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■2007.08.31 morning  管理人

そう云えば、’70年だったか、
芸術学部映画学科の卒業作品、
訳の分からぬ”フーテン”を素材に撮りたいと、
桃井の仲間のY君とアルバイト出演、
それでも、主役の扱いだった。

新宿都心が未だ野原の頃、
伊勢丹の前、
もう忘れたが都内の数箇所でロケ撮影。
監督の映画学科の4年生、
「いいです、素のまんまでやってください」。

もうあの卒業作品は消失したのだろうか、
主役の私は、試写会の前に東京を去った。
「おい、良かったぞ」
私の演技ではなく、スクリーンに流れるサウンドトラック。
ジュディ・コリンズの「青春の光と影」だったらしい。

ラッパさんはいいよな〜、
出来れば、40年ほど前の私を見てみたいものだ。
今日はこれから遠くへ出かけます。




■2007.08.29 night  管理人

今週末、少しバタバタする所用があるので、その準備に昼から休みを取った。
休暇願いをゆっくり眺めると、この夏ほとんど休みを取っていない。
昔からいえば、土日が休めるからそれほどとは感じないが。
自営業の方々からは、気楽な稼業と言われるかもしれないが、
休まず、そこそこ働くのは、それはそれで結構しんどいのです。

帰り道、買い物に立ち寄り帰宅。
「家が綺麗になってたら、御方は喜ぶだろうな」
帰れば帰ったで、主夫魂が沸いてくる。
「でも、少し横になろう」と・・・・。
気が付いたら2時間程熟睡していた。

i-podも充電しておかねば、
モバイル・バイオもフル充電。
USBの携帯充電コードは何処だったかな、
LANケーブルは居るのかな?
エ〜ト、ビデオカメラはどうしようか・・・。

はたと気が付くとデジタル製品の心配と準備ばかり、
パンツとかシャツとか、
勿論、ヘアケア用品は既にこの頭には必要ないが、
普通の人が準備するものにはとんと気が回らない。
ウン、老人力が身についてきている。




■2007.08.29 morning  管理人

明治の学館時代、よく見かけた恐い御姉さん。
私らが居候していた直ぐ近くに、その方達の部屋があった。
思想軟弱なこの身で云うのもおこがましいが、
同じ場所、同じ時代を過ごした、
それだけだが、親しみがある。

サイトに、寄稿した詩を見つけた。

[ 学連時代 ]

立看の続く並木で アジビラを配った日
デモ多かりしあの頃の 思い出をたどれば
なつかしいポリ公の顔が ひとつひとつうかぶ
重い赤旗かかえて デモったあの時
雨の日の横須賀の 空母と原潜の姿
警棒の降るゲート 学連時代

インターを歌いながら 革命を夢見た
何の授業にも出ずに 単位も取らずに
胸の中に秘めていた 暴動へのあこがれは
いつもはかなく破れて 一人帰る家路
本棚に目をやれば あの頃読んだマルクス
素晴らしいあの頃 学連時代

サーチライトにかがやく 装甲車をのりこえ
スクラムを組みながら 闘った学友
そのやつれた横顔を 兄のようにしたい
いつまでも日和らずにと 祈った女子学生
清水谷、明治公園 なつかしいデモはかえらず
素晴らしいあの頃 学連時代

   *
ビラの散らばる校庭で ストライキをアジった日
夢多かりしあの頃の 思い出をたどれば
なつらしい同志の顔が 一人一人うかぶ
重いコン棒をかついで 通ったデモコース
秋の日の国会の汗と流血のにおい
石ころとぶ羽田 学連時代
 

ビラの散らばる校庭で 革命をアジった日
デモ多かりしあの頃の 思い出をたどれば
憎らしいポリの顔が 一つ一つ浮かぶ
重い丸太を抱えて 通ったデモコース
秋の日比谷 冬の東大 懐かしいデモは帰らず
すばらしいあの頃 学生時代

2007/08/24 「パレスチナに愛を!」 より




■2007.08.28 morning  管理人

「*.22中教審答申粉砕、全都統一集会 PM2:00 安田講堂」
「3.2法経奪還闘争、全*奪還闘争 理工1号館 理工」
玄関正面のタテカンは3月日程。
正面壁には「無期限スト決行中」「スト決行中」
「電気* 集会 151講堂 電闘委」と玄関横のタテカン



タテカンの両脇に作業着に作業靴の姿が2名、
どうみても全共闘のいでたちではない。
道行く人は冬衣装。
ウ〜ン・・・・、私の想像するストーリはこうだ。

’69年2月、機動隊の導入の直前、未明にバリケードを撤退した。
多分其の直後、早朝の写真だと思う。
タテカンの横に立つのは右翼だろう。
これからタテカンを撤去に掛かるところだと思う。
中大の学館に疎開し、夜が明けて様子を伺いにきた仲間が撮ったのだろう。

Dくん、私のストーリーは合ってるだろうか。




■2007.08.27 morning  管理人

土曜日、繰上げの誕生会を開いてくれた。
息子二人の都合でかなりの繰上げ日程、行きつけのイタリアン・レストランへ。
何時もは、私ら夫婦で貸しきり状態になる事が多い店、入ると満席状態。
「こや〜まずいや、マスター、パニックだぞ」
「今日は時間掛かるけどいいか」、息子二人に前もって念押し。

「貴方、今日は良かったですね、久し振りに息子二人とゆっくり話せて」
7時に入店して、最後のオーダーを食べ終えたのが9時。
最初のビールが来るまで十分ほど、メニューとメニューの間が数十分、
料理も時間の流れもイタリアンそのまんまだった。
せわしない方々にはとてもとても我慢できないだろうが、
私ら家族四人にはゆったりしたバースディーパーティになった。

一昨日のYくん後、このホームページに綴っている(にっくき)Kくん、Sくん、
それと後二人、連絡を取ったのだが、誰も当時の理工学部関連の写真を持ち合わせていない。
一人、一眼レフをぶら下げ走り回っていた学科の仲間がいたのだが、この4〜5年音信不通。
目的は果たせなかったが、近況の交換にはなった。

「悪いな、お前さんのことボロくそに書いてるよ」
(にっくき)Kくんに、
「俺、今、家族旅行で信州に、最近おまえさんのホームページ見てないんだよな」
「写真・・・、無いよ、モヒカンヘルメトと黒旗なら確か有った筈だけど」
「其のうち送るよ」
ヤベエ・・・・、やぶ蛇になってしまった。

「今、大阪からの出張の帰り道、高速の上だよ」
硫酸で穴の開いた白衣がゲバスタイルだったSくん
「なに・・・、そんなことになってるのか、帰り着いたらも一度連絡くれよ」
運転中だったので長話が出来なかった

「なあ・・・、連日40℃オーバーだよ、何とかならねえか」
「この夏、やりかけの四国のお遍路も考えていたけど、この熱さだろう、見合わせたんだ」
そうは云われても・・・、群馬に在住のDくん、
「持ってねえよ、以前、何点かはお前さんに送っただろう」
「今年の”930”は都合が合わなくていけそうにもないや」
調べてみたら、理工学部一号館バリケードを正面から撮ったものが出てきた。
悪かった御免、Dくん。

レポ役(偵察任務)で隠密行動していたTくん、もしかして持ってるかなと思ったのだが。
「御免な、以前、闘争関係のもの、全部処分しちゃった」
「それに写真関係は殆ど無かったし」
「心当たりに此方から声掛けてみるよ」
Tくん、今、趣味の絵画の指導や、個展の開催で忙しくしているそうだ。




■2007.08.26 morning  管理人

当時の理工学部の写真が欲しくて、学科の何人かに電話を入れた。
本文で紹介しているYくん
「俺は持ってねえよ」
相変わらずぶっきらぼう。

折角だから近況を尋ねると、最近長年勤めた役所を辞したとの事。
「もういいよ、十分働いたから」
「それで、何やってんだよ」
「近くのお宮様の氏子総代、これが結構忙しくてな」
「あとは少し百姓仕事」
「何するかは、これから考えるよ」

私の近況も報告すると、
「俺はネットなんぞ全くやらねえよ」
「それに氏子総代、今はすっかり”天皇陛下万歳”だからな」
「お前さんは、相変わらずよくやるよ」
氏子総代と天皇陛下万歳とがどう繋がるのかよく分からないけど、

バリバリの全共闘になる前、彼は御用自治会の学科幹事。
もろ、向こう側の学生だった。
当然だが、徹底的に左翼(セクト)を嫌った。
そういえば、あの頃も”天皇陛下万歳”だったな。
彼の口癖は「反米愛国」、
まあ・・・、平たく言えば”右翼”だ。

思想的傾向と似通った風貌をしていた。
強面で、初対面はおっかない。
でも、繊細で寂しがりや。
性根が分かるまでは苦労したが。
学科の逮捕一号、
機動隊さんのお陰で、間違って最強の全共闘へ突き進んだ。

夜寂しくて、阿佐ヶ谷南から北まで、ゲタの音を響かせてよくやってきた。
なけなしの金で、未明の阿佐ヶ谷を二人で徘徊した。
涙して啄木を詠んでるお前さん、
強がりで意地っ張りなお前さん、
俺は大好きだった。

ネットやってないことわかったから、今からはすき放題書かせてもらうからな。




■2007.08.25 morning  管理人

休みの日は、起きると一番に洗濯を始める。
我が家の環境基準でお風呂の残り湯。
それから居間の片付け。
私は主夫ですので。

職場のデスクは乱雑、書類が散乱し、飲みかけの飲料はカビが浮いている。
「家は整理整頓、綺麗に片付けているけどね」
言い訳をするのだが、同僚には余り信用されてないようだ。
元々、小心で生真面目、シンメントリーでスクエアーな性格。

それが、何でもありのバリケード生活を200日以上、
追い出された後、転々とし桃井のコンミューンへたどり着いた。
生活スタイルは限りなくアナーキー。
結果、私のキャラは「繊細」と「どうでもよい」が奇妙に入り混じったものに。
世間一般の”性格破綻”とは呼ばないで欲しい。

昨晩は久しぶりに定刻に金曜サロンへ。
牧師さまから永く借りていた内田光子さんのモーツァルトを返す目的も。
行くとローザ姉御と長老が、遅れて牧師さまも、
よく考えてみるとこの前の選挙以来、ご無沙汰していた。

閉店の9時頃までワイワイガヤガヤ、
「仕事の方はどうだね」
「何処かに良い枝振りの木があれば、首くくりたい心境ですわ」
「でもね、プライベートの方は楽しい事が一杯有ってね」
キャラ同様、ギャップの大きい近況を報告。




■2007.08.24 morning  管理人

肌寒さを感じ目が醒めた、AM2時頃。
未だ起きるのには早すぎるので、エアコンを切った。
夜中に通り雨があったのだろう、ベランダが濡れている。
そろそろ熱帯夜も終わりかな、エアコン環境基準を元のAM1時OFFに戻さなくては。

昨日の帰路、西の空が真っ赤に染まっている。
庭のそこここにセミの死骸がひっくり返っている。
もう直ぐ、ツクツクボウシが鳴きはじめる頃。
もう秋は其処まで迫っている。



’68年のこの頃は、実家からバリケードに復帰していた。
昼間、バリ内はひっそり静まりかえり、人影はまばら。
バイトに行く者、小銭があり神保町界隈の雀荘やパチンコ店に行く者。
「右翼の野郎、真昼間から攻めてはこないだろう」
昼間、バリの警戒を緩めるのはそんな雰囲気もあったから。
事実、この頃は昼間、誰でも出入り自由だった。

少し先、9月の激闘期の直後、バリケードがにわかに”全国区”になった時期。
突然、女子高校生の集団が入ってきたり、修学旅行の高校生が入ってきたり、
当然、入り口はゲバスタイルの学生が24時間体制で見張っているのだが。
若者はそんな事はお構いなし、隠れた観光スポットにもなっていた。
女子高校生のバリ内観光のガイド役、一度も回ってこなかったが(泣。

バリ内に人影が戻るのは夕方から。
バイトから帰ってくる者や、学科のノルマで泊り込みに来る者。
毎晩定期的に、泊り込み全員の全体会議が持たれた。
泊り込み要員の確保、泊り込み食事の対策、バリ警備のローテーション、
大学当局との交渉の進捗状況、他学部の状況、右翼の動向などなど議題はめまぐるしく変わったが。
時には階級情勢についてとうとうと演説をぶつ奴もいた。
演説の場合、私はほとんど寝ていたが。

実は、この後が楽しかった。
皆それぞれ自分の学科に割り当てられている教室にかえる。
バリ警備に付く奴は、完全武装を整える。
完全武装たって、ヘルメットに角材だけなのだが、
この二点装備でウルトラマンに変身できた。

その他の者は、
勉強する奴は・・・・、日大だもな、云わなくても分かる。
大人しく本を読んでいる奴は僅かにいたが、大半は仲の良い者同士のお喋り。
女学生が居れば、そこが一番賑わっていた(と思う)
時折、階級情勢の議論で大声出している教室もあったが。
バリ内のマージャン、飲酒は、私の記憶の限りでは無い。

矢印の場所が理工バリケード唯一の入り口、学科の部屋は三階

終電頃には泊まり組だけになる。
私はバリ警備が無い時も、バリケードの入り口によく出た。
日付が変わる頃には、前の歩道の敷石とコンクリートが冷えて気持ちが良い。
角材を枕に、涼しい道路にひっくり返って星空を眺めた。
「俺はこの先、どうなるのだろう」
正直に言えば、勢いもあったが、小心な肝に、小さな不安も抱えていた。

パクられる数週間前の8月も末の頃だった。




■2007.08.23 night  管理人

ニクタラシイ、Kくんの写真を、昨日とあるホームページで見つけた。
そう、あのアベックでマドンナと一緒にパクられた、にっくき奴だ(笑。
ちっちゃな女の子と一緒にパフェを美味しそうに食べている。
お孫さんでもないようなのだが。

失恋物語を綴っていると、彼女の面影の横に必ずKくんの顔が映る。
頭を振って追い払おうとするが、しつこく浮かんでくる(泣。
「お前なあ、大変だったんだぞ」
当日、夕方に京浜東北線で彼のアパートへ急行した。
ガサ入れの前に何とかしなければ、彼は学科闘争委員会の裏方だった。
名簿に、日誌に・・・・、色々とヤバイものがごまんと。

アパートの鍵をこじ開け、押し入ったと(思う)
手当たり次第にそれらしき物を箱に詰め込んだ。
今、その時のアジビラ、機関紙がこのHPに収まっている。
ビラ保管庫のコレクション、’69年4月より以前のものは大半がKくんのものだ。
しかし、他学部のものからセクトのものと色々ある。

コレクションに赤ヘル関連がたくさんあるのは私の「赤ヘル同好趣味」の為、
一宿一飯の恩義を受けた、中大と明大のものが多い。
それと、流れ的にはノンセクト・黒ヘル傍流なので、アナーキーなヤバイのもチラホラ。
Kくんも、流れは同じなのでアナーキー物はどちらの所持物だったとは決め難い。

私の失恋物語に唯一余計な情景。
二人並んで大きなリムジンで”護送”されたと思う。
Kくんは彼女の右側だったのだろうか、左側だったのだろうか、
それともトイメンだったのだろうか。
一度聞かせてもらわないと、私の’69年4月が終わらないのだ。




■2007.08.22 morning  管理人

昼間、在宅時はエアコンはかけない。
2階の自室は暑いので、モバイル・バイオを階下に持ち降りる。
屋内LANにしているので、どの部屋でもネットに繋がる。
かなりの費用で屋内配線を施した後に、性能の良い無線LANが普及した(泣。

帰宅後、食事時になるとエアコンを入れる。
皆が働きに出ている我が家、昼間に優雅に風を通す暮らしは無理だ。
この時の温度設定は30℃、熱気の篭もったクソ暑い部屋では猛烈にエアコンが働きこの温度でも涼しく感じる。
32℃設定でも構わないのだが、我が家のエアコンはそれ以上の設定はできない。
自室でも起きてる間は30℃設定、寝る前に28℃設定に下げる
さすがに、深夜の30℃設定は意味をなさないから。

そのように、我が家の環境基準はかなり厳しくしているのだが、
知人の原理主義の方からは手ぬるいと責められそう。
でも、私は昔からやせ我慢はしない、
我慢できないからバリケードにも篭もった。
そういう問題じゃないだろうと責められそうだが、そういう問題なのだ。

バリケードに200日以上篭もったのは、
そうしたいと思い、
それから、
そうしなければと思うようになったから。
思想軟弱な身、やせ我慢で200日は持たない。




■2007.08.21 night  管理人


仲間がパクられた日曜の朝 
雨の中をゆがんで走る
やさしい君は それから
変わってしまったね
さよなら ぼくの 友達

「エッ・・・何だこれは」
「俺達の経験、まんまじゃないか!」
森田童子を初めて聞いたのは、実家に帰ってきて随分と経ってから。
未だ生々しく残っている記憶が洪水のように蘇ったのを憶えている。

ストリーは似て非なるものだが、
あの時の事、
桃井の事。

バリケードの雪の朝、
板切れ持ち出し滑り降りた、
駿河台の坂道にシュプールが一本。

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■2007.08.21 morning  管理人

農闘委のホームページに、日大闘争関連の本の紹介がある。
「1608名の逮捕者」というタイトルの本。
まんまだ。
私もマドンナもそのカウントに寄与している。

中には2度3度という剛の者もいた。
HPやここの日記で時折紹介するMくんなんかがその代表だ。
逮捕歴というのは、言い換えれば認定証のようなもので、
その認定をもらって、やっと一人前に扱われる。
私もドジで、否、幸運にもそのチャンスに巡り合えた。
逮捕歴を有している者同士、言葉では言い表せない連帯感があるのだ。

私の場合、お縄になった経緯は機動隊との最前線でのにらみ合い、
一瞬時間が止まった緊張感の後、はたと気が付くと後続の隊列は散った後だった(逃げ遅れ)
まあ、それぞれ色々あるが、闘争初期段階の理由は、殆どが”ドジ”
出来れば捕まりたくない気持ちのほんの片隅に
「捕まったら、まあ仕方ないや」の僅かの覚悟。
いわゆる確信犯程の強い動機はない。

JUNさんの(初めての)場合は’68年8月初め、
>カッーとなって蹴飛ばし公妨で逮捕されてしまった(掲示板投稿より)
ウ〜ン、蹴飛ばしたか!
負けたな。
私の”逃げ遅れ”とは”格”が違う(泣。
でも・・・・・、今のJUNさんはヒゲを蓄えた物静かなイメージなのだが、
見掛けと本性のギャップが有り過ぎる。

逮捕に至る、
この計算の無さ、
ドジさ、
向こう見ずさ、
それに、自分に敷かれていたレールが一度取っ払らわれる喪失感、
私が若者にメッセージできるのはその程度だ。




■2007.08.20 morning  管理人

明治の学館に逃げ込んだ者は、根こそぎ全員持っていかれたと聞いていた。
機動隊、各部室を一つずつ検め、隠れていた者を引っ張り出したという。
まさか彼女がパクられたとは思っていなかった。
しかし、夕方が近づいても所在が不明。

私は御茶ノ水通りを駿河台下まで飛び逃げていた。
一度ドジ踏んでパクられて、学習が出来ている、
貴重な経験が、度重なるヤバい場もなんとか切り抜けてきた。
日大全共闘にとって、集会、デモ、衝突、その後の逮捕・検挙は日常茶飯事、
「アイツ、ドジだよな〜」と笑って話すレベル。
本人にとっては一大事なのだが、周りの者には普通の出来事だった。

しかし、この時だけは違った。
彼女の学科の仲間から情報が伝わってきた。
「どうも、学館に逃げ込んだらしい」
学館に逃げ込んだという事はパクられたと云うことなのだ。
焦りに焦った。


後で同学科のKくん本人から聞いた話だが、
彼は逃げ遅れた彼女を庇って、一緒に学館に逃げ込んだという。
アベックでパクられている。
それって、私の役目だろうが・・・・、
彼女と一緒ならパクられても構わなかったのに。

軍手に角材、
ヘルメットに手拭マスク、
一度目は、完璧でまんまなゲバスタイルでお縄、
二度目の御用は、彼女を庇ってなら厭わなかったのに。
ウン・・・、若いという事は、勢いがあるという事は素晴らしいのだ。
この”馬鹿さ”だけは、今の若者にも見習って欲しい(汗。




■2007.08.19 night  管理人

「父さん、英語の辞書貸してよ」
「講師が外人だから、和英かな〜、それとも英和の方が良いのかな〜」
長男坊は今日から首都圏に出かけると言う。
何でも資格認証の講習が横浜で有るらしい。
話を聞くと、資格はユーロ基準という。
よく分からないが、それって英語なのかという疑問が残ったのだが。

長男坊、土曜も帰宅はAM1:00、つまり日曜の朝1時。
今朝も普通に起き身支度を整え勤務に、夕方の飛行機便までも仕事だそうだ。
働き者は父さん嬉しいが・・・、
どうもDNAは、駄々なオヤジより、働き過ぎで亡くなった伯父さんに近いようだ。
先に逝くなよな、父さんが先だからな。

しかし暑い、クソ暑い。
ブチ切れて、ホース引っ張り出し家中に散水する。
家中という意味は、庭、駐車場は当然、
壁面、塀、屋根の上まで、敷地内とにかくホースの届くところ全部。
やり切ったら、頭からパンツまでズブ濡れ。

「貴方、それって資源の無駄遣いですよ」
妻の一言に、濡れてバーコードになった頭をかいて反省。
見境が無いのは昔からのキャラだから、仕方ない。




■2007.08.18 morning  管理人

我が家の環境基準を見直した。
夜のエアコン・タイマー設定、AM1:00が厳密な基準で有ったのをAM3:00まで延長した。
これは厳しい環境の変化に対応して政治的判断でもある。
財務大臣の異議は今のところ無い。
とにかく・・・・・クソ暑いのである。

人は記憶を美化すると新聞の解説記事に載っていた。
これは法則で、例外は無いらしい。
当時の記憶は線でなく点で残っている。
その”点”はかなり鮮明なのだが、時系列ではなくてんでバラバラ。
理数系なので、どうしても時系列に点を結び線にしようとする。
私の場合、この作業に美化効果が強く入るようだ。

特に、私的にな事にはその法則が強く出る。
しかしだ、私の失恋物語は仲間内ではバレバレなので、
あんまりな事を書くと批難の洪水となる。
そこのブレーキも働いているので、
まあ、それなりにだ。

悲しい恋物語には色々とファクターがあるのだが、
事故とか、差別とか、戦争とか。
私のストーリーの特徴は幾つか、
バリケードと逮捕、そして別れ。
まあ、そんなものだ。

BGMを変えた、効果は抜群。
Jさん、ありがとう。

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■2007.08.17 nightU 管理人

で、ある事を控えて気合が入り気味になっている。
しかし、何故か気合を入れて綴るのはラブ・ストリー・・・・、
違った、失恋物語の方へどんどん進んでいってしまう。
これは決して本意ではない。
BGMに選んだ根暗な選曲のせいだと思うのだが。


本意ではないが、やっぱり筆が進みそうだから、
もう寝る。
それが一番だ。
今日は帰り道の雲が綺麗だった。




■2007.08.17 night  管理人

バリケードの中で知り合って、少し経った頃。
10月か、11月か、それとも12月なのか、時期の記憶は完全に飛んでいる。
泊り込みの仲間達と何度も、彼女と一緒に喫茶店に行った。
「やっぱ、アールグレイだよな!」
「紅茶に砂糖は邪道だよな!」

風呂も滅多に行かない、と云うか行った記憶が無い(泣。
汗臭く薄汚れた身なり、
ポケットにはコインが何個か、
極限の貧乏学生が、お金持ちのお嬢さん相手に精一杯粋がってアールグレイを飲んだ。
このアンバランスを楽しみこそすれ、身分(貧富)差の気後れは無かった。
そんな時代だった。

雑談の途中で、唐突に彼女に言い放った。
「私は貴女が好きです、付き合ってください」
この通りではなかったかも知れないが・・・・・、
明確に、きっぱりと、相手に”通告”したことだけは鮮明に覚えている。

返答を期待できないというのが、悲しいかな”通告”という意味なのだが。
それまでの優柔不断な私の性格からは考えれない言動だった。
怖いもの知らずのバリケード生活が、私の素の性格を変えたのか。
それとも、高校時代、彼女に言い出せなかった後悔なのからか。

この時、彼女はクスクス笑って返事をしてくれなかった。
一対一なら違っていただろうか・・・・・、
けど、この事だけは今でも後悔していない。

今でも、紅茶は砂糖なしのアールグレイが最高だ。




■2007.08.17 morning  管理人

私のマドンナが全共闘だったのかどうかは、一言では言い切れない。
気になり始めた頃、彼女はいつも近くに居た。
たまにはデモのスクラムの中にもいた、勿論彼女の学科の隊列だが。
だが、ゲバスタイルの彼女は記憶になく、スカート姿の彼女しか記憶に残っていない。

激しい衝突が予想される集会・デモは少し隊列から離れて付いてきていた。
ヘルメットと手拭マスクの間から、どこかに彼女の姿を見ることができた。
いわゆる”一般学生”でも無いし、そうかと云ってパンツにジャンパー姿のまんまの全共闘でもない。
私たちはこういう層を”全共闘シンパ”と呼んでいた。


彼女は限りなく全共闘に近いシンパだったと思う。
日大闘争の特徴は、闘争初期の段階からこのシンパ層が数多くパク(逮捕・検挙)られているという事だ。
これが確信犯的な”日大全共闘”を多く生んだ大きな要因にもなっている。
パクられて、バリバリの全共闘に突き進む者。
パクられて、後ろへ下がり遠ざかっていく者。

その違いは本人の気持ちだけではない、家庭事情、親の厳しい干渉、様々だ。
彼女は出所直後、親に”拉致”され、実家に連れ去られた。
そんな学生を私らは決して後追いしなかったし、謗りもしなかった。

個別私は、一人泣き濡れただけだ。

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■2007.08.16 night  管理人

女学生で泊り込みをするのはホンの限られた方だけだった。
薬学科に何人か居たと思うが、その他は余り記憶がない、御免。
40〜50人の泊まり込みで僅か数人、彼女達はそれだけに根性(決意)が違っていた。
珠に話の成り行きで議論になるとコテンパンにやり込められる。
細身のコットンパンツにとっくりセーター、それだけは鮮烈に印象に残っている。

マドンナがバリケードに泊り込んだ記憶はない。
彼女と会話を交わすようになり、気になりだしたのはバリケードも末期の頃だったと思う。
朝起きると、隣の教室から女性の声が聞こえてくる。
「いいな〜、隣は女子が居て」
殺伐とした野郎ばかりのバリケード、女学生の声だけで気持ちが華やいだ。

彼女は毎日のようにバリケードに現れた。
身なりからすぐ裕福なご身分だという事は分かった。
何人かで声を掛けて、喫茶店に誘った。
バリケードの掃き溜めに鶴、彼女は薄汚れた私らを嫌わなかった。

ニコライ堂の向こうの本郷通り、大きな窓から明るい日差しが差し込んでいた。
多分、日大闘争が無ければ出会う事も無かったし、あんなに悲しい別れも無かった。




■2007.08.16 morning  管理人

日大闘争年表の'69年5月21日
> 全学総決起集会2000名結集、理工1号館に突入封鎖

'69年2月、全共闘がバリケードを出た後、校舎は鉄格子が組み込まれ、
入り口や開口部は分厚い鉄板が張られ、猫一匹入らせない完璧なロックアウト。
中大や明大に居候し、そこから波状的に出撃を繰り返したが、
帰参する拠点の無い哀れさを痛感。


写真はその当時のものでは無いかと思われる。(ブルースモークさん撮影)
コートやセーターが見えるので冬場、ステッカーがベタベタ貼られたガラス戸から明治の学生会館だろう。
疲れて消耗し切った風情から、バリケード奪還戦の後の総括集会。
アジる白ヘルは法闘委・委員長のSさん
青解、MLのセクトのヘルメットの中に、理闘委のモヒカンヘルメットが3個写っている。
メットの裾から伸びた髪がはみ出しているのは、確信は無いが多分私だと思う(としておこう)。

皆のたまり場となった桃井コンミューンのアパートや、荻窪の喫茶・シルクロードはこの時期よりずっと後。
皆には総括集会の後、帰る場所が無い。
自然と誰かのアパートに溜まる様になった。
よく被害に遭ったのは私の新高円寺・梅里のアパート、地下鉄で乗り換えなしに直行できたから。
夕方から何となく集まり、パトロンがいる時は近くのスナックに出掛ける。

ある日の明け方、スナックから帰り始発まで皆が仮眠した。
5〜6人だったか、マドンナも一緒だった。
彼女は横にならず、明るくなるまでず〜っと窓辺に座っていた。
少しだけ幸せな時期だった。
学館でパクられる、ほんの少し前の事。




■2007.08.15 night  管理人

一号館バリケードから中央大学の学生会館に疎開したのだが、
その晩は皆で学館に泊まった。
しかし、人んちは居心地の良いものではない、
それに、日暮れが迫ると赤ヘル被った恐いお兄さんが私に文庫本を読めと薦める。
それ以後、暗くなって其処に詰めるのは早々に止めた。

本は、それまでの私にはついぞ縁の無かったような奴。
「これ二冊読めば、もうバッチリよ!」
「貴方はリッパな赤ヘルだよ」
そう云って差し出された本が「国家と革命」と「何を為すべきか」
そう、著者はあの方だ。

赤ヘルさん達にしては、
実技テストは免除だったのだろう。
そりゃ〜、落ちぶれても日大全共闘の”行動隊”だもの、
古株の赤ヘルさんにも引けは取らない。
問題は”教養”の学科テストだけ。
赤ヘルさんにすれば、幾ら何でも”右翼”はまずいと思ったのだろう。
無論、最初の2〜3ページで、つまらないので読むのは止めた。

暫くして明治大学の学館に居候の場を変えた。
そう、あのマドンナがパクられた学館なのだ(泣。
どちらかというと此方の方が居心地が良かった。
道路に面した3階か4階、生協の店の上の階だった。
そこは、赤ヘルさん達のキャラが微妙に中大とは違っていた。

どう違っていたのかは云わないが、体質には合っていた。
皆さん知ってるかどうか知らないが、赤ヘルって云ったて色々有ったんだ。
私の赤ヘル同好趣味はここから始っている。

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■2007.08.15 morning  管理人

'69年2月の何日だったか記憶がない。
其の日、全体集会でどんな議論が有ったかも記憶に無い。
徹底抗戦を主張した仲間が居たかどうかも覚えていない。
皆の疲弊状態は極限に達していた。

少し前の1.18〜19の状況、伝え聞いた2月2日の郡山の惨状、
徹底抗戦での代償の大きさは皆が痛感していた。
7月8日からの200日余り、正確には'69年2月1日時点で209日目のバリケード篭城、
正直に言う、'68年9月4日には思い切った私も、この時の徹底抗戦には躊躇した。
夜も更けてだったと思う、全員が荷物を提げてバリケードから撤退した。


理工学部一号館から100m程、少し坂を下った中央大学の学生会館に移動した。
夜の坂を一号館を背に、皆トボトボと無口で歩いた。
中大全中闘(と思う)の好意で、薄暗い学生会館の2階か3階、大きな会議室のような部屋があてがわれた。
ガリ版インクで壁は汚れ、室内は雑然としていた。

部屋の周りを、壁沿いに会議机を二列ずつ並べその上にフトンを敷いた。
二人に一つ位のフトンの数だった。
2月の厳寒期、体を寄せ合って寝た。
こいつ、俺に素足をからみつけやがる、気持ちワル〜
落ち込んでいる雰囲気を破り、やっと笑い声が出てきた。

こういって場を和らげたのは、今は南の離島に居るMくんだったと覚えている。




■2007.08.14 night  管理人

ハッと起きたら、30分程超過していた。
昼休み、何処にも出掛けずソファーでうたた寝がすっかり習慣になってしまった。
静かな応接室で不覚にも熟睡。
休みで歯抜けになった職場、来客も無くいい環境で寝過ぎた訳だ。

日曜日、久しぶりにプールに出かけていた。
屋内とは違いキラキラと光る水、
キックする足の陰がくっきりと映る。
競技用の長水路プール、お日様の下でついつい泳ぎ過ぎたせいのようだ。

'68年は丁度今頃だったと思う。
実家に帰っていた私宛に手紙が届いた。
もう残ってはいないので文面は忘れたが、
「人が少ないからすぐ帰って来い」、と言うような内容の文面だったと思う。
差出人は、親の目もはばかる
「**学科二年闘争委員会」

激闘の9月を控え、まだまだ長閑なバリケードだった。




■2007.08.14 morning  管理人

我が家は猛暑のこの時期だけボリュームアップする。
ビールがレギュラー缶からロング缶になるのだ。
下戸なもので、ロング缶といってもリッター缶ではない、その半分。
飲むと益々暑くなるのに、暑さの勢いでついつい飲んでしまうのだが。

昨晩、冷蔵庫を開けるとその大事な物が無い、
確か2〜3本有ったはずなのに。
やられたのだ。
長男坊のちょっと一杯はロング缶2〜3本なのだ、あんちくしょう!

夏休みとお盆休暇のこの時期、朝の通勤、道路が空いている。
私といえば、月曜から週末まで仕事の予定が。
空いた道路、歯抜けになりエアコンがよく効く職場、
考えてみれば、この時期仕事に出てきたほうが快適なのだ。
勿論、負け惜しみなのだが。

BGMをこのパターンで変えようとも思ったが、
BSフォーク大全になりそうで。




■2007.08.13 morningU 管理人

1967年当時、日大の学生数は10万人と云われていた。
同年の短大他含む大学への進学者の総数が44万人、4倍すれば180万人弱。
大学生の18人に一人が日大生。
東京の人口が1000万人と云われていたので、都民100人に一人が日大生の勘定。
10万人がサバ読みでも如何にマンモスだったか分かる。

入学定員の若干増なんて生易しいものではない、文系では定員の3〜4倍増は平気の大学。
理工系では必須の基礎実験、4〜5人が限度の実験台を二重三重に学生が取り囲む状況、
押し出しのきかない弱気な学生は、機器さえ触れない実験。
文系の講義は、教室に入れないのを見越して教授は出席をとらない、
結局は、授業料を払うが授業には出てこなくなる学生、大学は大歓迎だったのだ。

それでも、学内の状況をそこまでに止めておけば”日大闘争”は多分起こらなかったと思う。
湯水のように入ってくる授業料に、大学関係者はまともな感覚を失ったのだろう。
体育会系の職員で要所を固めている事務方、縦の序列が厳しく、常識的な経営感覚が通らないのは自然の流れ。
使途不明の額は判明したものだけでも20億円、
大学卒の初任給が2万円ぽっちの時代だから、今の貨幣価値に換算すると10倍の200億円。
>ある上級幹部は個人で三年間のヤミ給与が一億円に達するという('68年6月19日、毎日新聞)
今の貨幣相場で、一人が年間3億3千万円のヤミ給与を3年間も懐に入れていた訳だ。
さすがに、やられ放題で羊のようなポン大生もブチ切れた訳だ。

ブチ切れても、常識的な弁解、反省のポーズだけでも殊勝にとれば収まるものを、
そこは美味しい思いをしていた特殊な大学職員が多くを占める極めて稀な大学法人。
徹底的な暴力での弾圧を強行した。
脅せば、
殴れば、
黙るだろう、
辞めていくだろう、
学生が少々減っても痛くも痒くも無い大学だった。
今までそれが通用していたから、その時もそれが通ると踏んでいたのだろう。

学生100人も居れば、一人や二人はブチ切れる奴が必ず出てくる。
自分達が膨らまし続けてきた10万という母体が、僅か数パーセントでも数千となる全共闘を生むとも知らず。



■2007.08.13 morning  管理人

ある事で、仲間の多くが集ったようだ。
和気あいあいで進行したと、何人もの方から連絡いただいた。
一定の流れを確認できたという。
ホントに良かった
クゥゥ・・・・、涙が出そうだ。

「日大全共闘は気の遠くなるような”多様性”」
だもな!





■2007.08.12 night  管理人

5時に墓所に着いた、家から自転車と徒歩で20分ほど。
明け方の通り雨で空気が湿気ている。
亡き父が、コンクリートで固めず山土の上に砂利を敷き詰めた墓地。
少し間があくと、見事に雑草が生え茂り手間がかかる。
でも、コンクリートのそれよりも私は土の方が好きだ。
7時過ぎ、妻が花と線香を携え墓地に上がってきた。


昨日、第13回「日大930の会」同窓会のお知らせページを更新した。
来年が結成40周年を迎える日大全共闘だが、我らニ闘は満60才を迎える。
一浪、一年次留年組、及び三闘は61才だが(笑、
本当に60才なのだ・・・・・・・・。

「40周年は出来ても、50周年は無理だよな!」
先日、先輩がふと漏らした言葉。
老い急ぐつもりはないのだが、
人の命は、はかないものだ。
一昨日の訃報が我が身にダブる。

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■2007.08.11 morning  管理人

東大全共闘の一員で、哲学者でもあった小阪修平さんが昨日亡くなられた。

ハイビジョン特集 シリーズ、青春が終わった日、戸井十月インタビュードキュメント「全共闘それぞれの“決着”」、 7月23日(月)BShiで放送
番組は日大3名、東大4名、当時の実写フィルムを挟みながらインタブビュー形式で始った。
小阪さんは冒頭に登場。

 右端は三島由紀夫氏

「全共闘といえば自分が全共闘と思えば全共闘なのだから、僕も全共闘になっちゃったんだけども」
「何で自分が全共闘になったのかも良く分からないんですよね」

飾らない、ひょうひょうとした風貌。
はにかみ気味に話す。

僅か1月程前に、笑顔で番組に出演した小阪さん、
面識は無かったが、
番組と訃報との落差に落ち込みそう。
ご冥福をお祈りします。

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■2007.08.10 morning  管理人

妻に番組DVDを見せると、顔を背けた。
「観たくないの、思い出したくないの、辛いから・・・・」
クーデターから始る弾圧・・・、
潰えた社会主義の理想・・・、
田舎で、○共しか知る環境になかった彼女、
私とは違う思いで、この時代の出来事を見ていたのだろう。

その事の理路整然とした文章は書けないけど、
1970年、チリに”合法的”に社会主義政権が誕生し、そして1973年にクーデターにより崩壊している。
当時、私はこの事に余り関心を示さなかった。
それまで数年の日大闘争の経験が、
「社会主義は革命で勝ち取るもの、合法的な選挙で勝ち取れるものではない」
そういう醒めた目で見ていたことは確かだ。

理工学部では、1968年7月、バリケード闘争から早々に離脱し、
全学集会で民主的に決めた五項目要求を共に闘うのではなく、
代々木の指令で独自に動く、極端なセクト主義。
闘争末期に禿鷹のように登場し、大学と裏でボス交を繰り返したと聞いている。
そういう奴等が掲げる合法的な”民主連合政権構想”に、
私は、染み付いた拒否感があったのは確かだ。

私達の仲間のなかで、選挙に余り関心を示さない方もいる。
僅か数年・・・・・・、
決定的なものを見てしまった、
見せられた私達のトラウマは深い。




■2007.08.09 morning  管理人

1969.2.2の郡山・工学部の最後のバリケード。
確か、'68.9の法・経学部は別として、この時期の学部闘争委員会では唯一だったと思う、
非妥協で、徹底して、バリケード解除に抗戦した。
その結果は、壮絶を極めた。
今に残る映像記録がこのホームページにもある、
その凄惨な真実を紛うことなく伝えているので観て欲しい。


1973.9.11、官邸からと思われるアジェンデ大統領の最後のラジオ放送。
最後に括られた、チリ万歳!、民衆万歳!、労働者万歳!
彼はこの後、自ら小銃をもちクーデーター軍と交戦したと伝えられている。
この映像に、何故涙が止まらなかったのか。

滅する事を恐れず、わが身を投げ出すことの気高さ、
デイスプレイの後ろに、脳裏ではもう一つ、'69.2.2の工学部の場面が再生されていた。
私等でないと起こらぬ特異な症状かな。
工学部の仲間、追い詰められた最後に何を思ったのだろう。
徒然、緩んだ涙腺には堪えるのだ。

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■2007.08.08 morning  管理人

贈って頂いた番組DVD、職場で10分程を視聴しました。
冒頭から流れる「人生よありがとう」
ただものではないと伺えたので、途中で止めました。
昨夜、自宅で最後まで観ました。

職場で10分で観るのをやめたのは、目頭が真っ赤になり周りが憚られたからです。
自室で、涙が止まりませんでした。
何故、貴方が作られたこの番組を、私に見せたかったのかよく分かりました。
分かり過ぎるほど分かりました。

祖国の労働者諸君
チリとその未来を信じてほしい

裏切りがのさばる苦しい時を
他の人々が乗りこえるでしょう

自由な人々が歩くために
よりよい社会をつくるために

大きなポプラ並木が開かれる
その日は遠いことではない

チリ万歳!、民衆万歳!、労働者万歳!

1973.9.11 砲撃を受ける大統領官邸より

PS. DVDがCPRM対応のワンス・コピーROM、さすがです、更に泣けました(汗。




■2007.08.07 morning  管理人

遠い昔、チリでクーデターがありこの歌は禁止された。
そんなナレーションからDVDは始まっていた。

ある方に、この歌を紹介された。
曲名は憶えの無いもの。
私には曲のイメージすら浮かんでこなかった。
昨日、その方から、その歌を取り扱ったある番組のDVDが届いた。

19歳の若き歌手が切々と歌うシーンから始まる。
「知ってるぞ、聴いた事がある!」
哀調を込めた歌で、私の YouTube のお気に入りコレクションに録ってある奴だ。
続いてその番組DVDを観た。


「私には大切な、思いを込めた歌があるんです」
その方は、そういう風に言って私にその歌を説明してくれた。
スペイン語が分からない私には、哀調を込めた曲調から、この歌のジャンヌは”失恋歌”のグループに。
そんな歴史が深く刻み込まれ、人々に歌い継がれているとは全く知らなかった、
教養の無さを恥じ入るばかりだ。

この歌を私に教えてくれた方は、この番組を作った方だ。




■2007.08.06 morning  管理人

考えてみると、山の草木ってのは水遣りしなくても枯れない訳で。
広くない宅地に、無理やり植えている草木はそうはいかない。
ホースで、じょうろで、30分程が朝夕の日課。
この涼しいこの時間帯はスズメバチの活動時間帯でも、
必ずでかい奴が頭の上を2〜3匹交差してゆく。
最近気が付いたのだが、彼らには日課の定期巡回コースがあるようだ。

一昨夜、車を運転していると携帯が鳴る、首都圏の先輩から。
帰り着き掛けなおすと、
「今やってるよ、観てるかい」
「アッ・・・そうだ、今日だったんだ」
某放送局の方の関係する番組、うっかりしていて後半しか観れなかった(汗。
局のホームページを見ると、週末に今までの分の再放送が4日連続である。
きっちり録画しなくては。

ワイドショーやら報道番組やら、
まあ、ありとあらゆる罵詈雑言を吐いてくれる。
負けたからってあんたら其処まで言わなくても、
形勢みて物云う奴らは嫌いだ。

あの方の性根は、以前も今も全く変わっていない。
そういう意味で、もっともっと頑張れ。




■2007.08.05 noon  管理人

理闘委の”全体集会”は、確か一号館バリケードの4階(?)にあった大教室。
夜も更けた時刻からだった、8時頃か10時頃からか記憶は定かでない。
多い時は100人も居たような記憶がかすかにある。
時には怒鳴り合いもあった。
等々と階級理論を展開する仲間もいた。
残念だが、会がどういう様にまとめられたかは、もう記憶には残っていない。
だが、何かを起こす時、起こった後は必ずそれが持たれた事だけははっきりと覚えている。

今日、仲間の多くが某所に集う。
武装蜂起の企てはないから、その点はご懸念無く。
ある平和的な事柄について皆が話し合う。
かつてバリケードで頻繁に行われた”全体集会”を踏襲している。
40年近く経った今でも、当時の手法は仲間の皆に染み付いている。
大筋合意がまとまればとローカルから祈っている。




■2007.08.03 morning  管理人

ある方に聞かれた、
「1968年を代表する曲は何でしょうね?」
不思議なもので、その年は舞い上がっていてよく思い出せない。
15歳の頃や、バリケードを追い出されてからの方が一杯ある。

マドンナがまだ身近に居た頃だから桃井・阿佐ヶ谷の前の1969年だと思う。
私の南高円寺のアパートに皆がよく集まった。
珠にお金持ちの女学生をパトロンにして、近くのスナックに出かけた(日大だもな!。
当時はカラオケなんぞは未だ登場してなく、かわりにジュークボックスが。

私の好みの系統からは少しズレるが、
「いいじゃないの、幸せならば」
「昭和ブルース」
「白い珊瑚礁」
「夜明けのスキャット」
「雲にのりたい」
題名が合ってるかどうか定かでないが、こんな曲をよく掛けた。


詳しい記憶が失せているので年表によると、この年の2月、私らはバリケードを去っている。
そして、4月12日、マドンナは明治の学館でパクられた。
彼女の瞳を見ながら”白い珊瑚礁”をスナックで聴いたのは、この僅かな期間の間となる。
4月12日を最後に、二度と彼女を近くで見ることは無かった(涙。




■2007.08.02 morning  管理人

起きるとコーヒのいい香が。
妻が先に起きるのは珍しい、
我が家は私が一番先に寝て、起きる、これがスタンダードなのだが。
「貴方、帰ってきているのよ!」
嬉しそうに言う。
聞けば、次男坊は元職場の送別会があったようで、
社宅までは遠いので、中継泊地に実家を選んだようだ。
赴任一日目にして顔を合わす訳だ。


先日の某放送局の方のメールにこう書かれていた、
「日大紛争については、・・・・・
・・・・中略・・・・
使途不明金発覚以来、日大で何がおき、
学生たちがどんな思いでそれに参加していったのか・・・・・」

ここで引っかかる表現があるのは皆も気付くと思うのだが。
今までの私なら、又多くの仲間なら猛烈に異議出しをしていただろう。
でも、私は敢えて訂正を求めなかった。
この対応が、これ以後の、この方とのやり取りの基本姿勢になっている。

当時、一部では極例外的に”日大闘争”と報じられた事があったと思うが、報道の基本は”日大紛争”だった。
2004年11月たかし・Yさんに国分寺を案内していたただいた折、ほんやら洞で農獣医学部の10年後輩の女性を紹介された。
ある政治家の秘書をしていると自己紹介。
偶々私のホームページをみて驚き、是非会って話を聞きたいとたと願っていたと言われた。
何に驚いたかと言えば、キャンパスで語られるかつての日大全共闘の伝聞と、私の綴るそれが全く別物であったということらしい。
「私は、日大全共闘はセクトの集団だと思っていた」という。
たったの10年そこいらでだ・・・・・・・。

あれから40年近く経って、報道機関の関係者、特に若い方々が紛争という言葉を用いることは致し方ないと思う。
今の報道機関の関係者に意識を少し変えていただくのは、偽りの無い事実を淡々と伝える努力であり、
それが私の責務だと思ったから。
皆、怒らないで欲しい・・・・・、
数少ない機会と思う、
否、最後のチャンスかもしれない。




■2007.08.01 morning  管理人

「エッ・・・、そんな!」
思った通りの反応だ。

帰宅直後、バイクの音がする。
こんな時間帯に次男坊が帰ってくることはまず無かったのだが。
「父さん、何か食べるものある」
「俺、今夜向こう(社宅)で一杯やるからもう行くよ」
妻が帰宅したのはそれからしばらくしてだった。

「私もな、母さん帰ってきてからにしてはと云ったのだがね」
「皆(同僚)を待たすと悪いと云ってね」
「食事してから行けば良いのに・・・・・・」
それから、妻の嘆きに一時付き合ってあげた。


7月8日からのバリケード生活の垢を全身にまとい、
1968年、8月に入って帰省した。
バリケードから”モヒカンヘルメット”をナップサックに入れて持ち帰った。
帰省は、折れた前歯を治療するためも有った。
喫茶店で親しい友にメットや折れた歯を見せ、バリケード生活の事、機動隊の事、右翼の事、様々な事を夢中で話した。

「お前変わったよ、云うことも目つきも」
それまではボンボンで、少し神経質で、生真面目が私のキャラ、
僅か一月に足らない経験が、若干19歳を大きく変えてしまっていたのだろう、
会う友人に異口同音にそう云われた記憶がある。
21回目の夏、同窓生と同じように付き合えたこれが最後の8月だった。



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