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■2016.01.29  morningU  管理人

身辺整理をしているといろいろ出てくる。
一つは1968年の春、お茶の水キャンパスに移行した直後、何かの証明書に貼られていた写真。
もう一枚は1971年頃、桃井で共同生活していた頃、同居の会長さんと一緒に映るもの。
二枚の写真、三年程の”進化”分かるかな。










■2016.01.29  morning  管理人

「お母さん、すみませんが」
「お母さんの家で飾って頂けます?」

今春、次男坊の娘が初節句を迎える。
次男坊は借家暮し、今、一念発起してマイホームの準備を進めている。
次男坊の連れ、
「お家、お節句までには間に合いませんので、今春はそちらで飾って預かって下さい」
そういうことで、妻と一緒になって40余年、我が家に初めて雛人形が。
一番喜んだのは妻。

ところが大変な問題が。
我が家にある玩具、お人形、その他諸々、何もかも、はなちゃんは自分のものだと思っている。
はなちゃんの常套句は、
「これもあれも、み〜んなはなちゃんの物!」
「ウヌ・・・、これは先にはなちゃんちでお雛様飾って貰わないと大変な事になる」


それなりの事前対応はしたのだけれど、
「これ〜誰の?」
「はなちゃんの?」
丁寧に説明してもやはりなのだ。

結果、
周りに”結界”を張った。
物理的に見えないように”覆い”をした。
桃の節句まで保全し何とか損壊が無いようにしなければ、次男坊に申し訳が立たないのだ。






■2016.01.28  night  管理人

私は手元にあと僅かだが日大闘争の写真を持っている。
このホームページを運営するなかで、全共闘仲間から善意で寄せて貰ったものが殆ど。

2003年にHPを開設したが、
ここに書き留めた記憶の殆どが、既に私の頭の中からきれいに消え去っている。
もう、残された時間は殆ど無いと言ってよい。

それでもって、今朝、闘争勝利といったが気力のヘタリは隠せない事実だし、
気力のあるうちに、ボケないうちに、HTMLいじれるうちに、XPのパソコンがクラッシュしないうちに、
持っているもの全て原寸大の高画質で公開しようと思っている。
この間、身辺を整理していて私なりのそういう結論に至った。

1968年6月25日、白山通りでのデモ

著作権にこだわる方には迷惑をかけるかもしれない、
しかし仲間の写真は闘争の経過で記録されたものだし、
映っているのはまさに私等自身だし、間違っても仲間が商業的著作権を云々する事はないと思うが、
万一、そうなったら受けて立とうとも思っている。






■2016.01.28  morning  管理人

此処の日記、私も生きているのだから書こうと思えば書くことはそれなりにある。
日々の徒然、サロンの事、孫娘の事、偶のハプニング等々。
しかし老いぼれ草臥れた爺さん、書かなくていいと思うと、書かなければいけないような事は何も無い。
その気持ちの振幅が加齢と共にしだいに後者ばかりに振れ、前者に揺り戻すのはホンの偶になった。
其のうちこの振り子もピタリと止まるだろう(笑。

先日、「(老後の)人との付き合いは大切ですよ」とアドバイス頂いているサロンの長老にそそのかされ、とある会合に出掛けていた。
場所は私が昨年6月まで管理していた会館のとある一室、会館に着くと元職場の事務所にも足を寄せた。
訪れるのは辞めて七ヶ月で三回目、一回目の時は知らなかった高齢者求職給付金の事を教えてもらって(喜。
二回目は・・・・、何で行ったのかもう忘れてしまった。
それで積もる話はないが有難く珈琲と茶菓子を頂いた。

先日の教会でのお茶飲み会

会合は、2009年に私等のサロンが呼んだ同じ講師の講演会の初顔見せ実行委員会。
今回は○共さんとの相乗りというか、呼ぶ講師は前回と同じでも仕掛けはあちら側。
サロン長老が長年その運動に関わっている事もあり、私もそれならと引き籠りの原則破り実行委員会に。
日時、会場、経費予算、主催団体、協賛団体、今後の広報告知等々の基本的な確認を行い、
最後に○共さん、
「事務局はうちが担いますが実行委員長は誰にしましょうか?」

しばし沈黙の後○共さんから、
「**さん(サロン長老)、お願いできませんでしょうか・・・」
一瞬間を置いて長老、
「いいですよ」
ここでは”野党共闘”すんなり決まった。

○共さんが事務局なもので、お金、会場、動員など前回主催した時の様に万事にバタバタしなくていい。
前回2009年から7年の歳月、世の中大きく変わったのだがサロンも変貌した。
ここは人の褌で、長老担いで楽しくやろうと思っている。
久しく久し振りに、
「闘争勝利!」





■2016.01.26  morning  管理人

深夜、枕元の固定電話がけたたましく鳴る、時計を見ると12時過ぎ。
我が家の固定電話、三種類の呼び出し音を設定している。
1.家族、2.番号を登録済みのもの、3.その他。
その(1)の着信音、躊躇なく受話器を取り上げた。

「どうしたんだ?」
長男が興奮した口調で、
「前の家が燃えており、近場の人達と皆で裏手の駐車場に避難している」
「消防は来ているが、危ないから娘と連れを父さんちに預かってくれないか」

「分かった、今直ぐ行く」
珍しく在宅中の妻に電話の内容を説明し、部屋に暖房を入れ寝具を整え待機するように命じた(笑。
ダウンベストの上に更にダウンジャケット、それにズボンの上に防寒ズボン、完璧な防寒スタイルで車に飛び乗った。
途中に大きな橋、折からの残雪で凍結している箇所があるが気にせずぶっ飛ばすこと10分程。
火事場は消防車で一杯、少し離れたところ、消火の邪魔にならないように車を停めた。

息子に電話。
「近くに来た、今何処にいる」
「裏の駐車場だけど、もう此処には入ってこれないと思うけど」
「此処の駐車場は何とか大丈夫だと思う」
火事場を見ると窓から炎が噴き出しているが、四方八方から放水を浴びせている、これだと延焼は免れそうだと判断した。


「分かった」と電話を切る、さてどうやって息子たちの所に辿り着くかしばし考え辺りを見渡した。
よく見ると、消火に勤しむ消防団は走り回っているが、周辺に警察の阻止線はまだない。
そしらぬ顔で消火活動の横を通り抜け、火事場裏手の広い駐車場まで辿り着いた。
駐車場は避難してきた近所の車が、どれもエンジン掛け車内で暖をとっている。

息子の車を見つけた。
中ではなちゃんを抱っこし親子三人不安そう。
「エッ、父さんどうやってここまで来たの?」
「どうやってて、普通に歩いてきたの・・・・」

「色々あってな、父さんは火事場ちゅうか現場には強いんだ!」
ちゅうて自慢げな事は、言いたかったけど言わなかったが(笑。
火事は程なく鎮火、火事場の隣家との境まで10m以上の距離が有ったのと風が無かったお陰で延焼を免れた。
息子たちが無事家に戻るのを見届け帰宅したのが午前一時半過ぎ。
眠い目をこすりながらも一度床に就いた。





■2016.01.20  morning  管理人

私はワン公と同じ。
雪が降ると途端に元気になる。

何時もの通り未明三時半に起きた。
私の睡眠時間は八時間プラマイ半時間、床に就いた時間に八時間程足せば起床時間になる。
八時就寝だと三時から四時、九時だと四時から五時、極めて単純。

珈琲点てて、新聞二紙にゆっくり目を通す、今は日の出が遅いので散歩は六時半頃から。
散歩から帰る頃、やっとお日様が顔を出す。
朝食、それから洗濯、掃除、変哲もない毎日のルーティン。

ところが昨朝は違った。
窓越しに外を見ると何やら辺りが白い。
玄関を開けると真っ白な雪景色が目に飛び込んできた。
こうなるとじっとしてはいられない、私には道路に最初の轍を付ける”使命”がある(笑。

通りに出ると既に何本か轍。
ウヌ!・・・と思案し、
「これは山道に登るしかないな」
朝の散歩に行っている峠道に車を返した。

この散歩道、道路としてはかなり勾配がきつい。
午前四時をして既に下り道には轍が、しかし幸いな事に登り道は轍が付いていない。
峠から更に入り込む公園墓地への道は更に急勾配でヘアピンカーブの連続。
四駆でないのでヤバイかなと思いつつ、これも楽しもうと足を伸ばした。
しかし、勾配がきついのか坂道は冠雪していなかった。

その昔の2003年1月5日、妻と雪を求めて山奥にドライブ、車は息子のインプレッサ4WD

墓地で一服し、雪道をしばし攻めて帰宅。
久しぶりに楽しかった。






■2016.01.12  night  管理人




チェウニの泣き節は最高だがこれもいい、右上のミュジックプレヤーをOFFにして再生








■2016.01.11  morning  管理人

整理片付け、納戸に仕舞ってあった昔の仕事資料を整理していてふと思い出した。
仕事といってもこの五年程世話になった職場の事でない。
62歳まで、職員から始まり常勤役員まで35年程勤めた前職時代の事。
不思議な事に、順調だった事でなく、つまづいたり失敗した事を鮮明に憶えている。

一つは、同業団体が経営破綻寸前まで陥りその再建役でおくりこまれた事。
相手先の要請は出向でという事だったが、当時の私の上司が、
「出向では身が入らぬだろう、キッパリ移籍で」
「ダメだったときには骨を拾ってやるから」
当時38歳の私、当然だが今とは違い単ゲバスピリッツ満載の突貫精神で意気揚々、多分、職場の上司はもてあまし気味でこれ幸いと放り出されたのだと思う。

それでも身分は一職員から三段四段抜き、一気に同種同業団体の専務理事に納まった。
結果は・・・・、見事に失敗。
相手先の理事会から請われては間違いないが、移籍先の再建を共にする職員からは歓迎されなかった。
歓迎されなかったのは私のせいではない、それまでの職員と理事会の関係性がストレートに引き継がれた訳。
その関係は最後までひびき、リストラを伴う再建計画を職員組合と交渉したが職員は聞く耳持たず、膠着。

詳しくは書かないが、結局、途中から日共系の一般労組が介入してきて団体交渉は決裂、
団体交渉といっても団体は職員組合の方、此方は他の理事は雲隠れで専務の私一人、机をバンバン叩いて罵られた。
「もう知らん、お前ら勝手にしろ!」
移籍からほぼ半年、一般労組オルグが同席する団体交渉の席、私も机を叩きケツをまくった。
まだ私は38歳だった、相手の一般労組の専従オルグの方が一枚も二枚も役者が上手だった、
言い訳すれば私は若かったのだ。

38歳の未熟な経営者と、当時乗っていたレオーネツーリングワゴン

専務理事は総会で承認され理事会で互選された役職、もう知らぬと団体交渉でケツをまくってもそれが即失職にはつながらないが、メンツもあり、移籍先にも移籍元にも行くわけにいかず身分は数カ月宙ぶらりん。
それに加え、職場近隣の至る所の電柱に「**専務は職場乗っ取りに送り込まれた」との旨の実名入りビラがベタベタと貼り付けらる始末。
私は「会社乗っ取りの」の糾弾を受け、そして失業状態。
朝、家を出ても行くところないもので、山奥をドライブしたり喫茶店に座ったり。
この時の職員組合や一般労組オルグとのツバぜりあい、愚痴を書き出すと止まらないのでここには書かない。

もう一つ、
職場業務のシステム化に携わり、結局、システム構築が出来なかった事。
この事はここの管理人日記の初期の2004年頃、結構クドクドと愚痴を綴っている。
簡単に言えば、同業の中央団体が数億円かけて開発したインターネットのオンラインで繋がるた基幹システムを自社用にカスタマイズし運用するのだが、
細部のカスタマイズとネットワーク化に難渋し、最後はシステム会社が匙を投げた形となった。

このシステム開発で電算会社と職場の橋渡し役が私の任務だったが、
橋渡し役が両方に挟まれてにっちもさっちもいかなくなったというのが実情。
開発に関わった時間と労力は結局回収できず浪費に。
最終的には中央団体と電算会社に損害賠償を求める恫喝を掛けた、それで費用のかなりは取り戻したが、それでも少なくない実損を出してしまった。

これも愚痴を書くと止まらないが、
開発当初、中央団体も電算会社も「如何様にもカスタマイズ出来ます」と前を切ってきたし、ギブアップしたのは電算会社側。
この言質と契約盾に、賠償で恫喝を掛けるところだけはネチネチと、私としては実に小気味よく出来た、
これは昔の経験が少なくなく生きたという事だろう。






■2016.01.10  morning  管理人

有り余る時間が有る。
私は両親を39歳と40歳の時相次いで看取った、だから現在、妻の母親以外親の世話は無い。
草木の世話、掃除、洗濯、孫娘の世話、偶の読書、それでも時間はたっぷり余る。
「老後は人との付き合いが大事ですよ」
退職した際サロンの長老からその様な事を言われた、だから基本は”引籠り老人”だが偶の「お茶飲み会」への参加は大切にしている、それでも時間はたっぷり余る。

掃除、片付けは得意技。
だから、余った時間で身辺や家じゅうの片付けをしている。
資料整理、必要なものは極力データ化、不要なものは廃棄、紙媒体はファイリングしファイルブックは40冊程になった。
銀行、カード、各種保険、税、年金、不動産等々、ネット情報も、世間でいえばエンディング・ノートのようなものから家系や生い立ちまで、整理できるものは何でもかんでも全て(笑。
まあ、有体にいえば私の人生の総整理といってもよい。

年が明けてから整理片付けは伏魔殿の納戸に及んでいる。
納戸には大量の音楽カセットが鎮座していた、録音年月日を見ると1985年から1992年頃まで、我が家では1992年に完全にCDに移行している事になる。
試しに何本かデッキにかけて見た、何本かは絡まり再生出来ない。
カセットテープの寿命は20年から30年ほど、保管状態が良ければ50年ともいわれるが、我が家のテープはほぼ寿命だろう。

それでも未練が残るので色々試してみた、きちんと巻き取ってある60分までの短いテープなら大丈夫、長尺テープはきっとテープが薄いのだろう。
廃棄するテープを選別。
悲しい事にクラッシクやジャズに限っては長尺テープに録ってある、先のガイドラインに沿えばほぼ全滅。
そんなこんなで廃棄コースに進んだ物が400本程、不燃ゴミ袋4杯になった。

お宝も有った。
島倉千代子、
河島英吾、
テレサテン、
はっぴいえんど等々。

これはと思うものが何故か日本語の歌ばかりだが・・・・、
今、TEACデッキが「この世の花」を再生している、「鳳仙花」もいいですね。
何時逝ってもいい、
私もそんな歳になった。






■2016.01.09  morning  管理人

「札幌での飲食、全部俺が面倒見てやるから遊びにおいで!」
年末に帰省していた札幌の悪友、豪勢な事を云うので帰って妻に報告した。
「いいですね、是非行きましょうよ!」
妻の一言で、北海道の温泉旅行いとも簡単に決まった。
しかしこの秋の10月、群馬へのお仲間連との温泉旅行を既に決めている、それで何時にしようかと思案した。

五月連休明けが良いのではと悪友に相談、
「それは止めとけ、連休明けはかの隣国の集団が大挙してくる、近年その時期は連休以上に北海道は大変な事になっている」
という。
「それでは何時が?」と聞くと、
「そうだな、7〜9月は繁忙期で混み合うし料金も高いので6月がベストだな!」
という。
半世紀近く暮らしている地元民が言うのは間違いないので、その時期一週間ほどの旅程で準備することにした。

先日、妻の実家近くの美術館に個展を見に行った。
絵画にもともとは興味がないというか、絵を見ても殆ど何の感慨も湧かない絵画音痴。
それでも出掛けたのは、昨秋、東京での高校の関東同期会に出かけた際、画家をしている同窓生から案内を受けていたから。
開催地が妻の実家近くだったということもあり、義理半分で出掛けた。

実家の草木の手入れをした後、妻と二人で美術館に。
入館料は300円、
妻とは経済的にお互い”自立”しているので、こういう場合いつも割り勘だが、今回は私が誘ったので豪勢に私が払ってやった(笑。
ローカル美術館だからこじんまりしている。

作品は1965年の作から時系列に陳列していた。
1965年といえば私等は高校二年生、既にそんな時期から堂々たる作品を描いている。
目に留まったのは「ふたり」と題された作品。
腕を組んだ女性の顔が半分黒く塗りつぶされている。

彼は高校時代美術部。
同級生と同棲しているとのうわさもあり、学内でも何かと目立つ存在だった。
私ごときは近寄りがたい”ませた”奴でもあった。
その後の彼、その後の彼女の事も同窓会の会話の中でいくらか耳にしていた。
そんな多分人は知らないかつての彼を思い出しながら作品をしばし眺めた。

この画家の若かりし頃を知っている私、胸に何故か彼の痛々しい青春が沁み込んできた。
きっとこの絵と私の心が同調したのだろう、絵画を見て初めて何かを感じた。




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