんの心情と人柄が、この一枚にもよく出ていると思う。

農闘委JUNさんより拝借、2列目手前が笠置先輩

JUNさんから早速返信を頂いた。
文面にはさりげなく書かれていたが、文字の後ろには常人には計り知れない人生を辿っていることが読み取れる。
写真は誰から貰ったものだか忘れた、貰ったものだから写真は私のものだ、という論法?)であるらしい。
近々、データ送信で送りますと書かれていた 喜)。

私のHPの映像記録は大半が芸闘委(芸術学部の映画学科や写真学科)の仲間や文闘委(文理学部)が残したもの。
今度は農闘委(農獣医学部)の仲間が残したものが公開出来そうです。


■2005.10.12  morningU   管理人 wrote

会の冒頭、
特別版、限定版、編集中、未完成、一般未公開の日大闘争の記録の試写会が有りました。
映像は芸術学部の仲間が撮り溜めたものが結構有ったらしいのですが、
その多くは時代の経過とともに遺失してしまったという事です。
僅かに残ったフィルムを大変な労力を掛けてビデオ化にこぎつけたと報告がありました。

映像は芸術学部闘争委員会のシーンが主なものですが、全学の集会のシーンも結構ありました。
アッ・・・俺だ!、
オッ・・・奴だ!
上映中はこんな喚声が飛び交いました。
そうです、自分達が撮った自分達の記録です、映っているのは私たちなのです。
シュピレフィコールのシーンには下を向いていました。
涙が止まらなくなったのです。

「これで人生決まっちゃったようなもので・・・」
出席者の挨拶は、何方も力こぶの入らぬさりげないものでしたが、体験を共にする者同士には痛いほど分かるものです。
私の人生も柔なものではありますが、”これ”で決まっちゃたと言ってもけっして言い過ぎでは有りません。
順番に回る皆の挨拶に、うなづき続けました。
ホームページの冒頭でも書きましたが、”この”荷物を30数年背負い続けてきました。


■2005.10.12  morningT   管理人 wrote

次に現れた方は、私と同様に頭がかなり寂しくなっています。
これは健忘症と合わせて、健全な加齢現象なのでよいのです!。
ラッパの大将さんと対照的、小声で物静かな方。
もしやと思い私の方から声を掛ける、「新参さんですよね?」

新参さんとはつい最近BBS上で知り合いました。
この30数年、ある組織の活動を続けていたとメールで便りを頂いています。
長い長い時間を経て、かつての全共闘仲間と会いたくなったと書かれていました。
インターネットがなければ、ついぞつながる事も無かった、初めてお逢いするかつての仲間・同志です。

昨年6月に知り合った仲間の他にも、初めてお逢いする多くの方々が来ていました。
長い長い時間は、主義も組織も傍らへ置くだけの心の余裕をはぐくんでいました。
新参さんだけでなく、そういう仲間が多く集まってきていました。
日大闘争以後、私とは違う生き様を選んだ意志強固なつわものばかりです。
(ここで、やっと10月3日の日記につながります)
中村君をはじめ、これまでに旅立った多くの仲間への黙祷から会は始まりました。


■2005.10.11  morning   管理人 wrote

ほろ酔い気分には気持ちの良い、涼しい風が吹き抜ける木立の中を抜けて行く。
かなり早めに到着したのだが、会場のロビーには既に3名の先客が。
何方も初めてお会いする方ばかり・・・・と思ったら理工4闘M先輩。
隣には理二部の4闘、先輩ばかりで縮むことしきり、アルコールはどこぞやらへ飛んで行った。

理二部の先輩から、「ホームページ見てますよ」とのお声。
嬉しくて顔がほころぶ。
昼間は教育関係の仕事、夜間に理二部に通い全共闘をしていたという。
当然昼間の集会には出れない訳だ。
二部の勤労学生の生真面目さ、地道さに改め敬服。

ロビーで諸先輩方と歓談していると、きちっと刈り込んだヘアーに背広の紳士が登場。
誰だか皆目見当が付かない。
「私がラッパの大将です」
私はソファーからズリ落ちそうになった。
「ちょっと待って、そりゃ〜違うだろう」、声にならない第一印象。
私のBBSを賑わすあの御仁の登場だ。

ラッパの大将の勇姿


ご本人、「私はこんなものですよ、ハンサムで優しいのですよ」というような主張をしきりにされる。
しかし、余りにもあの写真との落差が激しい。
後から来る方々も、私と同じ感想。
しかし、声の大きいのだけは予想通りだった。


■2005.10.10  night   管理人 wrote

今回の上京で始めて知り合った方々が居る。
日大闘争以前、或いは以後から”ゴリ”のセクトであった他学部の方々だ。
もちろん理工一号館バリケードにもセクトのお兄さん方は居たが、それは極少数派。
理闘委での”ゴリ”のセクトの方々は、バリケードでは決してセクト色を出さなかった。

中大ブントが「世界同時革命、前段階蜂起!」なんぞと私らには間違っても言えないようなアジ演説を打てば、「うわ〜カッコいい!」と赤ヘル被ってみたり、
四トロさんが御茶ノ水で、「ベトナム革命勝利?)」とアジれば、斧と鎌のマークを赤ヘルに入れてみたりで、
私のような生粋のノンポリがファッションしていた方が目立った。

理闘委と違い他学部の先進的学友の多くには、日大闘争でやっと陽の目を見た”隠れセクト”が居たようだ。
私は付和雷同だが、彼らは確信犯だったと言う事だ。
今回上京して、日大闘争後の彼等の生き様のほんの一部を垣間見た。

「80年に出てきた時、世間様は激変していたよ!」
二次会の後ろのボックスから聞えてくる会話、
一体何で、どれだけ御勤めをしていたのだろう
聞いてみたいが、そりゃ〜聞けない、
私とは比べようのない壮絶な生き様だ。


■2005.10.10  morning   管理人 wrote

先々週の上京、朝一番で羽田に着く。
仲間の皆に会うまでには時間が有るので、足は自然と御茶ノ水。
一号館を脇に見ながら、駿河台を下り神保町へ。
ランチョンでお昼をとり、ついでに黒ビールで煽りをいれようという魂胆。

書店街を散策してランチョンの開店時間までしばし時間つぶし。
開店時間に入るが、厨房の故障で営業の目途がつかないとのお詫び、折角来たのに残念。
黒ビールに未練を残しながら近くの”ざぼうる”に。
この店は何時から在るのか、この古さが売りなのか、しかし落ち着く。


”ざぼうる”で疲れた足をしばし休めるが、一つ課題が。
仲間の皆と会うにはテンションが足らなさ過ぎるのだ。
白山通り脇の蕎麦屋で生ビールを一気飲み。
ふらつく足で会場に向かった。


■2005.10.8  morning   管理人 wrote

羽田の空から富士の姿がはっきり見える。
明けた朝は小雨、一週間ぶりの首都圏。
始発便、会議の一泊、またまた会議でトンボ帰りの忙しない出張。
ホテルに愛機モバイル・バイオを持参するが接続は1000円也の有料。


会議で聞かせていただいた話だが、
私ら団塊世代は常に世の中騒がしてきた。
これからの老後とそのケアーが、大きな社会的負担となることは言うまでも無く、
いろんな社会制度が整備?)されているらしいが。

お上はその制度の大枠はもう既に目途を付け、既に次を見越しているという。
考えてみれば、団塊世代のケアーなんて高々十数年のスパンだ。
いかにスムーズに棺桶にはいていただくかで、余り活躍していただきたくないのが本音だろう。
その先にくる社会の受け皿が今の課題らしい。

私らの世代は運命的に、後に続く世代に散々迷惑をかけてきた。
それは私らの責任ではないのだろうが、後の世代にはうっとおし限りなのだろう。
いいじゃないか、もっともっとうっとおしい存在で、世間様に迷惑かけてやろうじゃないか。
更に自信?)を深めたのだ。


■2005.10.6  night   管理人 wrote

俺もそう思う。
絶対そうだと思う。
カンパの目標は1億2300万円にすべきだ。
謙虚な?)私が、「・・・べき」と表現するのは稀なのだ。

被告は皆を代表して、もう十分なものを既に払っている。
彼らが払ったものは、私らには代われないものだ。
その上に、彼らから2000万円も供出させるなんて酷だ。
彼等の負担している分は、カンパで賄うべきだ。
9月18日の日記にも書いたように、
俺もそう思う。

笠置先輩、 貴兄の弟子たちの面倒は、何千分の一だが私も見らせてもらいます。
旗旗さん、あんた気に入ったホント”男”だね。


■2005.10.5  morning   管理人 wrote

元日大全共闘・農獣医闘争委員会の笠置華一郎さんが、2005年9月12日メキシコの地で亡くなられました。
かつて、日大闘争を一緒に闘った仲間として哀悼の辞を捧げます。
日大闘争は、その規模においてもその根源的な質においても学園闘争史上もっとも熾烈な戦いの一つであったと私(達)は自負しています。
個別私のように自分を見失いかけ、学園闘争でその戦いを終結した軟弱分子もいた訳ですが、少なくない仲間は更なる闘争に突き進んでいったのです。
日大闘争後も、あの赤ヘルを被り続けた笠置華一郎さんこそ、その一人であります。
トロツキーが客死したメキシコの地が臨終の地であったことも何か象徴的なものを感じえません。
かつての農闘委の後輩が「アッ・・・・、あのときの先輩と同じだ、髭もロングヘアーも」。
掲げた写真からは、その闘魂と裏腹な優しい表情が印象的です。
農闘委・笠置先輩、永い永い戦いご苦労様でした、安らかにお眠りください。


写真は「日本人宿カサカサ」ホームページよりの拝借です


最後に、かつての戦旗派の同士が捧げた辞を拝借して掲載します。

>オレは、そうしたとうちゃんから、全共闘運動の息吹(良い面も悪い面も)を教えてもらったような気がします。とうちゃんは、その個人的な欠点や欠陥を含めて、非常に魅力的な戦旗派の活動家だった。常に、若者と一緒に、第一線で戦う情熱と気概を持った革命家だった。


■2005.10.3  night   管理人 wrote

今日は一日自主休業。
宮仕えのサラリーマンでも、無性に休みたい時があるのだ。

かつて星の付くジェネラルもいました。
唯のソールジャーもいました。
みんな全共闘を背負って生き長らえてきました。
初めて逢う仲間との再会は、旅立った仲間への黙祷から始まりました。

やっぱ・・・、書けないや・・・


■2005.10.2  night   管理人 wrote

この2日間、色々有った。
少し落ち着いてから書こう。
書いていい事、いけない事、少し落ち着かないと・・・・・


管理人日記トップページに戻るトップページに戻る