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■2012.11.29  morning  管理人

ここのところの新政党の誕生、離合集散は訳が分からなくとんと興味が湧かなかったが、
直近で生まれた政党にはちと興味を持った。
黒子が誰かは別にして、党の顔が女性である事。
黒子が誰かは別にして、地方からの誕生である事。
私は”女性”の姉御親分が好みなのだ(笑。

そしてもう一つは、
政策的に美味しいところを独り占めし、又と無い好機と勝算を立てていた”某政党”、
勿論、表面的には冷静さを装っているが、
内実は、多分、うろたえ大慌てをしている事。
そういう意味も含めこれまでとは一転して、今度の選挙は面白くなりそう。




■2012.11.27  morning  管理人

日記の更新が滞っているので備忘録。

薬学科のマドンナの件、
理闘委の仲間からあれから電話が有った、
「これで(人探しが)終わった訳ではない、これからも探してみるからそんなにメゲルなよ」
有り難い言葉だが、内実はしっかりメゲている。

上智の元・青ヘルの同窓生の件、
返事の手紙の最後に、「あの時代からすれば、信じられないほど便利になりましたね。今後はeメールでもやりとりしましょう」と書かれていた。
彼が知りたがっていた同窓生の近況を書いてeメールを送った。
あれから10日近くなるが未だ返信が届かない。



(グアテマラ織物の小物入れ、充電ケーブルやUSB入れに、ホツレたが手縫いで修理し便利に使っている)

騒がしい選挙の件、
比例区は意中の政党が有るが、選挙区では私が一票を入れる候補者が居ない。
勿論、○共は相変わらず比例稼ぎのお勤めでしっかり出ているが、私の場合ハイそうですかと言う訳にいかないのが悩み。
さて、如何したものやら。

それと、選挙のあおりで年内の出張予定が一つ吹っ飛んだ。
これは有り難い事だ。




■2012.11.20  night  管理人

これは楽しい!!(上のミュージックプレヤーをSTOPしてスタート)





■2012.11.20  morning  管理人

土曜日、東京から夜遅く帰り着き、日曜日、朝早くから山間僻地の柑橘収穫と柑橘酢作りに。
柑橘は、今年94歳になる叔母が一人で栽培している。
超高齢だが背筋は真っ直ぐで頭も体も現役バリバリ、皆の先頭に立ち自らも作業をこなす。
しかし、収穫と柑橘酢作りはとても一人ではできないから、助っ人に親戚一同が集まる、
叔母の兄である父が亡くなり、代わりに私がこの年中行事に参加するようになってもう30年ほどになる。
毎年、一升瓶で200本程の柑橘酢を絞るが、生り年はそれ以上になり、一部は搾汁せずJAに玉出し出荷する。

帰路、携帯電話の電波が入る地域に出ると着信通知が鳴った、17日に連絡くれた理闘委の仲間から。
多分ユースの同窓会の結果報告だと思い、気が急いたが家に着いてから電話を入れた。
「マドンナは結婚して今は**という姓までは分かったが、でも所在は不明」
「んで・・・薬学の仲間がいうには、彼女は薬学の教授じゃないようだよ」

お前はそんな情報を何処で仕入れたのだと責められても仕方ないが、
このボケ頭には何時、何処でその情報を仕入れたのか全く記憶が無い。
しかし、私の頭の中ではこの間、この情報が勝手に独り歩きしていた訳で、
この理闘委の仲間をガセネタで引き回した事になる、
申し訳ない。

そういう訳で、今回のマドンナ探しは振り出しに戻った、
現在進行形の体力・気力の衰えと比例し、人探しのモチュベーションは下がる一方、
既に、「何時かはきっと」と未来形の希望を語る歳ではない、
多分、このまま人生終えるのではとも思う。
それでも、そうであっても、いいのだと思うようになった。


■2012.11.19  morning  管理人

私の一人だけの上司、週末出張はその上司の会長(理事長)と二人だった。
私の属する中央団体は二年に一度定期総会が開かれ、定期総会のない隔年に事務責任者があつまり総会が開かれる。
今年は定期総会でない隔年開催の総会だから正式の代議員は一名のみ、正式は私で会長は傍聴人。
今年の春に就任した会長は、全国総会は初めてだから行きたいとの希望で、だから連れて行ってやったのだ(笑。

羽田に着くと私の携帯電話には三通の留守番着信通知が入っていたと昨日書いたが、
会長のそれにはそれどころではない、此処のところの世相の急変に応じてかワンサカの留守番着信通知が入っていた。
当初、羽田についてゆっくり朝飯でも食べようと二人で話していたが、それどころではなかった。
会長は議員と”謀議”のため霞が関永田町に直行すると云う。

「会長、総会で落合いましょう」
私は選挙には関心が有るが”興味”はない、会長と同行すれば面白かったかもしれないが、止めた。
私は時局のソレに首を突っ込むつもりは毛頭ない。
んでもって私は総会まで時間を持て余す事になってしまった。

別れ際、会長がラウンジへ案内してくれた。
ここは何でも”魔法”のカードを持っていないと入れないそうだが、同行者なら入れてくれる。
会長は珈琲を一杯すすって、騒がしい世界へ直ぐに出て行った。
私は珈琲にパン、それにトマトジュースで1時間半程過ごさせて貰った。
お陰で読書がはかどったのだ。


東京から帰ると手紙が来ていた。
11月4日の日記に書いた40数年間所在不明だった上智の青ヘルだった同窓生。
あの時代、色々有ったから、半分位は返事はダメだろうなと思っていたが、日付から見ると私の手紙が着いた其の日に返事を書いている。
インターネットで母校の同窓会を探し、校友会名簿を手に入れたいと思ったのは同窓生の近況を知りたいと思ったからだと書いてある。
八名の同窓生の名前が書かれており。その八名の中に私もいた。
そして、私の事は忘れた事がないと続けられていた。

上京して二人して一緒した現役受験の時の話、
国会議事堂前駅で二人とも捕まりそうになった話、
二人して民青に包囲され身動きとれなくなった話、
私が当時のエピソードを一つしか書かなかったのに、彼は幾つも幾つも書いてきた。
そして、この40数年の思いが切々と綴られていた。


■2012.11.17  night  管理人

金曜の朝一番で東京へ、羽田について携帯電話の電源を入れた。
8時32分、33分、34分と立て続け、電源おとしてる間の留守番着信通知が三通入っていた。
理闘委の仲間から。
これは何事かと直ぐに電話を入れた。

「おい、薬科のマドンナって**さんの事か?」
「違うよ、その子じゃなくて**さんだよ」
「そうか**さんか、ここのところ偉いご執心だな」
「よかったら、俺が探してやろうか」

薬科のマドンナは同じ学科の女子と三人で何時も一緒にいた。
三人は何れも親元を離れて進学してきていた、そういう意味では三人とも”行動”に親の制約が無かった訳で、
バリケードに来る時も、デモに加わる時も、私等と喫茶店へ行くときも、
それから、バリケードを追い出され、新高円寺のスナックに何度か通った時も何時もその三人は一緒だった。
そういうシチュエーションだったから、仲間はその内の別人の一人と勘違いしていた。

「近いうちにな、ユースの同窓会があるんだ」
「薬科の同期の女子もそれに来るし」
「それに薬学科闘争委員会だったメンバーも居るから」
「聞けば、多分、分かるんじゃないか」

理闘委の仲間は、電話でそんな風な事を云ってくれた。
「よくもまあ、今更、会ってお前はどうするのだ?」
仲間の物云いの語間には、その様なあきれた雰囲気も感じ取れなくもなかったが、
取り敢えずは、その誠意には涙がチョチョ切れるのだ。
結果はどうであれ、有り難う。





■2012.11.15  morning  管理人

クッッッ・・・・、身に沁みる親切、
泣けるのだ。
>**さんのマドンナかどうかはわかりませんが、条件は合うと思います。

この一文に添えて、以下の二名の写真がメールに添付されていた。
しかし、合う条件とは、
勿論”女性”である事、
”日大関係者”である事、
それと一番重要な”年齢”と思うが。
63〜64歳の年齢設定では、写真の左は若すぎると思うが。

目を凝らして写真を見る、
今更に顔つきを思いだそうとする。
そうかも知れないし、そうでないかも知れない、
結論は、「分からない」。

持つべきものは友だ、
ありがとう。
しかし、確かにマドンナは可愛いかったが、あれから40数年の歳月だ、
写真の二名の女子、余りに美人過ぎる。
一体、何処から探してきたのか?
友の検索に偏りがあるのでは。



■2012.11.14  morning  管理人

昨日、駅に向かって帰路を急いでいたら携帯電話が鳴った。
「お前、ササキミチコって知ってるか」
「ササキミチコ?・・・・・」
「写真家の佐々木美智子なら知ってるけど、それが如何した」

「ウ〜ム、やっぱり知ってるか」
「実はな、先日、その佐々木美智子の本を買ったのだ」
「お前さんなら知ってるかもと電話したのだ」
「エッ・・、佐々木さんが本を出したの、俺は知らなかったな」

電話の主は元・地元国立大全共闘の総領、今年の初夏に東北秘湯ツアーに一緒に行っている。
もともと本を収集するのが趣味、彼の奥さんに言わせると既に退職金の半分位をつぎ込んでいるそうだ。
自宅の二間は本で埋まり、地震が来たらこの人本で確実に死ぬわとも云っていた(笑。
その彼が直近に買ったのが佐々木美智子さんという。

このサイトには佐々木さんの写真を多く掲載している。
その事については佐々木さん本人から了解を頂いている。
しかし、了解を頂いているとはいえプロの写真家、
著作権を侵害しないように写真には加工を施している。

そういう恩義があるのに知らなかったのだ。
先程、ネットで注文を入れた。




■2012.11.13  night  管理人

先月、10月4日の日記に綴った薬学科の”マドンナ”の事。
情報の出所は忘れたが、確か彼女は薬学部の教授になったと聞いていた。
日大美研OB展に出向いた時、薬学科の美研OB女子が以前その薬学部に勤めていたと聞いた。
これ幸いと、その話を聞いた土木科の美研OBに私の名刺を渡し、その女子に何とか連絡をとって欲しいとお願いしていた。

しかし、
あれから一ケ月以上、なしのつぶてである。
私としては詰めが甘かったと反省している。
全て他人様に”仕事”を託した訳で、
自分で汗をかいて情報を集める今までの私のスタンスからは外れていた。
せめて、願を託した土木科OBの連絡先は確保しておくべきだったと反省もしきり。

時間の経過からいって、
この人任せの方法での情報入手はまず無理だろうと判断した。
先日、せめて出来る事はしてみようと日大薬学部のHPを探ってみた。
上の姓は分かっているが下の名は憶えてない、当然、上の姓は変わっている確率大。
しかし歳は今年で64歳である事、これは間違いない。
教授紹介のプロフィールHPを念入りに調べてみた。

言ったように名前での照合は無理なので、年齢での照合を試みた。
大学教授の定年は一般的な定年よりもかなり遅いはず、
私の高校同窓生の某私大学長様や学部長様は今でも立派な現役であり、彼女も現役でいる可能性は高い、
しかし、該当する人物は居なかった。

これは情報そのものが”ガセ”だったのか、
それとも既にリタイヤしたのか、
それとも他に転職したのか、
何れにしてもこれ以上調べようがない、ギブアップなのだ(泣。



■2012.11.11  morning  管理人

仕事の合間、帰宅時の駅のプラットホーム。
携帯電話を開き覗き込む。
覗き込むと自然と顔がほころぶ、ほころぶからまた覗き込む。
近頃、こんな動作が習慣になった。

昨年から今年に掛けて家族が増えた。
家族の数が偶数の四人から奇数に、奇数からまた偶数に、そしてこの秋再び奇数になった。
それを使うのはまだまだ先のことだが、昨日、納戸に仕舞っていた小さな小さな椅子を出してきた、
かつて息子たちが使った奴、いつかこんな日が来るだろうと大事に仕舞っていた奴だ。
穏やかな秋の日差しの下で、30年近くの汚れを落とし念入りに磨いた。




■2012.11.09  morning  管理人

40数年間音信不通で所在不明扱い
だったから、そいつがどういう経緯で名簿に復活したかは定かでないが、
名簿は立派な”個人情報”である訳で、
私のように卒業時の住所が更新されず記載され続ける事はあっても、
新たな情報に”更新”されるは、本人からの情報提供か、或いはそうでなくても本人の承諾が無ければできないはず。
だから、そいつが名簿に復活したと云う事は、何らかの連絡を受け入れても良いとの本人の”シグナル”と受け止めた。
だから、連絡をとってみようと思った。

名簿には電話番号も記載されていたが、連絡は一呼吸の間合いが置ける”手紙”にした。
健康、家庭、経済・・・・・、
人は皆、他人には分からぬ人生を抱えている、
それに、40数年という時間は余りにも長すぎる。
それに、電話でずかずかと他人の人生に割り込んでいく勢いは、私にはもうすでに無い。

手紙には、私が今どうしているか、
そして、
そいつが今どうしているかと尋ねる事は一切書かなかった。
書いたのは、1969年にあったあるエピソードだけ。
そして最後に、
「よかったら連絡下さい、待ってます」、で括った。

そいつにとって私のような人間は、一番会いたくない”種別”である可能性もある訳で、
だから、リトマス紙代わりに、当時のあるエピソードを一つ手紙に書いた。
そいつがそれにどう反応するか、
それはあの時代のファクターもあるが、
それ以上に、この40数年をどう生きてきたかに掛っている。






■2012.11.07  night  管理人

昨夜は午後八時半に寝た。
気ぜわしい仕事で疲れ果て、夕食を済ませると直ぐ床に着いた。
そんなに早く寝るなんて勿体ないと言われるかもしれないが、
ある時期から、体力的にも気力的にも夜は寝るだけのものになっている、勿体なくも何もない。

感覚的には真夜中だった、
遠くでメロディーが流れるのが聞こえた、
それが携帯電話の着信メロディーだと夢見心地に分かったが無視した。
すると間もなくけたたましい固定電話の呼び出し音が、
それも無視していたら、枕元で「貴方、電話ですよ!」
むかっとしたが、妻に起こされると仕方ない、「クソー、こんな夜中に!」と苦々しく起きたら未だ午後九時半だった。

「貴方、電話の相手、高校の同窓生と直ぐ分かりましたよ」
電話を終えると、妻がそう云う。
「貴方の名前を正確に言ったから」
「貴方の名前を正確に呼ぶのは、お姉さんか高校の同窓生しかいないから」

私は名前にも1968年で線を引いていた。
1968年を前後して私の名前の読み方は違った、1968年以降は親が付けた名前でない読み方で呼ばれていた。
違った呼ばれ方が新しい自分の様で、敢えて訂正はしなかった。
今も妻はその名で呼ぶし、
最後は母親まで私をそう呼んでいた(笑。
考えてみれば、私の名前を正確に呼ぶ肉親は近くにいる姉だけになった。
それと、1968年以前の高校の同窓生だけなのだ。

電話は神奈川在住の同窓生女子。
携帯電話が壊れ電話帳メモリーが吹っ飛んでしまったらしく、私に何人かの同窓生の電話番号を教えろだった。
「分からなかったら、**くんに聞いたら」
そう教えられたと云う。
はなはだ名誉なことだが、夜九時以降は許して欲しいのだ。





■2012.11.04  night  管理人

先週後半も出張、
幹事を務めなければいけない年次出張イベントが七つある、これでその内の五つが終わり年度内に残るは一月と二月に後二つ、
二か月余りの長かった準備期間と本番の緊張が解けて家で呆けていたら一週間が終わっていた。
その出張から帰ると郵便物が届いていた、今年の夏に予約していた校友名簿。
校友会と云っても決して日大のそれではない、四十数年前に卒業した高校。

写真の古いのは平成20年度版、平成22年3月に母校を訪れて購入したもの。
その校友名簿、私は「所在不明扱い」ではないが卒業時のままの古い間違った住所が記載されているだけ。
まあそれでも過疎の田舎だから、住民の動態は固定(硬直)している訳で、郵便屋さんは少々の住所間違いは気を利かして届けてくれるから問題は無いのだが。
私は1968年の夏を境に「線」を引き、それ以前とそれ以後で人生をハッキリ分けていた。
卒業後幾度となく送られてきた名簿の調査票も一切無視していた。
頑なにそうしていた、だから校友名簿は、卒業時の古い間違った住所だけ。

 上がH20年度版、下がH25年度版、新版は一回り大きくなった

今回の平成25年度版には、正しい住所、自宅電話番号、勤務先名、それに職場の電話も、調査票に構えることなく記入しネットで返信したので全て正確に記載されている。
これで、名実ともに1968年の人生の境目は無くなった訳だ。
その校友会名簿、目を通していておやっと思った。
「嘘だろう、ずっと所在不明扱いだったのに」
平成20年度版までは「所在不明」扱いで、名簿欄から外されていた奴が名簿に載っている。
住所も電話番号も載っている。

そいつは東京で一年浪人し、1968年の四月に上智大学に入学した。
浪人中は桜上水の私の下宿に幾度となく訪ねてきた。
私は大学二年からヘルメットを被ったが、そいつは入学直後の大学一年からヘルメットを被った。
鮮やかなスカイブルーの青ヘルメットだった。
私が東京で知る範囲、高校の同窓生で唯一、正真正銘にきっぱりとヘルメットを被った奴だ。

彼は何とか卒業し、私と同じように故郷へ戻った。
私と違い優秀だったから、地元のマスコミに難なく就職した。
就職して直ぐに東京支社に配転になった。
東京で結婚したとは風の便りに聞いた。
間もなく退職したとも風の便りに聞いた。
そして、そこで音信がプツリと途絶えた、それから40年が経った。

2008年の還暦同窓会でそいつの行方を尋ねた時、皆に色々と云われた。
「あいつはな、運動にかぶれてややこしかった」
「当時、色々と議論を吹っ掛けられて迷惑した」
「あいつは上智の□○でな、どっかに逃げたのだろう」
散々だった。

人の憶えはいい加減なものだ。
あいつは□○なんかじゃなく、立派な青ヘルだったのに。
友はいまだに1968年に人生の線を引き続けているのだろうか、
電話では何だから、ゆっくり手紙を書こうと思っている。


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