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■2019.11.20  morning  管理人

既に71才になりました、もう先が読める歳です。
一度はリンク切ってたページですが、恥はかき捨てとも一度リンク。
もうどうでもいい歳になってしまったということです。

■2016.01.20  morning  管理人

ここのページはHPからたどれるリンクを切り離している。
だからある意味、ネット上を漂泊していると言ってもいい。
ここの記事(日記)はHPの管理人日記に綴ったものを再録・編集しているのだが、
HPからリンクを切り離した以降は当ページ独自の日記として綴っている。
偶々訪れた方は、出来れば時系列の最初(つまりページ末尾)から見て頂くと、自虐的かつ女々しい内容が良く分かると思う。

後、何年かで(生きていればだが)七十歳を迎える、本格的な老いを控え身辺を整理している。
納戸の写真アルバムを整理していて”あの子”の写真を見つけた。
卒業アルバム以外で私が持つ唯一の写真。

アルバムには昭和38年11月15日の遠足と書かれている。
仲良し三人が映る写真だが、カメラ目線は真ん中の子だけ。




写真、50年以上前のだからもうマスキングは付けなくていいだろう。

この頃、あの子とは教室で同じ机に並び座っていた。
何故、並び座ったのかは2008年8月29日と2013年6月13日の日記に二度ほど詳しく書いている。
そちらを読んでいただければ顛末がお分かり頂ける。
なのにこの写真、何故か微妙に目線を外している。

心理学的にいえば”意識”していると言える(笑。
この頃、既に私は彼女に好意を寄せていた、
この初恋とも言える思慕は私の片思いとばかり思っていたのだが。

彼女も私に好意を寄せていると知ったのは翌春の卒業式の日。
今更に言えば、この頃に気付くべきだった。
これは男女の熟度の違いだろう(大笑。



■2015.04.02  morning  管理人

「貴方、何時も同じ曲聴いてますね」
未明、ブレッド&バターのCD掛けていたら起きてきた妻にそう言われた。
彼女、普段は滅多な事で私の音楽の趣味に口挟まない。
ジミヘン掛けた後にモーツァルト、その後に森田童子、そしてバッハと何でもありの私の音楽の趣味にも動じない。

その妻が、珍しく私の聴いている音楽に口を挟んだ。
繰り返し繰り返し、同じものを聴いているので、「?・・」と感じたのだろう。
そう言えば、ずーっとユーミン聴いていて、今度はブレッド&バター。
普通に言えばジミヘンとモーツァルトの組み合わせのほうがイレギラーなのだが。


同窓会の落ち込みからリカバリーするのに、すがるようにユーミン聴いていた。
やっと平常心を取り戻せたと思った頃から、中毒のようにブレッド&バターを聴いている。
まあ、音楽に中毒になっても害は無いので取り立てて心配することはないが、
それでもかなりおかしいことはおかしい。

ブレッド&バターの歌詞に頻繁に出てくる「波の音」
今はもう聞こえない波の音・・・、
今はもう聞かない波の音・・・、
私の「大脳辺緑系」はこの「波の音」を「シュピレフコールの響き」と自動置換している。、
そうすると、あの時代の風景が私の頭全体を覆う。
そして、暗く切ない私の青春が波のように打ち返してくる。
(大脳辺緑系:感情をつかさどる脳)

あの時代のそれは、ジミヘン、ジャニス・ジョップリン、それにビリー・ホリデーだった。
やはり、私は音楽に中毒しているようだ。




■2015.02.20  night  管理人

「無茶苦茶な手紙出して、御免!」
1968年8月、暗いバリケードから出した支離滅裂な「あの手紙」、
多分、あの子は忘れているだろうが、私はケジメとして謝らなければならないと思っている。
「あの頃、楽しかったね!」
それと、1964年の3月、卒業式が終わり居残った教室でのことも話したかった。
15の春の「あの事」、きっと、あの子は憶えていると信じている。

 今週二度目の出張からやっと帰着

だから、全く目標が無くなった訳ではない。
そういう意味では、未だし残した気持ちが残っているのも確か。
でも反面、
あの笑顔がも一度見れたからそれで十分じゃないか、もう止めようと言い聞かせるもう一人の私が居る。

もう直ぐ67歳にもなるのに、そんな気持ちの振幅がずっと続いている。





■2015.02.13  morning  管理人

14、15というのは思春期真っ只中、誰にでも微妙な年頃なのだが、
60歳というのも、第二か第三のそれかどうかは知らないが、微妙な年頃なんだろうな。
私にも思い当たる節がある(笑。


今期でのリタイア決め、事務引継ぎの準備を鋭意進めているのだが、
私の後任者人事が二転三転し、なかなか決まらない。
後はままよとバイバイするわけにも行かず、
そうかといって、ズルズル残留するのも嫌なわけで。

今日は13日の金曜日・・・・、
世の中、色々有るが、
春はもう直ぐそこまで来ている。





■2014.12.21  morning  管理人

「貴方、近頃よく聴いてますね」
「心境の変化?」
買い物に行く車中、カーステレオから流れる曲に妻がふとつぶやいた。
「心境の変化か・・・、そうか、変わったかもしれないな」

あの子から出席の返事を受け取った時、それほどの動揺は無かった。
大病したと聞いていたし、
4年前電話で話した時も、余り人とは会いたくない様だったし、
来る、来ないは半々と思っていた。

47年振りに顔を見た時、じわ〜っと嬉しさがこみあげてきた。
私に手紙貰ったから来たと云われ嬉しかったが、世間でよく言う時間が巻き戻されるような「恋しさ」は感じなかった。
余りの時間の長さ、そして今の私の状況も有るだろうが、
私の中では、現実としての対象というよりは、観念として抽象化してしまってたのだろう。

何かの弾みにふとため息が出る。
胸に穴がぽっかり空いた様な味気ない空虚感。
そんな心境に、聴く曲が様変わりした。
そっけなく艶の無い直線的な歌声、そっけない歌声だから余計に虚になった心が空に吸い込まれそう。

ユーミンの「ひこうき雲」。




■2014.12.01  morningV  管理人

全共闘にしても、
私の自虐史にしても、
いずれも着地点が見えないのが共通している、
そう考えていると、
私の人生の着地点はどこなのだろうと考えた。

回らぬ頭で、
人生哲学なんかには疎いこのボケた頭で考えたのだが、
いずれにも、又、人生にも、
着地点なんかどこにも無いのではと思うようになった。
人生に”解答”が無いのと同じではと思うのだ。

着地点が無ければ、どこまでも浮遊するか飛び続けなければならないし、
それもまたしんどい事だ。




■2014.11.26  morning  管理人

同窓会が明けて私の職場がサロンになっている。
市街地中心部と立地条件がいいうえに駐車場があるものだから次から次に同窓生が訪れる。
火曜日水曜日と立て続けに何組も。
皆、居心地かいいのか粘ってくれる、それで仕事は中断の連続。

「事務局長、この発文日付が平成2014年になってますけど」
「明日の会議、午後3時になってますけど確か午前10時じゃなかったですか?」
お陰で本業のミス連発。
事務局長が事務連絡ミスっていたら失格なのだ。

それでやっと嵐が通り過ぎた。
同窓会+かつての彼と彼女のドタバタも幾つか有りとにかく話題に事欠かなかった。
私の職場に押しかけそのネタでワイワイガヤガヤやるものだから、普通ならヒンシュクもの。
今朝、最後を送り出しやっとそのヒンシュク状態から脱した。

中庭で集合写真、後ろから二列目中央にあの子がいる

銀行に勤め27歳で結婚した、ご主人は銀行の同僚だそうだ。
結婚してから5年ほど大阪に転勤になったそう。
あの当時、銀行業界の職場結婚は寿退社が慣わしだったはず、彼女も専業主婦になったと思う。
それで息子さんが今35歳、お嬢さんは33歳でまだ独身だそうだ。

そんな話をしていると、傍にいた彼女の仲良しが、
「**君、この子の息子さん優秀なのよ」
「京大出て、今は東京の一流企業に勤めているのよ!」
そう言って説明してくれた。
「ふ〜ん、息子さん優秀なんだ」
「いい息子さん持って幸せだね」

そんな話をしていて思い出した。
彼女、話すときクスクスと小声で笑う、それと少し早口なこと。
15の時と同じ、
この笑顔に魅かれた事を今更に思い出した。

一瞬時間が止まったような気持ち。
何時までもそのまま時間が止まったままでいたかったのに、ここでまた中断。
司会が用事で呼びに来た。
もっともっと笑顔を見て話したかった。

国政のことなんか吹っ飛んでいるのだ。





■2014.11.25  morning  管理人

受付名簿見て来てるのは分かっていたけど、遠目には誰が誰か分からなかった。
多分あの子だろうなと目星をつけたが、
私が分からないようにあの子も多分私が分からないだろう思った。
だから開会挨拶が終わってから話そうと思った、挨拶で私は皆さんに自己紹介するわけだから。

開会挨拶終わって自席に戻る途中自然に目が合った、あの子だった。
一連の式辞が終わって乾杯済んだら向こうから来てくれた。
昔の面影が残る笑顔で、
「**君から手紙貰ったから出てきたの!」、話の切り出しはあの子の方からだった。
そういう意味では私の戦略・戦術は的を得て正しかったのだ(笑。

嬉しくて舞い上がりそうになった途端、
「予約してなかったけど参加したいと云う方が入口に来てますが・・・・」
そう云ってホテル係員が私を呼びに来た、
「この野郎〜」と思いながら話を中断した。



会場に戻りこちらから彼女の席まで行った。
「電話貰ってからもう四年も経ったね」
「元気だった?」
「よく来てくれたね」
そこまで話すのが精一杯、後は私の方から言葉が続かなかった。

彼女、にこっと笑って、
「大手術したの」
「手術は何年前だったの?」
「七年前」
「そうか、前の同窓会の直前なんだ・・・・」

「お医者様が言うの」
「私、後遺症もほとんど残らず奇跡的回復だって」
そういって彼女、頭の方を指差し、
「(手術の)跡、分からないでしょう」
「でも無理は出来ないから」
「そうか、あなた二次会申し込んでないものな」

もし会えたら言おうとセリフ用意していた。
「ほんとは、この同窓会私は貴女の為だけに用意したんだ・・・」
そう言いたかったけどいざとなると言えなかった、ここだけは戦術的失敗で無念。
きざなセリフが無理な120%シャイな昔の私に戻ってしまうこと、これは想定外だった。

幹事でバタバタして二人だけでゆっくり話せなかったのが唯一心残りだが、
会えたこと、
元気だったこと
そして、あの・・・笑顔がも一度見えたこと、
何故か、それだけで十分だった。

48年も経ってそんな歳になったんだとつくづく思ったのと、
あの子も、私も、今のままで十分幸せなのだとあらためて思った。
自虐史綴って丁度十年になった、もうそろそろ辞め時なのかも。






■2014.11.24  morning  管理人

連日のお酒と夜更かし。
体が重いだけでなく立ち上がるとめまいが。
座っていると体が沈みこみそう。
食欲は無く腹はギリギリシクシクと痛む。

前夜祭が本命・本番だな!
ちゅうてうそぶいた悪友に無理やり前夜二次会まで付き合わさせられた。
準備が有るから帰ると云うのに、「もう帰るのか」と奴らは腕を放さない。
放さないので付き飛ばした、こちらとしては帰るにゲバルトも辞さない対応。

やっとこさ帰りついたのは11時過ぎ、それから名簿・名札を最終修正した。
寝床に入ったのは25時過ぎ、それで3時に目が醒めた。
完全に生活リズムがくるってしまい目が冴え寝られない、仕方ないから風呂に入った。
結局睡眠時間は二時間程。
この落とし前、何時か払ってもらうからな。

開会挨拶「昨夜、悪い奴に拉致され悪い酒を飲んで、今日は最悪です」と切り出した。
それで挨拶は開き直って自虐ネタで始めた。
話したい事は山ほどあったが全部すっ飛んでしまってアドリブに終始・・・・、体調不良のせいにしておこう。。
まあ・・・・、終わったのだ。

帰り際、
「**君、スピーチ上手ね、とっても良かったよ!」
何人もの女子に声かけられた。
話したい事を何も話さず「良かったね」と言われると、私はどう受け止めて良いのか、
自虐、そしてボケとほのぼの系を足して三で割った様なまとまりのない支離滅裂な話なのに、
単に多くを語らない方がいいのだろうか。

昨日から体調最悪、死んでいる。





■2014.11.19  morningU 管理人

10月28日の日記に、高校の文化祭でビートルズの Dizzy Miss Lizzie の曲をバックに、何かの芝居の場面でゴーゴーダンスを踊ったと書いた。
時系列ではなく飛び飛びに残る老人特有のまだら記憶。
それで文化祭と書いたが、よくよく思い出すと正しくは予餞会。
予餞会というのは卒業生を送る会、クラスで出し物を出す方だったから学年は二年のはず。
思うに受験地獄までまだ間のあるこの頃が一番楽しく、クラスの仲も良かった。

まだら記憶で特にまだらではっきり残っているのが、その時私は隣の女子高のセーラー服を着たこと。
セーラー服だから勿論下はスカート、髪は束ねてくくった。
そのセーラー服、同級生の姉妹からだろうが何処の誰から借りたか既に記憶がない。
この時の女装、これ以後決して「癖」になっていないのでこれははっきりしておく。

今回、この二年のクラス仲間で前夜祭をする。
札幌の悪友なんかは「前夜祭が本命・本番だな!」とのメールを寄こしてきている。
ちゅうても私は本番の責任者、
下戸だから前夜に大騒ぎすると本番は死んでしまう、これは何度も実証済み。
さてはて如何したものか。

国政も大変だが、私も大変なのだ。





■2014.11.19  morning  管理人

今から丁度6年前の11月17日、
還暦同窓会で知り得た情報+αで、かつて”あの子”が住んでいた同じ場所に同窓生女子が住んでる事が分かった。
注目したのは下の名が”あの子”と同じ。
同じ場所で下の名も同じ、それにクラスも同じ、これはと思い意を決し訪ねた。

悲しい事に、顔では判別出来なかった。
経年でこれほど変わるものなのかと自分に言い聞かせた(笑。
クラスを問うた、合っていた。
それでも経年変化に納得いかなかったので出身中学を尋ねた。
違っていた。

人違いで大恥をかいたが、
人違いで30%程安堵した、その顔にはかつての面影が微塵も無かったから(笑。
別人だったから当然だが。
人違いで70%悲嘆した、貴重な偶然を使い果たしこれでもう会える望みは無くなったと。
あれから6年、そして”あの子”を最後に見てから47年が過ぎた。

「”その子”、貴方の初恋の人でしょう」
其の時にそう云われた。
女性の勘は鋭い。
その別人女子、今回同窓会は欠席通知を頂いて安堵している。
同席するとどんな突っ込みが来るかわからない。

先日の同姓同名の人違い電話、よくよく振り返ってみると開口一番のセリフ、
「いやだぁ〜、私よ」、この後には「忘れるはずないじゃないの!」って言葉が言わなくても隠されている、振り込み詐欺でなければただならぬもの。
でも、とっさに突っ込みが出て来なかった。
きっと彼と彼女の間柄だったと思ったのは電話を終わってから。
こういう事に男は鈍いとつくづく思った。

国政もあわただしいが、私もあわただしいのだ。







■2014.11.18  morning  管理人

昨夜午後八時過ぎ、もう寝ようかと思っていたら携帯電話が鳴った、知らない番号。
私は同窓会案内で414名の同窓生に番号を公開している、開催間際の昨今、知らない番号から時折掛かってくる。
着信ボタンを押すと同時に、
「**君、お久しぶり、○○で〜す」
口調は明るく異様に馴れ馴れしい、
しかし○○と言われても名前に覚えがない、
「○○さんて、高校の同窓生ですか?」

「いやだ私よ!、****君(フルネーム)でしょう」
「中学校からずーっと一緒だった○○よ、忘れたの?」
私の名前をフルネームで正確に言うので同窓生には間違いないよう、振り込み詐欺ではないようだ。
「御免、もうろくして記憶にない」
中学校から一緒だというが、私には”あの子”以外は思い浮かばない。

それで用件は、
同窓会に出たく間際まで都合を調整したが残念だが出られないとの連絡。
皆、この歳になると色々とあるようだ。
最後に、
「済みませんね、貴女のこと忘れてしまって」
「それで、つい最近**中学の同窓会が有ってですね・・・・」
と、そこまで話すと。

彼女、
「**中学?」
「私は**中学ではなくて△△中学だけど・・・・」
「いやだごめんなさい、同姓同名の人違いみたい」
だって。

途中で少しおかしいとは思った。
私の下の名は19歳を境にして呼び方が違う。
高校時代以前の友人は正確な名を呼び、大学時代以降の友人は別の呼び方をする。
妻も、最後は名付けた親までもが別の呼び方で私を呼んだ(笑。
中学から高校まで一緒だったという彼女は大学時代以降の呼び方で私の姓名を言った。
彼女が私と高校まで仲良しだったとしたら、この呼び方は不自然。

異様に馴れ馴れしい口調、同姓同名の別人の”私”は、かつての”彼”だったのだろうか?
少し気にはなるが・・・・、
でもこのお陰で仲良しになれそうなガールフレンドがまた一人増えた。
めでたしめでたしなのだ。





■2014.11.16  morning  管理人

この一週間程で3名キャンセル、4名参加で微増1名。
同窓会が悩ましいのは事前徴収でないからドタキャン者から会費が頂けないこと。
ドタキャンの場合、事後請求するとの約束をお願いする手もあるが私はその方式を取るのは止めた。
たかが同窓会ごときで払え払わないのややこしいしやり取りは嫌だし、結果収支は合っても、もし事後にそんな事が有れば同窓会幹事なんて二度とやる気にならないだろうと云うのが私の考え方。

会場ホテルへの員数・費用の通告は2日前でコンクリート、だから前日・当日のキャンセル分には費用が発生する。
この急な冷え込みでの風邪や親の介護など都合が急変する者は必ず出てくる、このリスクを何人とするかこれも悩ましいところ。
リスク率はドタキャン・飛び込みを入れ約5%と見込み、ここんところの塩梅が事務屋の腕の見せ所。
もし収支に欠損が出れば事務局幹事で被る、それ位の覚悟は腹に決めている。

ところで凝りに凝っているBGM。
凝りに凝ってスタートの曲を「また君に恋してる」に決めたと書いたが、一連の曲の流れを聴いてみてどうもしっくりこない。
要は、スタート曲にしてはメッセージ性が”コア”過ぎると感じるのだ。
もっとさりげなく、皆がすーっと入っていける曲に妥協したらと考え始めた。
色々悩んだ挙句に決めたのがユーミンの「守ってあげたい」

曲の冒頭がふわっとしていてコーラスも耳になじみやすい、
歌詞も適当にメローでかつ適当に優しい、
これはいけると作りなおしてみた。
ウ〜ン・・・これはいける、女子に受けること間違いなし(笑。

そんなこんなで、他人様にはどうでもいい大同窓会が間近に迫ってきた。





■2014.11.13  morning  管理人

昨日の日記に間違いを見つけた。
開宴最初にかけるBGMを「まだ君に恋してる」と書いたが、
正しい曲名は「また君に恋している」
「まだ」が「また」。

無意識に間違ったのだろうと思う。
これは私の本音からだから。
「まだ」と「また」では随分と状況が違ってくる。
私の中では「また」でなく「まだ」、これは全共闘でも一貫している。

ビリー・バンバンの曲に「ずっとあなたが好きでした」という題の歌がある。
曲名は「また」よりずっとストレートで好ましく選曲で少し迷ったが、
私は歌詞とメロディー、「また・・・・」のほうが好き。
BGMの選曲、題をとるか歌詞とメロディーのほうを選ぶか、
これは実に悩ましい選択だった(笑。

ちゅうてどうでもいいことに想いを巡らしていてはっと我に返った。
このBGM、自分のための選曲でないこと、
我が同窓生のかつての「彼と彼女」達への選曲、
そしたら・・・・、
「また」悲しくなってしまった。

今日明日、出張。
これから出掛ける。






■2014.11.12  morning  管理人

体が重い。
額に手を当ててみたが熱はない。
職場の親睦旅行に行っていた。
一日中ぼっ〜とバスに乗り、ぼっ〜と歩いた。
二人きりの職場だとここに書いたが、親睦旅行は会員傘下の皆さんで大型バス一台分。
親睦や研修も含めこの手の行事は年間数本有り、これも私の仕事の一つ。

中身はこれも傘下の旅行会社に丸投げだからそれ程の仕事ではないのだが、一様、事務局責任者の一人として同行(添乗)する。
この体の重さ、ダルさは何だろうと考えた。
思い当たるのは前夜の某団体の総会懇親会。
酒は極力控えビールは乾杯の一杯だけ、日本酒は注がれれば飲まざるを得ない範囲。

つくづく思う、酒が体に合わない。
でも宴席は嫌いではない。
誘われればまず断らないが余程の事が無い限り二次会までは付き合わない。
付き合えばこの歳になると翌日、翌々日、そして三日後まで体に堪える。
飲兵衛には「何で?」と思われるだろうがそうだから仕方ない。

同窓会は二次会まで公式企画した。
三次会以降は銘々で勝手にやってくれにしたが幹事なもので当然二次会までは参加するが、還暦時のような三次会、四次会までの元気は既にない。
会場は12時にオープンしウエルカムドリンクを提供、語らい寛いでもらいBGMは「ハナミズキ」を流す。
開会は13時、開会挨拶は勿論代表幹事の私が断固やる。
開宴は13時半頃、BGM最初は「まだ君に恋してる」、この間に知り合ったかつての「彼と彼女」に捧げる選曲、憎いだろう!
しかし、決して自分の為ではない(涙。
それで挨拶、真面目にやろうか、オチャラケでやろうか、それとも自虐趣味でやろうかまだ決めてないが、アジ調の「ワ・レ・ワ・レ・は〜〜〜」だけは候補に無い。
どのパターンも現在原稿をしたためているがエンドレスになり困っている。

で、話題は元に戻るが、
酒は心と体を酔わすものだが、
私の場合、この歳になると体は酔って堪えても心が酔える事はまずない、
酔えない酒を飲んでキツイおもいするだけなら、断酒までは思っていないが、出来る限りの範囲で酒は止そうと思うようになった。

私には酒が無くても心が酔えるものが幾つかある、
勿論、それは小さなグラス一杯程の酒を排除するもではないが。
それで、今回の同窓会では乾杯の杯以外は飲まないとつい先程心に決めた。
下戸の私には一杯のビールでもう充分なのだ。
同窓会には酒が無くても心が酔えるものが沢山あるし、きっとあると・・・・信じている。







■2014.11.03  night  管理人

「先生、私等の中に普通に座ってれば分かりませんよ」
先生、今年80歳になると云うが私等と混ざっていても年齢差を感じさせない。
先生とは15の春に別れた、それ以来だから正確に言うと51年振り。
昨夜同窓会に出ていた、と言ってもここにくどくどネチネチ書いている高校同窓会ではなく、小じんまりとした中学校の同窓会。

高校の同窓会であくせくやっていると不思議なもので色んなところにコネクションできお声が掛る。
今回は先生もお招きしているという、それが何と私のクラス担任だった先生。
早速、中学も一緒だった高校の同窓生女子にも連絡入れた・・・・が、この女子は”あの子”ではない。
この場合、”あの子”はさて置き何としても先生にお会いしたくて出掛けた。

呼びかけた女子も51年振りだと云う、待ち合わせて会場に乗り込んだ。
先生、女子を見て「やあ・・・**さんお久しぶり」、
近くにいた同級生にも「やあ・・・○○くん」、
お久し振りちゅうたって半世紀ぶりだよ!
先生には事前に参加者の情報は無いはず、何と80歳にして驚異的な記憶力。

ところがだ・・・・・、
私を見ても何の反応も示さない。
「先生お久しぶりで、級長していた××です」、とわざわざ形容詞も付けてこちらから自己紹介し挨拶した。
一瞬、間を置いて、
「ああ、××くんか」・・・だ(涙。

先生も野郎、女子の事を覚えている事は我が身を考えても十分過ぎるほど理解できる。
でも、一緒にいた野郎の事も憶えていたし、
それなのに私の事は思い出してくれなかった。
少し・・・、いやぁ〜かなりヘコんだ。

ヘコんでいると隣の野郎が、
「オイラは劣等生、何時も先生に叱られ迷惑掛けた問題児」
「先生はそう云う生徒の事はよく覚えているものなのさ」
「それで、お前さんは級長していい子だったろ、えてしてそういうインパクトの無い生徒は記憶に残らないものさ」、そんなホローを頂いた。
そう思えば、私の青春の歴史は「中学・良い子」「高校・普通の子」「大学・悪い子」と変遷して行くことなるのだが。

気を取り直し先生に尋ねた。
「先生、二学期に**さん(注:あの子)が転校してきた時、先生は私の横に座らせましたよね、憶えてますか?」
「ああ、憶えているよ」
「級長してた貴方の横なら面倒見てくれると思ってな」

「先生、その判断が私の人生に大きく影響を及ぼしてですね」
「今でも引きずってるんですよ」
杯を交わしながら、ドサクサにまぎれてそう先生に云わせていただいた。
80歳から51年を引くと当時先生は29歳、経験不足で多感な15歳の指導を誤り、結果火を付けてしまったのだと遠回しに言ったつもりだったが、
先生、何事か全く気に留めた様子は無く普通に聞き流されてしまった。

私の自虐史の全ての始まりはこの先生の一つの判断ミスから始まったのだ。
歴史とはこんなひょんなことから始まるのだ(大笑。






■2014.10.28  night  管理人

ツイストに甘酸っぱい”香り”が残ってるのは何故だろうと、ここのところずっと考えていた。
まあ、私等の青春総体がツイストとゴーゴーダンスの時代だったからといえばそれまでだが。
文化祭だったか隣の女子高のセーラー服着て講堂の舞台でゴーゴーダンスを踊った、曲はビートルズのDizzy Miss Lizzie 、悪乗りする性格は昔から一貫している。
因みに女子高のセーラー服、どうやって入手したかこれは憶えていない。
体育祭のファイヤーストームではフォークダンス、下級生にダンスのペアを申し込まれたのが唯一浮いた話。
まあ、極めて平均的でおバカな高校生だった訳だが、極めて残念なのはその何処にも”あの子”が居た記憶がないこと。

朝、目覚まし際にふと一つの出来ごとの記憶が蘇った。
高校の修学旅行は九州方面組みと関東方面組みの二コースに分かれて行った。
私は迷うことなく関東コースを選び、この選択がその後の「とにかく何処でもいいから大学進学は東京」につながっている。
それで、あの子も関東コース組みだった。

東京オリンピックと新幹線開業の翌年、
宿泊は箱根、日光、そして東京は水道橋の三泊、当然ディズニーランドは未だ無い。
箱根は小涌園、
ホールかラウンジだったかそこにはジュークボックスが置かれていた。

田舎の高校生に当時ジュークボックスは珍しい、
音楽はお皿のレコードかラジオの時代、友達と一緒の時に時音楽が流れるなんてことはまず無かった。
夜、自然にジュークボックスの前に引き寄せられた。
其の場には学内では殆ど近くに来ることのない”あの子”もいた。
最初はビートルズ、皆がコインを出し合った。

その内、三拍目にビートが来るエイトビートの曲が流れ、自然に誰とはなしにツイストを踊りだした。
修学旅行という開放的な雰囲気、
ジュークボックから流れるエイトビートの曲、
楽しく踊る夜更けのラウンジ、そして私には”あの子”の顔。
そんな思い出がふわ〜と戻ってきた。

何故、ツイストにこだわるかその謎が解けた。
あの子との楽しい思い出が無かった高校三年間で、
間近で親しくした訳ではないが、同じ場所で時間を共にしたたった一つの思い出。
あの子が近くに居たたった一つの思い出・・・・・、この時刷り込まれた訳だ。
ツイストの曲は騒がしくも、私には甘酸っぱい”香り”が残っている。

因みにこのささやかなツイストダンスパーティー、
余り記憶は定かでないが、引率の先生の適切な”指導”で程なく解散させられと思う。





■2014.10.24  morning  管理人

母校の校友会を訪問した後、会場のホテルに赴いた。
次回の準備会に諮ろうと料理・飲料のメニューを出してもらうようお願いした。
会場のホテルには年明け早々に予約を入れていたが、我が街では有数の宴会ホールのためつい最近までブライダルロックが掛っていた。
ブライダルはしょぼい会費の同窓会より一定売り上げが見込める訳で、同窓会で先に予約を入れても後から入ってくる結婚式を優先するという極めて経営優先の業界ルール。
私らが押さえにかかった日程は”仏滅”だったが、それでも例外なしのこのルールが適用されていた。
その県内有数の宴会ホールを使用できることがやっと確定したのがつい最近、会場一つでこれだけ厄介な訳で幹事代表がいかに大変か同情して欲しい。

さすがに県内一二を争う宴会ホール、でかい!。
「これだけ広かったら、周りに談話スペースを取ったらいいね」
一緒に行った女子の幹事さんがホテルの宴会係に注文を付けた。
「談話スペース?」
「それって会場も広いし宴席やロビーで十分じゃないの?」
私がそう応酬すると。

「久しぶりに会うのですもの」
「二人でゆっくり話したい人も居るんじゃない?」
多分女子は、仲良しの女同士でゆっくり話すスペースを念頭にリクエストしたのだろうと思う。
その意図を聞いて私は応えた。
「それはいい!、それは絶対にいい!」
「ホールの壁面か片隅に是非そのスペースを設けよう!」

この時、私は瞬時に違うシュティエーションを頭に描いていた。
幹事代表の特権で私は今回の同窓会参加者の詳細な個人情報を把握している。
その中に、かつての「彼と彼女」の組み合わせを幾つか散見している。
この極めて個人的な情報は還暦同窓会以降まめに作ってきた女子連との付き合いの賜物。
ロビーは如何にも人目を避けているマイナスイメージがある、その点スペースが会場内というのはさりげなく実に良い。
かつての「彼と彼女」がホール片隅で周りに邪魔されずかつさりげなく談話する、
私にはその光景が”ハナミズキ”のBGMと共に頭に浮かんできた(笑。

薄紅色の可愛い君のね
 果てない夢がちゃんと
 終わりますように
 君と好きな人が
 百年続きますように

 夏は暑過ぎて
 僕から気持ちは重すぎて
 一緒にわたるには
 きっと船が沈んじゃう
 どうぞゆきなさい
 お先にゆきなさい

 僕の我慢がいつか実を結び
 果てない波がちゃんと
 止まりますように
 君とすきな人が
 百年続きますように 


相変わらず、私はここでもやはりかつての「彼と彼女」のつなぎに尽力しようとしているわけ。
格調高くフロイドかユングの心理学で分析するとだ(笑、極私的には己の夢を代償としてそこに投影している訳と理由付けしとこう。、
そのピエロ役に正真正銘の”主役”が回ってくるかどうかは、はかない夢と厳しい現実とが交差する極めて機微な個人情報だから、ここには書かない。
何か・・・・my favorite songs 聴きながら訳のわからないことを書いていると涙が出てきた。
”悪のり”と”悲哀”は同席しているのだ。

青春の「彼と彼女」はそんだけピュアであった訳で、
そして人生66年の極みが、
そう云う事・・・・・なのだ。




■2014.09.24  morning  管理人

同窓会の返事の受け取りがやっと200通を超えた。
全部で400通余り出しているのだから約半分程。
月末の締切りまで後一週間、今後、それなりにまとまって来るとは思うが、
返事(返信)を寄こさない方がかなりの数になるとは覚悟している。

今までは日に2〜5通の受け取りペース、日々それらを名簿ファイルに入力し、寄せてもらったメッセージもファイルするようにしている。
それをまとめてみた、文集とまではいかないが「お便り集」ができそう。
勤めており都合が付かなかった方、遠く離れておりUターンしたら出席するとの方、諸事情により次回は必ずとの方、中には病気療養中の方などなど、今回出席が叶わなかった方々のいろんな思いが綴られている。
個人情報で不都合がない範囲で「文集」にまとめ、同窓会当日参加者に配ろうと思う。
代表幹事としては、参加が叶わぬ方々も含めそれで新たな交流が生まれればと願っている。

話は飛ぶが2008年8月、私が60歳を迎えたとき子供たちが誕生日を祝ってくれた。
その時こんなやり取りをした。

「父さん、欲しいものがあったら言ってよ」
息子二人がそういう。
家もあるしな、
それにボロだけど車もある、
「カワイイお嫁さんと・・・・、それに孫だな」
そう応えたかったけど、息子達にプレッシャーになるので堪えた。
「ウ〜ン・・・、今欲しいものは別に無い、十分だ」

あれから6年が過ぎた、私は幸運にも「欲しいもの」を全部叶えた。
だから我が人生でもうこれ以上欲しいものは無い。
後は私、妻の順番でこの世から消えていくこと。
この順番さえ違えねば、もう何も云うことは無い・・・・・と言い切ろうと思ったが。

ここだけの秘密だが、
私の人生で”も一つ”だけ叶えてもらいたい「願い」がある。
これは言い訳だが、「欲しいもの」と「願い」は別事だ思っているから(笑。
それをこの同窓会に掛けているのだが、
その可否がどうなるか・・・・。
ここ一週間にそれが掛かっている。



■2014.06.29  morning  管理人

実は、市立J中同窓会前夜の飲み会には長い序章があった。
関東からJ中同窓会で2名帰って来る、前夜に一杯やらないかとの連絡は3ケ月程前のことだった。
携帯メールに2名の名が記してあった。
その内の野郎は高一で同じクラス、進学せず東京で大手家電メーカーに就職した仲良しだった。

確か大岡山の社員寮に入り、月給前に貧乏学生の私にしょっちゅう金を貸せと桜上水の下宿に訪れた奴。
寮費を払うと手元に殆ど金が残らないと聞いた、何故とまでは聞かなかったが、
高校時代に複雑な家庭環境だと聞いていたので多分親に仕送りしていたのだと思う。
進学をあきらめ就職を選んだ東京では数少ない同窓生だった。

問題は彼の事ではない、もう一人帰省してくる女子のほう。
私が何度も何度のここの日記に綴っている飲兵衛の女子、ワイングラス三個に地酒を並々とつぎ、
「好きだったけど、何も言えなかった。
デートしたこともないし、手を握った事もない。
勿論、キスなんて論外。
思い続けるだけだった」
と、切々と愚痴ってくださった彼女。

私はその後、その相手との「電話再会」を仲介しており、二人はこの秋の同窓会での再会を約束している。
これは或る意味今秋の同窓会の一つの「ネタ」になる。
再会はこの秋まで取っておきたいと云う政治的判断が私の頭をよぎった。
その高度な政治的判断と、折角、帰って来るのだから会わせてやりたいと云う優しい気持ちが交差したのは言うまでもない。



色々と差し障りの有るかもしれませんで、顔のマスキングは何時もより大きめに

一月ほど考えた(笑。
人の運命のチャンネルを握るのは苦しい事だとつくづく思った(笑。
気持ちは両方に交差したが、結論は「知らせない」に決めた。
同窓会幹事代表としては正しい判断だと思った訳だ(笑。

ところが6月3日の事、彼から携帯メールが届いた。
6月1日、私が東北旅行で欠席した同窓会準備会に彼は参加し、飲兵衛の彼女が帰省してくる事を聞き及んだと云う。
是非、そのJ中の飲み会に参加したいとのお願い。
私以外の所から情報が漏洩したのだ(笑。
盛り上がるネタが一つ潰れてしまうと思ったが、もう白を切れなくなった。

ここまで書いたが・・・・、
金曜の夜は、
展開が”それほど”だった訳で、
当人たちはさて置いて、”私の気持ち”の方が整理できない訳で、
かなり先の後日、気持ちが落ち着き納得してから備忘録で綴るつもり、
今朝はここまで。





■2014.06.21  night  管理人

涙がポロポロ、
別に悲しいことがあった訳ではない、
カーコンポから何気に流れる「はなみずき」
聴いてて涙が落ちてきた、
きっと歳のせいだろう。

薄紅色の可愛い君のね
 果てない夢がちゃんと
 終わりますように
 君と好きな人が
 百年続きますように

 夏は暑過ぎて
 僕から気持ちは重すぎて
 一緒にわたるには
 きっと船が沈んじゃう
 どうぞゆきなさい
 お先にゆきなさい

 僕の我慢がいつか実を結び
 果てない波がちゃんと
 止まりますように
 君とすきな人が
 百年続きますように 

連れ合い五人

土曜日だというのに巡業のドサ回り、総会の来賓出席のためマイカーで出向いた。
その車中、同窓会の企画を思案した。
宴会一次会は13時スタートで16時までの3時間に。
でも経験上3時間では足りないので、その前の12時に開場しようと思っている。

涙が乾くと思いついた。
ウエルカムドリンクサービスは必要、それとBGMで「はなみずき」を流そう。
高校の三年間だけでなく、
青春全部を振り返るつもりで。


■2014.05.05  night  管理人

「切ないおバカ映画がありますよ」

先日、サロンの長老からメールが届いていた。
レンタルショップを検索したら、4月4日レンタル開始の台湾映画。
折角勧めてくれたのでこの連休にレンタルした。
なるほど切ない、
それにおバカだ。

”あの子”の所在を調べてくれたのは長老。
長老は私の”あの子”騒動をよく知っている、
だから、多分「切ないおバカ」と遠回しに言っているのだろう。

なるほど切なく、
それにおバカだ。
云われているだろう本人もそれは十分自覚している。




■2014.04.30  night  管理人

あの子に手紙した。

と言っても私信ではない。
校友会名簿には同期同窓生685人の名が記されている。
その内、住所不明者は200人程。
あの子も住所不明者の一人。

今現在の同窓会準備会の主たる作業は住所不明者の所在探し。
幹事のそれぞれが伝手を辿り所在情報を集めている。
それで、私はあの子の所在を知っている訳で、
自分で代表である自分に所在情報を報告した訳だ。

情報を提供してくれたそれぞれから了解を取って、同窓会準備会の活動を知らせている。
私も代表である自分に極めて事務的に了解を出した。
だから、あの子に出した手紙は事務通信であって私信ではない。
しかし、当然だが差出人の氏名住所それに連絡先は代表である私。

アカシアの花にクマンバチが

我ながら姑息な手を使うものだと思うが、
この魂胆が代表を引き受ける際に有った事は敢えて否定しない。
思い出すに1968年の8月、今回とは違い純粋な私信であの子に手紙を出した、
確かあの時は私もあの子も19歳だったはずだ。

あれからその返事を50年近く待っている。
それで私もあの子も65歳になった。
私信でない姑息な手紙を出して一週間程になる。
待つ時間をそれと比べれば、一週間なんてほんの一瞬だが。

何度も言うが私は65歳、
前回と同じ様に待てば115歳を過ぎても返事は来ない訳だ。
いくら私が辛抱強いと云っても、
それほどは待てないのだ。

それと・・・・・ここだけの話なのだが、
事務連絡文の後ろに”追伸”で一文添えた。
これは代表の当然の役得なのだ。




■2014.02.01  morning  管理人

テーブル。
私と妻の椅子の間に小さな椅子が在る。
偶にだが、この椅子に主が座る。
父さん母さんが忙しい時、妻が園まで迎えに行く。
それで、父さん母さんが迎えにくるまで、我が家が一時保育所になる

そんな時、私は仕事を繰り上げそそくさと帰宅する。
急いで帰らないとすれ違いになるから。
だから、駆け足で、時に全力疾走で家に急ぐ時も有る。
そして、この小さな椅子を挟んで三人で食事する。

この前は何を食べたか、
何のご本を読んだか、
そしてどんなに笑ったか、
この小さな椅子の主がいない日、
二人でそんな話をするだけで、妻も私も目が潤んでいる。
確か、遠い遠い昔もそんな事があった記憶がある。

昨夜、
「えっ、これ娘さんの様だけど?」
そういうってN君は電話機を私に戻す。
「済みません、お母さんに変わって欲しいのですが」
電話機を受け取って、そう話すと、
「やだぁ〜**くん、私、本人よ!」

大同窓会の前・発起人代表の偲ぶ会を催した。
偲ぶ会と云っても赤提灯だが。
最初に黙祷。
座も緩んだ頃を見計らって、N君の傍に寄った。

三年間、貴君をズッ〜ト片思いだったという女子の話をしてあげた。
それで、今、電話するからと彼女の番号を発信してN君に電話を手渡した。
「あの〜う、**君に言われて電話しているNですが」
おずおずと何か話しているが要領を得ない。
終いに、「どうも娘さんが出ているようだ」と私に電話を戻した。

酒が入ると最強の彼女も、”しらふ”だから動揺しまくっている訳で、
「貴女、N君に娘さんと間違われているよ」
「よかったね連絡が付いて、N君と変わるから」
そういって、も一度N君に電話を戻した。

電話を終わったN君に聞くと、
11月の大同窓会には必ず来ると約束してくれたと云う。
悔しいが、
そして、我が身を思うと大いに不本意だが、
嬉しかった。



■2014.01.24  night  管理人

好きだったけど、何も言えなかった。
デートしたこともないし、手を握った事もない。
勿論、キスなんて論外。
思い続けるだけだったと。

日本酒をなみなみと注いだワイングラスを三つ前に並べ、
そういって泣き事を並べた女子。
2009年11月3日の日記に綴っている、
その彼女、私と同様に会いたかった片思いの相手には結局会えなかった。
もう4年以上も前の出来ごと。

今日、同窓会の幹事から電話が有った。
昨年末に逝ってしまった同窓会発起人代表を偲ぶ会を今月末にすると云う。
偲ぶ会と云っても赤提灯でやるのだが。
正直言うと、逝った同窓生とは全く付き合いが無かったのだが・・・。
発起人代表を継いだ私にも出てこいとの事。

更に幹事が電話でこう続けた。
「サッカー部だったN君が最近地元に帰っていて、是非、その偲ぶ会に参加したいと言って来た」
「N君?」
「進学クラスで、サッカー部だったN君なのか?」
「確かそうだが・・・、それが?」

幹事にはそれ以上の説明は敢えてしなかった。
その言われたN君とは、
上に書いた、飲兵衛の彼女が会いたかった片思いの当人、N君なのだ。
さ〜て大変な事になった、これから如何したものか・・・・。
その彼女、今でも結構キュートな昔の面影が残っているから悔しいのだ、
自虐的に言えば、「人の幸せは私の不幸せ」だから、私はキューピットの安売りは嫌なのだ(笑。



■2013.11.25  morning  管理人

「来年11月**日に同期の同窓会をやります」
札幌の悪友の口コミ情報ではなく、その後正式の”業務連絡”が携帯メールで届いた。
発信元は地元でなく関東同期会会長のM君。
某私立大の学長兼理事長を務め、関東の高校県人会会長も務めている。

2008年の還暦同窓会は各クラス毎に有志が幹事を担い、それを学年幹事O君が取りまとめるかたちで開催にこぎつけている。
この4〜5年、私が関東の女子連と付き合いを深め、彼女らを迎え地元でミニ同窓会を何度か開いた際もこのO君には色々と助けてもらっている。
今回の大同窓会の発議がそのO君ではなく、何故関東在住のM君なのか。
その理由はO君のプライベートに関わるので、ここには書かない。

いずれにしても6年振りの大同窓会開催の”指令”が発せられた訳で、
私に早々とその第一報の指令が下るということは私がクラス幹事以上、学年幹事以下の位置に居るとの評価なのだろう。
この評価は、この4〜5年の私の実績からきているのだと思う。
還暦の年まで、高校時代の付き合いを19歳を境として全て絶っていた私としては、この4〜5年は随分の変化だ。

家族が増えたもので、お誕生祝いも何人かまとめて

この4〜5年で家族が増えた。
子供達にそれぞれ連れ合いが、新しい命も誕生。
そして40年近く務めた職場を定年退職し新しい職場に就いている。
私は唯物論者ではないが、環境が大きく変わったから心も変化したと思う。
それは何も大げさな社会情勢の変化でなくてもよい。

身体が衰えてきたからバランスよく心も枯れてきた。
枯れるは生きもとしての避けられない宿命だから、
黄昏色にほどよく枯れたいと思う。




■2013.07.07  morning  管理人

「その子なら知ってるぞ」
「以前、同窓会に何度か来た」
「確か**の前で喫茶店やってる」
「俺に聞いたって、行ってみな」
同席した同窓生に所在を尋ねたら、意外にも簡単に分かった。

卒業して50年、昨夜、中学の同窓生の小さな集まりに顔をだした。
2008年6月の高校の還暦同窓会で、中学が一緒だった奴に会った。
奴が云うに、時折少人数で中学の同窓生で飲み会をしていると聞いた、そのうち機会が有ったら俺も呼んでよと頼んでいた。
昨夜、やっとそのお呼びが掛った訳。
この歳になると時間の流れがゆったりになるのだろう、そのうちがそれから5年も経っている。

集まりは男子が9名に女子が1名。
出掛ける前に、電話で聞いていた名前を中学の卒業アルバムで探してみた。
団塊世代だから中三のクラスは12クラス、1クラス平均55名だから一学年で660名程になる。
毎年クラスの総替えしたとしても三年間で同じクラスになるのは160人ほど、クラブに入っていないと残り500名は殆ど付き合いが無い事になる。
チェックの結果、憶えが有るのは3名のみ。

他のクラス写真を眺めていると、ある女子に目が止まった。
「この顔、なんとなく憶えがあるぞ」
可愛い子だ、名前を見る。
断っておるが自虐的に綴っている”あの子”ではない。
目にとまったその子とは中学校での記憶は全くない。
必死になって思い出そうとした、私の場合、女子の事になると必死さが違うのだ(笑。

記憶の鍵は顔以上に名前に有った。
「みどり?、みどり?・・・・、え〜と、そうだ、みどりちゃんだ」
「小学校1年の時、お手々つないで一緒に学校に通ったみどりちゃんだ」
「そうか、みどりちゃんと中学校一緒だったんだ」
折角気付いたのだし、それに”あの子”ほどのへんなこだわり無いから、昨夜の集まりでみどりちゃんの事を同窓生に訪ねてみた。
「お前、みどりちゃん、初恋の相手か」
当然、ちゅうて突っ込みがあったが、キッパリ「そうでない」と切り返した。
何故なら、可愛い子だけど、そうでないからそうでないのだ。


 

 1955年(昭和30年)春、市立K小学校二年クラス写真、私の三人隣がみどりちゃん。


私は小学校を四回、中学は三回転校している、小中合わせて七回転校の記録を持っている。
中三の新学期を前に、父の転勤で七回目の転校が決まった。
父と一緒に赴任先に行けば、中学は三回目の転校、学年毎に学校が違う事になる。
自分で云うのもなんだが私は素直で聞きわけの良い子供だった、しかしこの時だけは父に頑として反抗した。
「僕はもう、こうこれ以上学校は変わりたくない」
「変わるんだったら、一年の時居た元の中学校に戻してくれ」
普段、反抗した事のない子供だったから、父も堪えたのだろう。

だから中学は三回転校したが、一年と三年は同じ学校。
「そうか、だからみどりちゃんと一緒の中学だと今まで全く気が付かなかったんだ」
それに学年で12クラスもあれば、こういう事もあるのだ。
週初め、首都圏に出張だが、
帰ってきたら、”あの子”ではない女子、みどりちゃんに会いに行こう。
その喫茶店、私の職場の直ぐそばなのだ。




■2013.06.13  night  管理人

随分以前の日記にも書いたが、私の中学時代は二人掛けの机に男女が席を並べて座った。
先生に気に入られていた私は二学期からクラス委員、つまり級長になっていた。
学期毎の机の並び替えも先生が決めていた。
「**!、お前がこの転校生と並べ」だったと思う。
今考えてみれば、友達のいない転校生の面倒を級長のお前が面倒を見よとの事だったのだろう。
まあ、記憶はいい加減だが、私の隣にあの子が座った事は間違いない。

転校生、当然だが友達が一人も居ない。
私が最初の友達になった訳。
学校の事など色々と教えてやった。
男女の”それ”と云うことではなく当然他の誰よりも仲良くなった。

先生に級長に指名されたのは、成績も良かったため。
人生の中で後にも先にも唯一この時期だけだが、この頃は勉強に自信があった。
数学や英語を頭を付き合わせて教えてやった。
毎日毎日、学校へ行くのが楽しくて楽しくて、日曜日は月曜日を待ちわびた。

そんな楽しくてしょうがない二学期、そして三学期は瞬く間に過ぎた。
高校受験は同じ公立進学校を受けようと二人で話した。
そして卒業式、
式を終えても仲良しグループはなかなか帰らず、私もあの子も教室に残っていた。

私等の時代は卒業記念にサイン帳に銘々がサインをし合った。
あの子もサイン帳にサインしてくれた。
彼女から戻されたサイン帳を開けると、
サインの後に私の事が好きだと告白する一文が添えられていた。
ここまでは50年たっても鮮明に憶えているのだが、その後の記憶はすっ飛んでいる(笑。

冷静に判断すれば、早熟な女子におぼこい男子が翻弄されたと云えば一番適切だろうが、私の方が舞い上がり意識過剰に陥った。
同じ高校に進学したが、話せない、近づけない、廊下で会うと避けてしまう、
好きなのに行動はまるで反対。
全く距離が縮まらず高校の三年が過ぎ、そして46年が過ぎてしまった。

人はそんな思いを何処かで整理するのだろうが、
私の場合、その後に整理しきれない日大闘争の経験がそれに覆いかぶさり、
思いは切ないというより、ほとんどトラウマに近い。






■2013.06.13  morning  管理人

もうすぐ60が来ます 46年間ずーと、ずっとあなたがすきでした。
私に勇気がないばっかりに本当にごめんなさい。
まだ言えませんあなたに会うと今でも緊張して何も言えません。

YouTube坂本冬美さんの「ずっとあなたが好きでした
オリジナルはビリーバンバンだそうだ。
昨日も書いたが、このYouTubeの6ケ月前のコメントには同類として泣いた。

多分文体から女性だろうと思われる、コメントをまじまじと眺めて思った。
本当にごめんなさい
相手には思いを伝えていないのだから、「ごめんなさい」ってのは誰に云っているのだろう?
胸の中で咀嚼すると、
文字通り、思いを伝えられなかった相手と受け取れるのと、
素直になれなく思いを裏切り続けてきた自分が、そのため切ない思いをしている自分に謝っている、
その両方だと思う。
深く考えると結構ややこしいのだ。

そういう意味では、
一行目と二行目は同類として異議なしなのだが、
三行目、「あなたにあうと今でも・・・」
これには大いに異議がある。

私が”あの子”に初めて会ったのは1963年9月1日、中三の二学期始業式の日に彼女は転校してきた、
丁度50年前、
他県の違う制服を着ておずおずと黒板の前に立って紹介され、そして私の隣の席に座った、それを今でもはっきりと憶えている。
そして彼女を最後に見たのは1967年3月1日、高校卒業式の日、それも遠くからちらっとだ。

ずっと好きだったのは中三から数えて50年間だから、これには勝っているが、
卒業式の日を最後にあれから46年経つが未だに会えないでいる。
今でも・・・」と書かれると、悔し〜い。





■2013.04.21  night  管理人

関東から二人帰って来たので、今夜、高校のミニ同窓会を開いていた。
何時ものミニ同窓会は10人前後の規模だが、今夜の結集は女性3名を含む25名。
関東の二人に加え、近畿圏からも馳せ参じる同窓生が居て、
最近では最大規模の同窓会となり、大いに盛り上がった。

女性3名の内で一人が奇しくも中三でクラスも一緒の女子だった。
中三のクラスが一緒と云う事は、その女子は当然”あの子”と一緒のクラスたったと云う事になる。
お酒も入っていたので勢いでその女子に正直に話した。
「**さんに会いたくてね、中学の同窓会しようと思ったの」

「実は、**さんに想いを寄せてたので・・・・、40数年振りに会いたくなって」
「御免ね、動機は不純だけど」
「それでやっと**さんの所在を突き止め電話をしたんだ」
「会って別にどうこうって訳じゃないけどね、どうしても会いたかったんだ」


「へぇ〜そうなの、**君は**さんの事好きだったんだ!」
「知らなかった」
「でも、(会いたいと云う)その気持ち分かる!」
その女子に呆れられる覚悟で話したのだが、予想外に相槌をうってくれた。
嬉しくなって、出張の疲れも忘れ続けた、
「**さん、同窓会やるの手伝ってよ」

そんな話をしていると瞬く間に時間が過ぎた。
それで、今度、所在が分かっている同窓生だけでも一度集まろうと約束して別れた。
当然、”あの子”の所在を私は知っている訳で、
今日会った女子に一肌脱いで貰う事にした。
自力での一点突破が無理なら他力本願で事を処する、これは高度な”政治闘争”なのだ。
闘争勝利!






■2012.12.27  morning  管理人

悔しいが、その通りだった(汗。

札幌から悪友が一時帰郷している。
一杯やろうと喫茶店で待ち合わせた。
テーブルに着くと、ニヤニヤ笑いながら新聞の切り抜きを私の前にポンと置いた。
「読んでみろ!、まさにお前さんの事だ」

ノーテンキなキャラも含めて、
私はここに書かれているような、極めて世代の平均的なキャラのようだ。
再度言う、
悔しいが、まさにこの新聞記事通りだ。



■2012.12.11  morning  管理人

同窓生との文通(メル通)が通づいている。
同窓生がメル通番号007番までいった、私が現在005番なので負けている(笑。
60と4歳のオヤジ同士がメル通して何が楽しいかと謗る御仁もいるだろうが、
それは、同じ釜の飯を食った者同士というか、謗る御仁には分からぬものが有るからだ。

006番と007番にはまだ返信が出来ていない。
それというのも、メル通005番の「1968年春の合ハイ」事件が私としてはすっきりしていないからだ。
合ハイに行ったのは後にも先にも一回きりの記憶しか無いので、同窓生のいう陣馬高原から相模湖コースだろうけで、
ハイキングにVANジャケットはいかにもチグハグだ。

思い悩んでいると、006番で同窓生が写真を送ってきた。
これには私は参加していないが、同窓生同士でキャンプに行った際のスナップらしい。
7名の内、今般の同窓生も含めて4名が識別できる・・・・・・・・が、
女子3名の中でマスキングを施してない写真中央の女子を見てオヤ!っと思った。
この女子、見覚えがあるどころではない。

2008年8月に、少しの”善意”と大なる”遊びゴコロ”で札幌の悪友とその元・彼女(同窓生)の再会をセッティングした、2008年8月8日の日記にその顛末を綴っている。
そして2010年11月、品川でその悪友と元彼女、私の三人で真夜中まで飲んで騒いだ、結果、その女子に私が予約していたホテルの部屋を横取りされた、2010年11月22日の日記に綴っている。
写真に写る女性はまさしくその彼女なのだ。
驚いた以上に、同窓生が書いていた写真の説明で更に頭がこんがらがってきた。

私(等)の青春は、一般的に云えば常軌を逸したものがあった。
はいそうでしたと、上手に整理し棚に仕舞込むことが出来ず、それがために未だに引きずりこだわっている。
そういう独りよがりの思い込みがあるのだが、
この女子の青春も、悪友との顛末、今般の同窓生の話など総合すると、実に複雑で入り込んでいる。

そういう意味では、
それぞれが置かれた状況に違いはあれど、
人間一人一人の青春のホロ苦さや、ややこしさに、
そうそう差はないのだと思うに至った。

純情な私には理解不能だが、
意味深で歯切れが悪いが、
そういう事だ、悪友!



■2012.09.09  night  管理人

以前、札幌在住で高校同窓生の悪友が高校の卒業アルバム指さしてこう言った事が有る。
「こんな不細工な子のどこがいいのだ」
美形な女優ではいざ知らず、私等庶民にとって女性の好みは人それぞれ、
人の女性の好みをとやかく言われる筋合いは無いと思うのだが。
そこまで言われたらもはや仁義は無い、私も云わせて貰った、
「そういう、お前さんの”あの子”も今やガッハッハッのオバさんではないか!」

しかしアルバム、悔しいが冷静に見ると”あの子”の鼻筋はほんの少しだが上向き、
私はそれが可愛くて可愛くて愛おしく思うが、
美形とは、鼻筋がキリッっとしているべきとの硬直した美意識を持つ者には許せないのだろう。
人の好みは放っておいて欲しいのだ。

(上のmusicプレヤーを停止してスタートください、でないと両方鳴ります)

・・・・・、ちゅうことをわざわざ云ったのは、
このビデオを見て頂ければよく分かる。
50数年前の中学生だった頃、総見(中学の授業の一環でクラス全員で行う映画鑑賞)でディズニーの映画を観て一目惚れ、
そしてそれから少しして転校してきた”あの子”に夢中になった。
そう云う意味では、”あの子”の鼻が少し上を向いているのは認めるのだ。

庭でコオロギが鳴いています。
軟弱なハートに、また・・・・秋がやってきました。
俺ってどうして何時もこう月並みでワンパターンなのだろう。





■2012.03.01  morning  管理人

奇なる偶然だった。

仲良しになった関東同期会の女子に人探しを頼まれていた。
周辺の同窓生に声掛けしていたら、大阪の方に居るらしい、分かったら知らせると昨年末に連絡があっていた。
先日、探している当の本人から電話が入った、親の面倒見で帰省している最中との事。
早速、その子をお茶に呼び出した。

その子は高二が同じクラス、高三は隣クラスで、お勉強がとても出来る優等生だった。
大阪の大学と企業で臨床心理士をしていると云う。
またまた、私の分からぬ職業なのだ。
まあ、お勉強が出来た子だから、きっと難しい職業だと思う。

昔話が進むにつれて、若い頃なら話せない話題に入った。
「私ね、K君から一度手紙貰った事があるけど、返事を出さなかったの」
「その事が、ずーっと心の隅に引っかかって」
「K君に一度会いたいと思うけど、所在知りませんか?」

「アイツなら、少し前に死んじゃったよ!」
K君は私も高二で同じクラス、仲良しでは無かったが人伝に彼の消息は知っていた。
「エッ・・・・・・・」
彼女は一瞬絶句して黙り込んだ。
しばらくして、
「そうなの、一度会って謝りたかった・・・・」

大阪に帰った彼女からお礼のメールが来た。
K君が死んでいた事は凄い衝撃だった事、
あの後苦しくなって、私にK君は結婚していたのか、子供はいたのか、どうしたら分かるのか聞きたかった、
分かれば気が楽になるのではないかと思った事。
大阪に戻ってあわただしい毎日の中で一人になると苦しい思いをしている。
そんな内容が切々と綴られていた。

「ヘェ・・・、お勉強が出来た優等生でもそうなんだ」
彼女には悪いが何故か私は嬉しくなった。
立場は入れ違えているが、私も”あの子”と同じ様な経験をしたと返信した。
あの子に手紙を書いた状況も詳細に書いた。
人は違えど、相対する関係は限りなく同じだと書いた。
”未練と悔い”を人生の味付けに生きているとも書いた。

そしたら、昨夜、返信の返信が来た。
K君は同志社大学に進み、学生運動に頭を突っ込んだらしい。
民青かトロかまでは書いてなかった。
彼の手紙は社会に対する考え方、人生に対する考え方が書いてあったと云う。
好きとかどうかというそんな事は全く書いていなかった。
返信を読んでいくうちにグッサっと胸に刺さるものがあった。

彼女、返事は出さなかった、出せなかったらしい。
民青かトロかは別として一方通行の勝手な手紙を出した経過は私と一緒。
彼女は返事を出さなかった事で、K君を苦しめたのではないかという痛みをずーっと持ち続けていたと云う。
羨ましいと云うか、”あの子”もそうあって欲しいと云う願望はあるが、
これは・・・・・私の場合、定かでない。

好きなのに素直に好きだと言えず、
社会が・・・、
闘争が・・・、
そんなことしか書けなかった同類のアホな野郎であることは間違いない。
あの”時代”と云う特殊性なのか、
それとも青春に共通したアホなのか。

K君とは少しの時間差で生死は別れたが、
やっぱ、私もK君もアホだと思うのだ。
妻に聞いたら、臨床心理士とはカウンセラーという事らしい。
「今度帰省したら、私のカウンセリングをお願いしますので一緒に飲みましょう」
そう返信メールの最後に記した。




■2011.12.02  morning  管理人

昨日は、先週からぶっ通しで10日間働き詰めだったので休みを貰っていた。
夜ゆっくりHPの作業でもしようかなと思っていた矢先、電話が掛ってきた。
同窓生の女子が当地に来ているらしく、皆で一席やりたいから面子を募っていると云う。
女子というのは某私大の学部長さん、当地で開かれる学会に来ているらしい。

普段、つるんで酒を交わしている高校の同窓連は、学業は二の次、楽しく遊び呆けていた集団。
おかげで皆々成績は後ろから数えた方が早かった。
一方、今回の女子は品行方正、学業優秀、成績は学年で何時もトップクラスにいた御仁。
電話の主が云う、
「いろいろ思案したが、わが(劣等生)陣営には付き合える面子が居ないのだ」
「お前さんなら何とかなるかもと思ってな、助けてよ」
女子連に特化しているオイラは重宝な員数合わせらしい。

夕方は先約が入っていたので予定より少し遅れて参加。
女子六名、男子四名の丁度十名の宴席、女子六名中かろうじて四名まで顔が分かった。
偏差値の格差はあったがそれは大昔のこと、楽しい時間を過ごしたが、成績優秀グループの女子の今はさすがに違う。
冒頭にも書いたが、主賓の一人は某私大の学部長様。
一人は某市の教育長様。
一人は小学校校長を退職した後、現在某幼稚園の園長先生様(天下りか?笑)。
一人は元高校教師で最後は母校の教壇に立っていたらしく、定年退職後1年間夫妻でフランス留学していたという。
ちなみに元高校教師の旦那様は地元国立大学の元学長さんだそうだ。
成績優秀グループの女子は皆々教育関係者、さすがには私(等)とは違う。

でも、違わない所もあった。
二次会で押しかけた何時もの同窓生の店。
カラオケマイクを握ると、
学部長、教育長、園長先生、そして元高校教師も、
すっかり、あの時代の女子、男子に還っていた。




■2011.11.03  night  管理人

昨夜の飲み会、二次会へ行こうと誘われた。
「**くん、行きましょうよ」
高校卒業以来45年振りにあった女子にも誘われたがご辞退した。
久し振りの女子とはもっともっと話したかったが、二次会をこなすには体力と気力が足らない、それで今後ゆっくり連絡取り合おうと電話番号はしっかり交換した。
昼間の茶話ならそれなりに持つのだが、今の体力気力で酒の付き合いは二時間程が限度。
皆と別れ、自販機で茶を買い求め公園のベンチで酔いざまし。

今年の8月、私の”あの子”ではない「あの子」が帰郷していた、これについては8月9日と10日の日記に備忘録的に綴っている。
その「あの子」のたっての頼みで、中学以来、双方が片思いと思い込んでいた彼と彼女の再会の場をセットした、
お互い好き同士なのに、私等の青春時代にはよくある話だ。
別に何かが起きる訳ではないが、結果はハッピーエンド、双方永い間かかえていた荷物を降ろすことが出来たらしい。
それはそれで良かったのだが、想定外のハプニングというかトバッチリが一つあった。

「**くん、貴方の片思いの彼女、ここへ呼び出しなさいよ」
「アナタ出来ないなら、今、私が電話してあげるから、番号教えなさいよ」
「女の私が呼び出せば、向こうも警戒しないでしょう」
世話したお返しなのか、酒の席でそう云って責め立てられた。
「いいよ、明日自分で電話するからさ」
結局、強引に約束させられてしまった、60余歳のオッサンとオバサンが、顛末は殆ど中高生のノリで気恥ずかしいが。

話は昨夜に戻るが、
ベンチでひと時、酔いを覚まし帰りのバスに乗った。
車内はガラガラ、ウォークマンを取り出し、ベットボトルの茶を飲み干す。
車窓を流れていく灯を見ていると、じわ〜っと涙が滲んできた。
還暦同窓会以来、次々と会う40数年振りの同級生女子連は、皆々チャーミングで笑顔なのに・・・・。

それで、話はまたまた8月に戻るが。
次の日彼女との約束通り電話をした。
個別、私の場合、結果は今のところハッピーエンドではない。




■2011.11.03  morning  管理人

隣に座った同窓生♂が名刺を見せろと言うので差し出した。
その隣の女子(といっても多分63歳だろうが、笑)が肩越しに私の名刺を覗き込む。
「エッ・・・貴方、もしかして**くん?」
マジマジと私の顔と名刺を交互に眺める。
「嘘ぉぉ・・・・、ぜんぜん分からなかったわ!」

この飛び石連休、首都圏の某有名私大で学長様をしている同窓生が帰郷してきた。
なので、昨夜はそいつを囲んでの飲み会となった。
彼には東京で何時も女子連と一緒に歓待して頂いているもので、ヘタレていてもその義理からこの席は外すわけにはいかない。
夜の六時半、来た者順に席に着く、
私の次の次に女子が入ってきた、初対面で高校時代の記憶は全くない。
座が始まり、酒が回り打ち解けてきた頃、隣の野郎が私に名刺を見せろと言い出した。

「私、**よ、憶えていない?」
そう云われれば何となく記憶がある、中三の時に同級生だった女子で同じ高校に進んだ子。
彼女は文科で私は理科、一学年15クラスのマンモス県立高校だったもので、中学の同級でも全く付き合いはなかった。
還暦の同窓会以来、随分と昔の付き合い+αが生まれたが、中学の同級生、それも女子と再会したのは始めて。

「**さん、実は数年前、中学の同窓会をやろうと画策したのだけど、途中で挫折しているの」
「野郎で数人、所在を突き止めたけど女子は全く分からなかった」
「他の高校の同窓会名簿も調べたけど、女子は姓が変わっているでしょう」
「そういえば、貴女も同窓会名簿で調べたけど、所在不明だったよ」
中学の同窓会を開こうとこの間の努力を話した。
・・・・がしかし、そのモチュベーションが”あの子”に会いたいためだとは当然云わない。

「私ね、還暦の同窓会で皆と再び会って楽しくお喋りして、それが楽しくそれ以降こんな席があれば出ているのよ」
「今日は**さんに声を掛けられ、今日来ている人殆ど誰も知らなかったけど出て来たの」
「**くんにも会えるし、同窓生ってほんと楽しいわ」
瞳を輝かせ笑顔でグラスをぐいぐいと空けてゆく、彼女、きっとこれまで幸せな人生を歩んできたのだろう。

そういうことで、中学の同窓会にこぎ着ける心強い橋頭堡を確保した。
なにせ女子連の情報ネットワークはすごい、それはミヨちゃんのそれで実証済みだから。



■2011.08.24  morning  管理人

「お前さんを呼ぶと、色々と(同窓生の)情報を取れるからな」
朝、デスクに着くと同時に携帯電話が鳴った。
普段ほとんど付き合いのない同窓生。
2008年に催した卒業40周年還暦同窓会の代表幹事を務めてくれた、その筋では大物の御仁だ。

関東の同窓生♂が帰郷していて一杯やるので出てこないかとのお誘い。
女子連専門に特化している私としては、仲の良かった友人以外で野郎連からお誘いを受けることは極希。
それで誰かと聞くと、先の6月某日、ホテルニューオータニの関東同期会で同席していた野郎だ。
そういうことで、あちらで歓待を受けている義理があるから出ていくことにした。


この数年、それなりの投資と時間、努力を惜しまず同窓生ネットワークを拡げてきたことは確か、その自覚はある。
1968年のあの時代の記憶と、格子窓に切り取られた四角い夜空の中に想った”あの子”の記憶とがごちゃ混ぜになり、
何時かはあの時代の”あの子”に行く着けるかもしれないという思いが強力なモチュベーションになり、
同窓生から同窓生へと何本もの糸を巡らせていたら、結果として情報ネットワークの中心付近に位置するようになってしまったようだ。

自分で云うのも何なのだが、
私は本来シャイ。
付き合いは最小限に止め、音楽を聴き、草木と話すほうが好きな性分。
極めて個人的かつ特異なな動機からとは云え、
この評価と、昨今の展開は全く持って想定外なのだ。


■2011.08.10  morning  管理人

昨夜、書きたくないと云った割には更に続けて書くのだが、まあ、これも気持ちの流れだから。
47年前、彼女は彼を傷つけたのではと気遣っており、
47年前、彼は彼女を傷つけたのではと気遣っており、
47年間、二人はそのことを忘れずに今まで引きずっていたという。
自分の事は棚にあげておいて、こんな演歌みたいな話を傍で聞かされると、正直、コンチクショウと思った訳だ。
だから書きたくなかった。

今朝、彼から電話が入った。
これが最初で最後、もう二度と会うまいと心に決めて出てきたそうだ。
それは、自分が彼女を傷つけたという痛みを引きずっていたからだそうだ。
それが先般の展開で、もう一度会いたくなったという、だから電話番号を教えろと云う。
「やかましい、そんな頼み、聞きたくないわ」と喉まで出かけたが、
ぐっと堪えて教えてやった。

彼には私という付き添いが、
彼女も仲の良かったクラスメートを従えてやってきた。
クラスメートは元・高校教師。
クラスメートと私の二人は、彼と彼女の緩衝材という舞台設定。
そんな設定が、二人きりでは煮詰まるであろう展開を和らげたと思う。

悔しいのは、
私が”あの子”にいつか再会できたら、言うであろう、言えたらいいだろうと思っているセリフを、
彼女と彼は、見事に、完璧に交わしたことだ。
こんな、私が脇役の話し、悔しくて悔しくて、書きたくないと思ったが。
やっぱ、書いてしまった。

外ではあの頃のようにセミが煩く鳴き、
祭ばやしがきこえている。


■2011.08.09  night  管理人

彼女と彼の43年振りの再会について、書き留めておかないといけないと思うのだが・・・・、
正直、気が進まない。
他人様の事はどうでもいいと云う訳ではないが、
やはり気が進まない。

最初、彼はかなり緊張して突っ張っていた。
彼女のほうから言い出した一件なのだが、彼女はそうでもなくリラックス。
私は事前に彼女から、彼との経緯を詳しく聞いていた。
話を聞いた際の私のリアクション、
「ヘェ〜、少し違うけど」
「大筋では私の場合とほぼ同じだね」

彼女と彼はそういう事で、私の事象と少し違うが、かなり似通っていた。
そんな、青春すれ違いのアウトラインで、43年を越しての傷ついた心同士の再会だった。
女は・・・・、強いなと思った。
男は、弱いなと今更に思った。
このストーリー(顛末)は演歌の抒情がよく似合うと思った。

敢えて詳しく書かないし、うまくまとめられないが、そういう事だ。




■2011.08.04  night  管理人

土日は催しで出勤、週が明けてからは連日の飲み会&接待。
生活リズムの変則に冷房が重なり、変調をきたしている。
体調すこぶるよくなく、今日は昼までで早引け、
ソファーに沈み込み、扇風機の風に当たりながら居間で完全にダウンしていた。

ウトウトしていたらメールが二件。
一件は悪友から。
長々と別件の用件を書き、最後の一行に「飲むんだってな、よろしく云っといて」
こいつ、本当は気になるくせに。

もう一件は悪友のあの子から。
帰省したら会いたい人が4人指名してある、男二人に女二人。
最新版の校友会名簿を持ち出してきてチェック。
一人は私の友人でもありよく知る奴だったが、残念ながら後の3名は住所不明。
その旨彼女に返信。

しばらくすると返信が。
彼女が指名の私の友人は、高一の時の彼女の片思いの相手だったと書いてある。
私はその友人と高二、高三と一緒だったが、ついぞそんな話は聞いたことが無い。
札幌の悪友と彼女の付き合いはそれから随分後だから、時期はクロスしてないのだが。
率直に・・・・、随分だと思うのだ。

分かりましたよ、
私が言い出したこと事とは云え、結局もって、人の世話ばかりやく役回りなんだから
悔しいがワタクシが、
他人様の43年振りの再会をセットすればいいんでしょう。





■2011.08.04  morning  管理人

「お前、帰ってきて面倒みろよ!」
昨日、先達て毛蟹を送ってくれた札幌の悪友にメールを送っているが未だに返答が来ない。

一昨日の深夜、携帯にメールが入っていた。
高校の関東同期会の同窓生からで、来週帰省してくるとの連絡。
当人が云うには、当地には高校時代の仲の良かった友人は居ないと云う。
これって、私に”接待”せよという事だろうかと深読みした次第。

ところで、
何故、札幌の悪友に即刻メールしたのかと言えば、件のメールの主は悪友の”あの子”だから。
2008年の8月に上京した際、ミヨちゃんが動員してくれた関東の同期生の中に奇しくも彼女がいた。
それ以来、上京する度に彼女も含め皆で集まり楽しい時間を幾度となく過ごさせて頂いている。
そういう義理も有り、当然、当地でご接待するにやぶさかではないが、
悪友の”あの子”と一対一はさすがに気が引ける。

そう云う事で、先程、彼女にメールを返信した。
「私は同窓会名簿を持っているから、会いたい人がいるなら探して上げますよ」
「帰ってきたら、お茶かお酒を一杯やりましょう、楽しみにしてますよ」
さて・・・・・・・・・、
悪友がこの件だけで急遽帰省してくることは先ず持って無理だろうから
誰も見つからない場合はどうしようか思案のしどころ。

そう云えば1968年の8月、
セミが煩く啼く丁度今頃、ナップサックにヘルメットを忍ばせ一時帰省していた。
卒業以来一年振り、あの子に会おうと家の近くまで行って軟弱にもフリーズしてしまった。
あれから43年経つが未だに会わずしまい。
悪友の”あの子”も同じ文科系クラスだったから、三年間でクラスが一緒だった可能性もある訳で、
酒でも飲みながら、ゆっくりそんな昔話でもしてみようか。





■2011.06.18  night  管理人

「貴方、何時もお土産沢山買ってきてくれるから嬉しいわ」
「でもね、何故、東京のお土産の一つが”讃岐うどん”なのですか?」

これを説明するには少し長くなった。
有体にいえば、決して私等は讃岐の出身ではないが、讃岐の地で立身出世した同期生がいて、関東の同期会にそれを毎回寄贈してくれるそうだ。
有難いことだが、私の場合はそれを羽田経由手荷物ではるばる持ち帰えらなければいけないので、強烈に重かったのだ。
さらに妻が云う。
「仕事のついでとはいえ、そんなに何度も何度も東京へ行って楽しいのですか?」

うん、それはいい質問だと、ここぞとばかり少し斜めに構えて、妻に答えた。
「私はね、東京にぜ〜んぶ残して帰って来た」
更に、斜め上を見ながら、満身に気合を入れて続けた。
「私の友、私の青春、二十歳の私、全部を、残らず東京に残して来たからね」
「東京に行けば、二十歳の私に戻るような気がしてね・・・」
この時、居間にLilyさんのBGMでもかけていれば少しは雰囲気も出たのだろうが、
妻の返事は、「アッ、そう」で終わりだった。

 出張の合間に渋谷で観た映画、おば様達で一杯でした

東京二泊目の夜、新宿ルノアールだったか、その後の居酒屋でだったか、明大全共闘さんと”あの子”の話題で盛り上がった。
明大全共闘さんも「あの頃の”あの子”に会いたい」そうで、その想いをホームページに埋め込んでいるという、私と同じだ、皆同じなんだと嬉しくなって瞬間的に気分が高揚した。
「あの子に電話貰ったのが去年の4月だった」
「あれからもう1年以上過ぎてしまった」
「そうだ、俺、今から”あの子”に電話してみようかな」

しかし無謀な思いつきは、すんでのところで明大全共闘さんに止められ思いとどまった。
「時間が時間だし、止めといた方がいいのでは?」
お陰で、十五で出会い抱き続けた私の青春の残骸は、未だ”崩壊”せずに残った。
東京に二十歳の青春、
当地に十代の青春、
映画のようにうまくいくはずがないと、
そう云う事で、日和見的に未だ電話はしていない。



■2011.05.27  night  管理人

そぼろ雨降る日。
非常勤役員で残っている前職場が所属する上部団体の役員会があった。
会場の案内を見たら、見覚えのある町名
JR、最寄りの駅で下車し、会場に直行せず少し寄り道した。

よく手入れの行き届いた芝生の庭。
玄関脇の花壇は花がほころんでいる。
車庫には車が二台。
白い枠の出窓には、カーテン越しに花が飾られていた。

何気ない素振りで表札を覗いた。
少し通り過ぎ振りかえり、あらためて眺めた、約30秒位だったと思う。
気持ちを整理し、少し遠回りに、否、かなり遠回りになったが本来の目的場所の会場に向かった。
背中に甘酸っぱい空気がついてきた。

強がりだが、それでいいのだと自分に言い聞かせた。
”あの子”が幸せな62歳をおくっている事だけは分かった。




■2010.12.01  night  管理人


 上のプレヤーをOFFにしてから再生スタート、でぇ・・ないと両方鳴ります

 
あの頃、あの子と twist 踊りたかったのだ。
出来れば・・・、手も握りたかった。
悔しいけど、僕(等)には無かった60sカルチャー。
aaghさん、貴方にはきっと有ったよね(悔。

60s(年代)ではなく、60s(歳代)だと駄目かな・・・・・、
闘争勝利!


■2010.11.26  night  管理人

札幌の悪友から手紙を貰った。
このご時世になっても彼は”手紙”なのだ、これはある意味立派だと思う。
どうのこうのと色々と書き綴っているのだが、要は「夢は大切にした方が良い」との内容。
彼は40年近く見続けてきた夢が、この秋の枯葉と共に潰えたそうだ。
私はその訳を知っているが、ここには敢えて書かない。

悪友が言うには、彼の夢を潰した責任は私に有るそうだ。
「地獄への道は善意で敷き詰められている」ちゅうて、レーニンおじさんも言っているらしい。
私の”善意”がそれに当たると友は云う。
返して悪友の善意溢れる忠告に従うか、無視するかは悩ましいところだが、
結論は、例え、この先に友と同じ”夢が潰れる”春か夏が待ち構えていようとも、
私も”地獄”を見ないと収まらないと決めてる。


今朝は粗大ゴミの日、そのため通勤は何時もの列車より二便遅らせた。
先日、一便遅い列車を利用したが、ラッシュピークは一車両に五人だった(笑。
二便遅い列車は私の利用駅が始発、連結前後を入れた三両で、乗車時は私一人だった。
要は私一人の”お召し車両”だった訳だ。
通勤通学の時間帯を過ぎ、御年配の方々が活動し始めるまでのエアーポケットの時間帯だろうが、
これは、あらゆる意味でとうに限界を超していると思う。




■2010.11.22  morning  管理人

結局、関東同期会は午前11時からの茶話会に始まり、
午後1時よりの本番(下の写真1)
ホテルのテラスでの二次会(下の写真2)
新橋駅前での三次会と四次会、それに深夜の五次会と合計六回の席を持ったことになる。
先日、二次会で散会した女の子達に、その後の三次会以降の顛末を報告したところだ。


 (写真1、2)

「あのね、結局ね、札幌の悪友の”あの子”が終電に乗り遅れてさ〜」
「でぇ、仕方ないからオイラの部屋に泊めてあげたの」

詳細情報を添えずに報告すると、この顛末は非常にヤバイ話になる。
詳細は、
悪友の”あの子”が終電に乗り遅れたのは事実。
彼女を私の部屋に泊めたのも事実。
偶々、悪友の部屋がツインベッドだったもので、私は彼女にルームキィーを渡して、荷物を持って悪友の部屋に移動。

最後の一行の情報が抜かったら、大変な事になる訳です。
この1件については既に妻にも報告済みです(笑。
歳に似合わぬ”青春”してたもので、
何時もの通り想定範囲なのだが、宴の後の言い様のない空虚感。
気持ちのリカバリーに一週間ほど、やっと平常に戻った・・・(と思う)





■2010.11.20  night  管理人

 上のプレヤーをOFFにしてから再生スタート

仲良しさんも演歌歌手だそうで、
私も、最近一番気に入ってる曲を・・・。

43年振りに会った女の子も何人か居た。
この際、男共はどうでもよいのだ。
女の子、皆、素晴らしくチャーミングだった。
歳を重ねるのもよいものだ。

当然・・・・、
も一度、高校生に戻りたいと思った訳だ(笑。






■2010.10.22  morning  管理人

風雲きわまるこのご時世に『レトロな同窓会話でもないだろうに』、とそしりが聞こえてきそうなのだが。
まあ、居直りだが・・・・・、
ご時世は何時も風雲きわまっているわけで、私は”今”が特段にきわまっているとは思わない。
それに・・・・あれこれと、声高にアジテーションするのはもう止めているもので。
そうしなければ、じっとしていられない方は勝手にどうぞです。

高校の同窓生のオバ様・・・・、
もとい、女の子達の話を聞くのは楽しい。
専業主婦だった子、教師を務めあげた子、自営業の子、医療専門職だった子、それぞれに話題も視点も違う。
そんな人生の違いにもめげずに、彼女らは実に巧みに話題を繋げてゆく。

帰省組の一人は中学校の同窓会も兼ねて帰省したという。
60人前後の出席があったらしい。
私等の世代は団塊、何処の中学も教室はスシ詰でクラスは50人を優に超していた。
三クラス有ったと云うから、同窓生は少なくとも150人以上、出席を勘定すれば4割近くになる。
彼女の中学は近郊の田園地帯、昔ながらの結びつきが多い地区だからだろう。
出入りの多い市街中心部だった私の中学では、(出席は)こうはいかない。

「ところで、**くんの(中学の同窓会)はどうなの?」
私にも突っ込みが入って来た。
「まあね・・・・・」
同窓会を仕掛ける”取り組み”は四月以降、半年近く棚上げにしている。
この”取り組み”は、姑息にも”あの子”を探すネタに使ったもので、そこいら辺は説明し難いのだ。
このような”ゆるい”やりとりが実に心地良い。





■2010.10.21  night  管理人

首都圏の同窓生♀二人が帰省してきており、先日、何時もの通りお呼びが掛った。
此処のところ、帰省してくる同窓生から頻繁にお呼びが掛る。
言っておくが、高校時代、私は決して人付き合いは良くなかった。
なかんずく、女の子から声を掛けられるなんて事は全く持って”皆無”だった。
それが、『なんてことでしょう!』ちゅうセリフではないが、
現状は『なんてことでしょう』、なのだ。

当地で一番高い(値段ではなく背丈)ホテルの最上階のレストラン、
帰省組二人♀に地元一人♀、それに私の四人で大昼食会。
11時半にロビーで待ち合わせて、再びロビーに下りてきたのは午後二時過ぎ、昼食会は二時間半に及んだ。
それ位居座っても、ランチは1000円+デザート200円也、三対一だから当然割り勘。
ホテルだからゆったりしているし、座席を追い立てられる事もなく寛げた。

「父さん、笑って」と珍しく息子がパチリと撮ってくれた

私の精神構造は、二年前の還暦同窓会を契機に大きく変化したと思う。
それが証拠に、このオバ様達・・・・、
もとい、女の子(笑)達の話を聞いていて、素直に楽しいし退屈もしない。
「また今度もご一緒しましょうね」
別れ際に、彼女等からそう声をかけて頂いた。

思うに、
ニコニコ顔で聞き役に徹しているのが全く苦にならなく、素で出来る。
私は何時から”癒し系”になったのだろう。
かつての、ヘルメットにゲバ棒も随分の変身だった訳だが、
今般の変化も、肩の突っ張りがとれたと云うか、我ながら随分だと思う。

闘争勝利!、なのだ。




■2010.09.13  morning  管理人

丁度寝入りばなだった。
電話の向こう、札幌の悪友は相当テンションが上がっている。
「仲間内でな、1年半遅れの還暦を祝う会をやってんだ」
この野郎、酒の席からまたまた電話してきやがった、
寝入りばなを起こされたのもあり、かなりムットしながら応対した。

「お前な、また働いてんだって?」
「労組関係の職場らしいが、オイラは大嫌いだ」
「大体、あいつらは既得権にしがみついた特権階級だから」
まあ、云いたい事を次から次に抜かしてくれる。
全共闘をくぐった”特異種”には労組嫌いの輩が多い事は確かだが、
私をそれほどにそしる事はないだろうにと思うが。
酔狂に真面目に反応するつもりはないので「ハイハイ」と聞き流した。

私、
「とろこでお前さん、二年前の落とし前、今回はつけるんだろな」
「何なら、オイラが段取りつけてやるから」
あまり電話で騒ぐものだから、強引に友の泣きどころの話題に切り替えた。
途端に焦って、
友、
「いいよ、自分でやるから」

私、
「自分でやるって云ったって、全然進展ないじゃないか」
「いいから、オイラが何とかしてやるから」
その後、友は、私の”あの子”の話題に切り替えようと反撃の機会を伺ってきたが、そうは問屋がおろさない。
素面と酔っ払いのやり取り、駆け引きの優劣はおのずとはっきりしている
攻守反転、攻めまくってやった。

友は札幌で、
私は駿河台で、
十代の青春を見失ってしまったと思っている。
人は皆、青春をどこかに置き去りにしてくると思うのだが、
私と友の場合は、其の事に「あの時代」が絡んでいるので、しつこくてややこしいのだ。




■2010.09.11  nightU  管理人

高校の関東同期会の案内が届いた。
11月の某日、お台場の某ホテル。
しかしだ、1時開催(2時間)と記してある。
1時に開催して2時間だと終わるのは当然3時ではないか。

同窓会が真昼間の3時に終わるわけがない。
当然、近場に場所を移して二次会が5時まで。
ここで関西日帰り組は引き上げるかもしれないが、その他大勢は更に三次会が8時頃まで。
ここまで想定するのは常識だろう。

しかし札幌の悪友、更に今回は関西の悪友と東北の悪友が結集すると言うから、常識どおりにはいかないだろう。
四次会、五次会と深夜までいく事が充分想定できるのだ。
案内状を受け取ってそんな事を考えていたら、
早速、札幌の悪友から電話が、
関西の悪友からはメールが、
東北の悪友には私から謀議の電話を入れた。

今回の関東同期会には二つの課題がある。
一つは勿論”あの子”。
40数年間、分からなかった”あの子”の所在がこの春つかめた。
4月10日には43年振りに電話で話した。
その後連絡を取ると言ったきりになっている。
関東同期会では一定の経過説明をする必要がある。

もう一つの課題は、札幌の悪友。
前回の関東同期会で、”複雑”かつ”微妙”な関係にあった同窓生♀との40数年ぶりの再会を私がセッティングした。
その折、友はもう一度会ってゆっくり話すと言っていたが、実現していない。
この間、幾度か機会を作ったのだが、その場になると友は逃げてばかりいる。
この決着を付けねばと思っている。

「それは余計なお節介!」
そしりが何処からか聞こえてきそうだが、お節介やくのが友というものだ。
そういうものなのだ。
人生、せいぜい後10年ちょとだろうから、全開で行くのだ。
そういうことなのだ。




■2010.06.09  nightU 管理人

札幌の悪友から職場に電話がありました。
当地の名産の柑橘を送れというのです。
家族に大の柑橘好きがいて、頻繁に手配の依頼が入ってきます。
「そんなに欲しいなら、お前さんがネットで注文すればいいじゃないか」
「手配するのも結構面倒なのだよ、お前さんがネットでお取り寄せの方が簡単じゃないか」
いつもそう云って謗るのですが、結局、私に注文依頼が来るのです。

「ところでさあ・・・、お前さん、あれから連絡取ったか?」
「連絡ちゅうと・・・・?」
「お前さん、(何、とぼけてやんの)あの子だよ」
あれ以降の展開について、悪友から報告を求められた訳であります。

私、
「ウッッ・・・、あれから連絡は取っていない」
「それより、先日、同級生♀にバスでバッタリ会ってな」
「ついついあの子の事話したら、同じクラスだったて云うんだ」
「それで、あの子はとっても可愛いかったて言ってくれたぞ」
友、
「なにぃぃ・・・、何処が可愛い??」
「よく云うわ!」

悔しいぃぃ・・・。
又してもボロクソに云われてしまいました。
そこまで言われてプッツン切れた訳です。
本当はモロ写真貼り付けたいのですが、プライバシーもあり、縮小目線入りです。
可愛い目を隠すのは断腸の思いですが、それでも可愛いです。

(どこからか、いい加減にしろ!という声が聞こえたような気がしましたが・・・)





■2010.06.01  night  管理人

涙がこぼれる夜もあるんですよ、もう歳だから。
角の水割り2杯目です。

職場を出たら雨、小走りに帰りのバスに飛び乗りました。
ふと気が付くと前の席に同級生♀。
以前仕事でご一緒したことのある方で、一昨年の学年同窓会以来でした。

「でもね・・・、札幌の同級生は云うのだよ」
「あんな子のどこがお前さんは良いんだって」
「ねえねえ**くん、その子の旧姓教えてよ」
「エッ・・・・、私その子とクラス一緒だったよ」
「スタイル良くてとっても可愛い子だったよ」
同級生と車中で話が弾み、ついつい”あの子”の事を喋ってしまいました。

「とっても可愛い子だったよ」
その言葉が何度も何度も頭をよぎり、落ち込んで水割り3杯目です。
泣きそうな・・・・、
否、泣いてる夜です。





■2010.05.11  night  管理人

早速、私設興信所をやっている。
卒業アルバムと最近苦労して入手した最新の平成20年度版校友会名簿をチェック。
「なになに、校友会名簿の住所も、43年前の卒業アルバムと同じ住所・・・・・」
「ウ〜ン・・・・」
考え込んでしまった訳だ。

そう云えばこの43年間、
校友会名簿が改訂発行される度に、購入案内の往復ハガキが我が家に何度となく届いていた。
私は訳有って、一貫してこのハガキを無視していた。
つまり、ハガキは宛先人不明で校友会へ戻る事は無かった訳だ。
つまり、校友会はハガキが届いていると判断していた訳だ。
43年間、音沙汰無く縮こまっていた私も、校友会名簿から外されることなくキチンと記載されていたのだ。

ちゅ〜う事は、
43年前の住所で記載されている今回の尋ね人も、取り合えず郵便物は届いているという事になる。
グーグルマップで見ると、職場から僅か10分程の住所、
その住所に押し掛けて、興信所していいかどうか同窓生♀に確認してみる必要が生じた。
このオッサン、自分の事でも恥知らずになっているから、
人様の事だと何でも出来てしまうのだ。

しかしだ、
私が卒業アルバム開くのは、43年前の”あの子”を眺め、思いに耽る時と決まっていたのに、
他人様のために開くとは・・・・。
そうなのだ、
お互い助け合い、支えあう事は美しいのだ。





■2010.04.20  night  管理人

駅前の大通りの交差点、信号待ちで香西かおりさんの「みんな夢の中」をイアーフォンで聞いていた。
この頃は演歌の女性歌手もマイ・フェイヴァレイト・ソングスに加わるようになった。
ボーッと信号変わるのを待っていたら、遠くで私の名を呼ぶ声が聞こえたように感じた。
前方を見ると牧師様が運転席でニコニコ笑っている。
昨日は次男坊に会い、今日は牧師様に会った。
その内、”あの子”にバッタリ会うかもしれないと思った(訳ない)


駅からの夕陽がきれい、いい帰り道だった。




■2010.04.16  morning  管理人

>私は“その子”に会えたこと、彼女が昔の面影を残した“美少女”だったことが嬉しかったです。

昨夜、牧師様からメールを頂いた。
牧師様のメール、本当はもっと披露したいのだが、勝手な行為だから一行だけにした。
しかし・・・・・、目茶、悔しく、羨ましい。
私も一昨年の高校の学年同窓会以来、少なくない高校の同窓生♀に再会した。
何方もそれなりに経年変化をされている。
昔の面影を残している”事例”は滅多に無い、いいや、殆ど皆無に近いからだ(自分の事は棚に上げて)

そういえば、一昨年の学年同窓会の事。
高校時代、学年のアイドル的存在でお人形さんのように可愛い女の子が文科クラスにいた。
乾杯が終わり、宴席が賑わいだした頃、隣りのテーブルを見ると異様に可愛いドレスを着た女性が目に入った。
顔立ちもスタイルも還暦とはとても思えぬつくり、目茶綺麗なのだ。
直ぐに、かつての文科クラスの可愛いその女の子だった事が判った。

かつての私なら、学年アイドルなんぞは可愛いなあと遠くから眺めているだけだったが、今はどうでもよい恥知らずのレトロ親爺、グラス片手につかつかとその子の隣りに図々しく座った。
「貴女、高校時代物凄く可愛かったですよ」
「僕ら、かつて遠くから眺めているだけだった」
「僕らの中に貴女の熱烈なファンが居たの知ってます?」
「今も全然変わっていませんね」
彼女はニコニコ笑って聞いているだけ、云うだけ云って自席に戻ってきた。

後日、その子の事が同窓生仲間で話題になった。
「あれはな、やはり・・・・・・」
「あそこまで変わらず若作りだと、やはり引くよな」
彼女にその責は全く無いが、団塊親爺達の評価は概して良くない。
歳を経ても変わらぬ美貌、若さはタレントだけでいいのだ。
歳月は流れていくのだ。

ここで牧師様の一言に還る。
「面影を残した・・・・」
青春を振り返る時一番大切なのは「面影」だと思う。
余りに昔のままだと引いてしまう、面影の範囲で充分なのだ(笑。
此処のところを強調するのは、今後”あの子”に会える可能性が1%でもあるから。
その時の心積もりを今から準備しておこうと思うから(笑。

訂正です。
牧師様の高校は男子校。
牧師様の同窓会は中学校のだったそうです。
私の聞き間違いでした。
しかし・・・・、中学校のだったと聞いて、更に羨ましさが増しました。



■2010.04.14  morning  管理人

最近、牧師様から時折電話が入る。
この間、とある事で相談を受けており、その打合せの電話。
牧師様から相談をうけるなんぞ大したものだが、勿論、人生相談や信教上の相談ではない。
何のことは無い、WEBの技術的な事。

昨夜もそんな相談で30分ほど話した。
「ところで話題が変わりますが、会うことが出来たのですか?」
電話の最後、牧師様よりここのところの経過について、あり難いヒアリングを受けた。
まあ、言い換えれば電話での告白・懺悔。

日頃、牧師様に人生相談をしている訳ではないが、牧師様は私の日記を読んで下さっている。
「いえいえ、会っていませんよ、電話ですよ」
「会いたいと話したら、会話が途切れてしまって・・・・・」
「でもね、その後、改めて手紙を書いたんですよ」
「もう、いい歳だから、そんなんじゃないし・・・・・」
ある意味、同志を募れぬ孤独な闘いでもあり、聞いてもらえて心が休まる訳だ。

牧師様の出身高校は、関西では一二を競う共学の進学校。
最近、その母校の同窓会に出られたそうだ。
かつて好意を寄せていた同級生(♀)に再会できたと話してくれた。
牧師様はその話を本当に嬉しそうに話してくださった。
聖職者でも凡人でも思いは同じなのだと安心した経緯がある。
そんな訳で、私は牧師様もサロンの黄昏流星族クラブの仲間と勝手に決めている。

帰路の黄昏、コンパクトデジカメで 帰路の黄昏、コンデジで

くだんの手紙だが、
前回は、校正すればするほど限りなく「事務連絡文」に近づいた。
今回はそれが反対、
校正すればするほど”思い”が文間からこぼれ落ちてしまう。
なので、校正をすることは止めた。

いい歳こいているから「事務連絡文」でいいのだ。
”思い”は隠せば隠すほど伝わる、ビリー・ホリデーの「サマータイム」の様に。



■2010.04.11  night  管理人

「じゃ・・お嬢さんお会いすれば、貴女の27歳の頃が見られる訳ですよね」
残念でした!、娘は主人似なんですよ
でも、最近私に似てきたといわれる事も・・・」
屈託のない会話が続いた。

その勢いで、
「一度会いたいね」
「出てこれませんか?」
何回か切りだしたが其のつど、
・・・・・・・・・・、
会話がそこで途切れてしまう。

43年振り、まともな会話の無かった高校3年間を入れると46年振り、
いきなり「出て来い」というのもかなり強引だったと反省。
でも中三の頃のような屈託のない会話の延長だったから、私としては自然な展開と思うのだが。
43年待ってたのだから、
今後、生きてるうちにもう一度会える可能性が1%でも出来たのだから、
一日経って、しみじみそう思っている。

長老、色々助けて頂いて有難うございました、
これで、サロン「黄昏流星族」クラブも勢いづきます、
シネマクラブにも、学芸クラブにも負けません、
黄昏族は私に続け (何のこっちゃ?)

心底、感謝しています。





■2010.04.10  night  管理人

正確に言うと14時42分。
洗濯、掃除は午前中に済ましていた。
昼過ぎに予定の入っていた所用も済み、ネットでもと机に座った瞬間電話のベルが鳴った。
**です、++さんのお宅ですか
「**さん・・・・、????」
一呼吸置いて、
「アッアッアッ・・・・、**さん!!

お久しぶりです
少し病気したけど、今は元気
27歳の娘が未だ独身で同居していてね、何かと便利に使っているのよ
私の住所、よく分かりましたね
電話の声は明るく張りがある。
少しの”事務連絡”のあと、色々と近況を話しあった。

高校を出てから43年、まともに会話できなかった高校3年間を入れると46年振り。
極私的だが、半世紀近い時間を隔ててのこの電話、私にとって歴史的「事件」とも言える。
あの頃”、1963年の中三の秋に戻ったような楽しい会話が続いた。
きっと電話という媒体が良かったのだろう。
そして、”事務連絡”で一貫した行動方針は間違っていなかった。
42年前の反省は生かされたのだ。
同窓生の事、家族の事、エトセトラ。

でも、受話器を持ちながら少し焦っていた。
何とか次のアポイントメントを取らなくては、
「一度会いたいね」
「四十数年振りだもの、是非会いたいな」
話の間で、これを幾度か繰り返したが、
返事は「ウ〜ン・・・・・・・・・

実は、
幾つかの筋から、”あの子”は数年前に結構深刻な病気をしたとの情報を入手していた。
それ以後人前に出なくなったとも聞いていた。
それは分かったうえで、敢えて”事務連絡”を取った。
そっとしておこうという気持ち、
もう一度だけ会いたいという気持ち、
それが交互に入れ替わるこの一年間だった。
最後は後者がまさった。

「教えてもらった事調べたら、又貴女に電話してもいいかな?」
はい、いいです
何時も家に居ますから、何時でもいいですよ
取りあえず、次へつなげた(涙、涙。
事務連絡の返事は、前回同様42年でも待つ覚悟だったから、
これは世界同時革命に匹敵する革命的展開なのだ!

生きてるうちで良かった。





■2010.04.04  morning  管理人

イエスは言われた
わたしは復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる』」
(新約聖書 ヨハネによる福音書11章25節)

今日は復活祭。
今から勇んで、
過激な牧師様の教会へ出掛けるのだ。

神様、お願い!
神様、助けて!
なのだ。




■2010.04.03  night  管理人

つくづく進歩が無い、
添削を重ねる事一週間、
当ホームページを立ち上げるより難渋した。

それから、出すのにもかれこれ一週間迷った。
これも42年前と変わらない。
前回は、出すのに一週間迷って、返事は42年も待っている訳だか、
今回は、これから42年待つと私は百歳を超えてしまう。

歳月を重ねると、
頭髪と記憶は薄くなるが、思いは濃くなる、
これは一般的法則だ。
しかし、濃くなった思いで書く文は、
なぜ、限りなく”事務連絡文”調になるのだろうか。
これも一般的法則だろうか?


Do you know ?
Do you know how much I love you ?
Do you know ?
How much I care ?

This is how,this is how you make me feel inside
Now you know my story, I have nothing to hide

In your arms life is beautiful in every way
In your arms that's where I always want to stay

In your arms life is beautiful in every way
In your arms that's where I always want to stay

Now you're heard my story, I have nothing to hide
Now you know my story, I have nothing to hide





■2010.03.27  night 管理人

恐る恐る事務室の戸を開けた。
若い女性の事務員さんと目が合った。
「あの・・・、こちらで同窓会名簿を分けて頂けるのでしょうか?」
「最近、新しいのが発刊されたとホームページで見たのですが」
事務員さんの返答は、
「当校のOBの方でしょうか?」

きっちり、申込書に住所、氏名、卒業年度を記入させられた。
書類と同窓会名簿とを見比べている。
なかなか私の名前が見当たらなさそう、
「え〜と、昭和42年度卒業じゃなくて、昭和42年3月の卒業でしょうか?」
「え〜と、多分そうだと思いますが」
そんなやり取りの後、やっと私の名前を探し出してくれた。

「少し、校舎内を見学させて貰ってもいいでしょうか?」
「記念に写真も撮らさせて貰っていいですか?」
「生徒さんは撮りませんから」
OBでもあり、それに大そう高価な同窓会名簿も購入したのだから、私はお客様なのだ。
それくらいの権利はあると思うのでお願いした。


(校舎は昭和6年(1931)落成、だから80歳になる、空襲の焦土のなか、この校舎だけがポツンと建っていたそうだ

あれから40数年経っているのに、校舎も、教室も、廊下も、校庭も、少しも変わっていなかった。
クラスの並びまで同じ。
「こんにちわ」
廊下を歩いていると、すれ違う生徒が必ず挨拶する、
私等の頃と違ってなかなか躾が良いではないか。
違っていたのは教室にエアコンが、それは私等の頃には無かった。


廊下に出て文科のクラスの方を眺めた。
たった3クラスの距離が、
私には永遠に遠かったのだ。






■2010.03.26  night 管理人

今日、職権で出掛け撮った母校の実写(笑。










■2010.03.22  morningU  管理人

丁度、去年の今頃、母校(高校)に所用があり立ち入る機会が有った。
悔しかったのはデジカメを持参していなかったこと。
それが幸運な事に、今年も同じ用事があり母校を訪れる予定が入った。
幸運とは意識して呼び寄せるもの、
その心は・・・・、
強引に職権で用事を作ったのだ(笑。

事前に母校のHPで調査を。
なになに、クラスは一学年7クラス編成、どおりで8ホームは実験室に変身していたのか。
同窓会名簿は平成14年に改訂版が発行され、次の改訂発行は平成19年を予定・・・・、
ちゅう事は昨年に最新版が出ているという事か。
何、大学進学実績は・・・・・、
なんちゅうこっちゃ!、私等の頃とはレベルが違うではないか、アッパレ・アッパレ!

 これの実写版を撮ってくるのだ!

と・・・・・・・、
いろいろ事前調査をしているのだが、
私が企てているのは、たった一つ。
3年7ホームでの私の位置、教壇のまん前の席に座り写真を撮ること。
そして廊下から、あの子のクラスの方の写真を撮ること。
なんちゅう、シンプルな企てなのだ。






■2010.03.20  night 管理人

「エッ・・・、それ持って歩いてきたんですか?」
「捕まりませんか、そんなの提げてて?」
夕方の平和集会にと、自宅から旗ポールを出勤の際に職場に持参した。
目立つかなとは思ったが、同僚からは目立つ以上のリアクションだった。

「捕まる訳ないでしょう、こんなもので!」と、
笑って反論したが・・・・、
よく考えてみれば、私にはそうも言えない経験がある。
丁度同じぐらいの長さの材木を持ってて、かつて捕まった経験があるから。


デモの解散場所、立ち話をしていて気が付いたら長老と姉御と私の三人だけになっていた。
近くの喫茶店で一息。
準備を進めている沖縄の取り組みの簡単な打ち合わせのあと、長老が「黄昏流星群」クラブの話を切り出した。
私は勝手に長老に同クラブの顧問をお願いしている(笑。

「サロンのNさんに依頼した例の件、ちゃんとキャンセルしているんですか?」
「アッァァ・・、そう云えば頼み放っしのそのまま」
「済みませんでした、今度会ったらキチンとしますので」
以前、あの子の消息探しをNさんに頼んでいた、昨年の11月8日の事だ。
その後、その件は2月中旬に長老の尽力で僅か4日でカタが付いた。

この件では、長老には物品では返せない恩義がある。
寄せて頂いた情報で、その後私が如何なる展開を行うか、報告する義務があると思うのだ。
「実は、**中学3年3組の同窓会をやろうと思っています」
「53人居た中三クラスで、音信が付くのはあの子を入れて3名だけ」
「他に、電話帳で男子8名の見当がついています」

この方針転換は決して日和見ではない。
「黄昏流星群」クラブで詰めに詰めた運動方針なのだ。
これは、黄昏族の”思い”の革命的昇華なのだ(ナンノコッチャ)

  my favorite songs  遠藤賢司 夢よ叫べ






■2010.03.08  morning  管理人

何時もどおり、喫茶店で2時間ほど。
ミヨちゃんは頻繁に帰ってきているから、今更に積もる話も無いのだが、
彼女は首都圏の同窓生の情報にやたらと詳しい。
彼女が特にそうなのか、それとも女性の特性なのか、
これほどに、まめに情報交換するのはやはり女性の特性ではないかと思う。
男ではこうはいかないだろう。

昨年、高校時代に仲の良かった同級生♂の所在をミヨちゃんから教えてもらった。
東京に数少ない同郷、同窓の友だったから、大学一年の頃は桜上水の私の下宿や都内で頻繁に会っていた。
別に仲違いした訳ではないが、日大闘争の勃発以降プッツリと付き合いが途絶えていたので、再会すれば40年振りになる。
昨年、上京の際に何度か連絡を取ったが、その度に都合が会わずに再会を果たせていない。

 雨に打たれ花弁が閉じたままだが、非常に珍しい野草花らしい

「**くん、それは多分・・・・・・」
云い難くそうに続けた・・・・、
「丁度そのころ、彼は離婚したみたいよ・・・・・」
「永年、彼は単身赴任していて、定年でやっと家に戻ると居場所が無いって、以前の同窓会で愚痴こぼしていたし」
「**くんと会う気持ちの余裕、無かったんじゃないかと思うわ」
何度か連絡を取る都度に、都合が合わないと詫びる相手に、私も何か有るのかなと感じはしていたが。

還暦を越して、皆々が順調とは限らない。
健康、家族、経済の三つがそれなりでなければ、こころ穏やかな人生とはならないのだろう。
ここ数年、再会を果たせた同窓生は、その中でも条件の恵まれた少数派なのかもしれない。
この友も、そして”あの子”も・・・・・・、
決して強引に事を進めてはいけないと思うし、
もしかしたら、一生会わないほうがいいのだろうか。

そうそう、昨日載せた山野草は「梅花黄蓮」という花らしい。





■2010.03.06  night  管理人

この歌を聞くと、心が痛い。
'69年2月の初めだった、未明にバリケードを出た。
機動隊導入の情報が入り、学科の皆でどうするか話した。
もう徹底抗戦する気力はなかった。
その日私の学科は4〜5人、理闘委全員で50人も居なかったように憶えている。

皆、無言で駿河台の坂を下って、中央大学の学館に向かった。
真っ暗な学館の2階か3階の部屋に入った。
凍てつく部屋、寒さに震えて夜明けまでフトンにもぐりこんだ。
その日から、私等はバリケードの無い無宿者になった。

'68年9月、パクられた日、
'69年2月、凍てつく夜、
この二つの心象風景は、なぜかハッキリ憶えている。

この歌の発売は'69年2月とある。
Yくん酒を飲むと、いつもこの歌で涙を流しいてたのもハッキリ憶えている。



カルメン・マキ あなたが欲しい





■2010.02.26  morning 管理人

両親は二人とも77歳で逝った、
兄は55歳だった。
兄さんよりも、もう7年近くも長生きしたことになる。
だから、私の人生、残りは10年とちょっと思っている。
それだけ生きられれば十分だ、
百歳までなどと、贅沢は言わない。

残りの人生、贅沢しなければお金はそこそこ大丈夫だと思う。
時間は、仕事を辞めれば十分過ぎるほどある。
唯一心配なのは健康だが、今のところはまあまあでいっている。

ところで、
長老さんに教わったものを探しに行っていた。
昨夜、この歳になってはじめてコミック本書店に入った。
3巻程買って帰りのJRで一気に読んだ。
なるほどと思った。

云われるように私の自虐史、コミックのストーリーのアウトラインだけは辿っている。
ただ、エンディングはこのコミックのようには行かないだろうと思う。
コミックは、願望を自分とダブらせ、手軽に一時の夢を見せてもらうわけだ。
しかし、私は40数年、めげずにず〜っとこの夢を見続けてきた。
それだけで云うなら、エンディングは別として「黄昏流星群」のおとぎ話には負けていないわけだ(笑。

心から、”あの子”の健康を祈っている。




■2010.02.18  night 管理人

正直、分かって欲しいという気持ちと、分からなくてもいいという気持ちが半々だった。
探している経過に、青春の余韻を楽しんでいたのかも。
無残な結果だったが、思いっきり一点突破を試みたのは、確か一昨年の11月だった、
その時、僅かに残っていた最後の馬力を使い果たしてしまったのかも。
アーモンドチョコを頬張りながら、心底、次の一手に窮している。
こういうのを日和見主義というのだ。

朝、パソコンを開けてみるとニューヨークからメールが入っていた。
何故ニューヨークからというと、発信人がニューヨークからですと記していたから、IPを見てみるとなんとなくそれっぽい。
映画「ANPO」の製作に関わっていると自己紹介されている。
「参考にサイトを見てください」とのコメントあり、見に行ったが当然アルファベットのみ(泣。

しかし、メールといっても掲示板への書き込み。
少し内容に事情があって、その投稿は承認していない。
仲間内の意見を聞いてから返答しようと思っている。





■2010.02.17  night 管理人

極度の心的負担は、一般的にはストレスというらしいが、
その事件の日、私は好物のアーモンドチョコを2箱買い求めた、
帰宅のバスの中、ボーっと車窓から景色を眺めながら一個ずつ口に含む、
溶けるチョコを味わいながらアーモンドをカリっと噛み砕く、
気が付いたら2箱とも食べ尽していた。
これは過度の心的負担による過食症の症例かもしれない(笑。

以前、”あるお方”から、
「もしかしたら、その件は知り合いに頼めば分かるかもしれませんよ」
「できれば、今のが分かればね」
そんなような有り難いお声を掛けて頂いていた。

物事が展開する時は一気呵成に行くことがよくある。
同じ頃、同窓生の女の子(還暦+1だが)からある情報を聞き出した。
このために、その日は午前様まで飲めぬ酒を飲みながら頑張ったわけだ。
早速、”あるお方”にその情報を伝えたのは言うまでも無い。

ネット書店から本が届きました

「**さん、分かりましたよ!」
僅かな望みを託していた”あるお方”から、回答が届いたのはその僅か4日後。
当該案件は既に40数年を経ているし、私としてはそれに数ヶ月、否、数年を要しても遅いとは思わない人生上の「課題」だと思っていた。
回答には淡々と「住所」、「電話番号」が記してある。
当然だが、余りの展開の速さに動揺しまくった。
その動揺は弱まることなく今も続いている。
次の展開が思い浮かばす、今もって、チョコレートがドンドンと”消費”されている訳だ。

「調べてくれた知人は『黄昏流星群』の愛読者だそうです」
”あるお方”の回答メールにはそうも綴られている。
かつて私等の人生が劇画漫画のようだったと云われれば否定はしないが、
あの手の漫画のストーリーは、甘く、切なく、美化されている、
現実は、そうそう漫画とは違うと思う。





■2010.02.11  night 管理人

今日は休日でしか出来ない、外せない仕事があり午前中出勤していた。
昨夜は家に帰りついたら日付が変わっていた。
同窓生と飲む酒は無条件に楽しい、だから悪酔いはしないが、体が・・・・・・。
そう云う訳で、今朝は休日の妻に職場まで送ってもらった。

昨夜は、初めて親しく話した同窓生がいた。
今まで何度か席を同じくしているが、高校三年間一度もクラスが同じでなかったので今まで話す機会がなかった。
結構な会社の社長さんで、地元の新聞やテレビにはよく顔を出している。
そんなこんなで、一瞬、卑屈にも「さん」付けで呼びそうになったが・・・・、
同窓生の集まりだから、グッッと踏ん張って「くん」付けにした(笑。

「お前さんとは中学一緒のはずだよ!」
意外なことに彼は私の事は覚えており、そう云われた、
更に談笑していると、中三はクラスも隣同士だったという事が分かった。
更に更に驚いたのは、私のクラスの女の子が奥さんだと云う。

ちゅ・・・・・う事は、
”あの子”、彼の奥さん、そして私は、中三のクラスメートだったということになる。
「誰だよ!、名前を教えろよ」
かなり執拗に彼に迫ったが、笑って教えてくれなかった。
その内、突き止めてやるつもりだ。

そう云う訳で、
一晩で、一気に、色々と伝手は出来たのだが、
それ以上の進展は、そう簡単そうではないのだ。
寝不足で重たい頭を抱えている。






■2010.02.11  morning 管理人

「オ〜イ、どうしている、忘れているのか?」
雨降る帰路、早めに駅についたので、ベンチで寛いでいた。
携帯のバイブがブルブルと振動する。
「アッ・・・、そうだった後免!」
すっかり忘れていた、昨夜は飲み会を約束していた。

1ケ月程前、首都圏の同窓生が帰郷してくるので一杯やろうと案内を受けていた。
同期の友人は、某有名私大の学長先生様だ。
駅から、雨の中を引返し、居酒屋に急いだ。
10名ほど、珍しく女の子(還暦+1だが)もいる、
既に盛り上がっている、負けじと駆けつけ三杯。

実は、その後の二次会で大きな成果があった。
約1名の女の子は文科のクラスだった。
「文科のクラスだったんだね、**さんの消息知らない?」
「**さんは私と中学からの同窓生、会いたいんだけど」
カラオケの騒音の中、尋ねてみた。

「**さん・・・・、確か二年の時同じクラスだったわ」
「何処に住んでるかは知らないけど、確か県内のはずよ」
その後話してくれた”あの子”の近況は、ここには書かない。
「フ〜ン、そうだったの!」
「それで、**さんの今の姓知ってます?」
「知ってたら教えて欲しいんだけど」
「ちょっと待って、忘れたらいけないから、俺メモするから」

”あの子”の姓を知るのに40年掛かった訳だ。






■2009.11.10  night  管理人

このパースは中央階段を間に西から東を眺めたもの。
休み時間、この廊下に出てビートルズの話をしたりふざけたり。
「リボルバー」が発売された頃。
家では妹が武道館コンサートのチケットに当たり、行くの行かないので大モメしてた頃。


休み時間、この廊下によく出て立った。
目線はいっつもこの絵の奥の方。
運が良ければ、廊下に出ている”あの子”を見かけることもあった。

私のクラス−(マイナス)あの子のクラス=3
先日飲んだ女の子−(マイナス)彼女の好きだったNくんのクラス=3
そうなんだ、同じなんだ。
あの頃は、教室3つ分しか離れていなかったんだ。

それから一年も経たないうちに、
離れ離れになって二度と会えなくなるなんて、
その頃は思いもしなかった。
そうなんです、女の子と私は境遇が同じなんです。
なんて可哀そうなんだろう、オヨヨ・・・。






■2009.11.08  night  管理人

「じゃ〜、**さんのおごりとということで、これよろしくね」
長老の一声で、皆が異議なしと反応。
週末のサロン、ある話題をきっかけに私の前に皆の飲み物伝票が一気に積みあがった。
伝票の山を見上げて、冷汗がタラ〜リ。

「ところで**さん、あの子のことはそれ以後どうなっていますか?」
学芸部長のNさんと話しているとき、長老が”あの子”の話題で突っ込んできた。
長老はここを時折チェックに来ているらしい。
「いや〜、やっぱり同じ、所在不明のままです」

私が”あの子”を殊更に思い出したのは、何も最近ではない。
ボロボロになって東京を引き上げてきた頃も、気にはなっていた。
気にはなっていたが、当時は精神状態が尋常ではなかった。
あの子に会いたいというより、社会全体と付き合いたくなかったのが本当のところだった。
しかし、ドアの前で躊躇してから3〜4年しか経っていない、その後のあの子の事は風のたよりで伝わってきていた。

 階段、分かる人しか分からない絵です

学芸部長のNさんと話をしていて、突然思いついた。
「Nさん、確か**銀行にお勤めですよね」
「そうですが、それが何か?」
「そうなんですよ、そうなんだ、何で今まで気が付かなかったのだろう?」
確か、あの子はNさんと同じ銀行に就職したと聞いていた、
「結婚して退職しているはずなんですけど、40年前に入った女子行員の事調べることできますよね」

「旧姓でなく今の姓が分からないのですか?」
「それなら調べやすいのですが」
「済みません、それが分からないのですが」
「そこのところを、何とか、どうぞ、どうぞよろしく願います」

名刺の裏に旧姓を書き、Nさんに手渡すと同時に、皆の伝票が私の前に集まってきた訳だ。
興信所に頼むと1件の調査で手付金がウン十万と掛かると云う。
そう考えれば伝票の5枚や10枚安いものだと思わなければいけないのだが、
皆の伝票とそれとは少し筋が違うと思うのだ。

しかし勢いとは恐ろしいものだ、
押しに押されて、
「それは・・・、何と云いますか、そこのところは”成功報酬”と云うところで」
しどろもどろの対応となってしまった。
この焦りが、
その後の「普天間基地突入ツアー」の跳ね上がり発言つ続くのだ。




■2009.11.05  night  管理人

ところで、
”あの子”でない女の子ことはさておいて。
折角、情報の交差点、同窓会学年幹事をお招きしたのだから、私の”あの子”の事にさりげなく探りを入れた。
しかし根が軟弱・日和見、
胸を張って「俺が好きだったあの子」と云えないのが情けない限り。
男の子はナイーブで、女の子はドライなのだ。

「エ〜ト、**さんね」
持ってきた名簿を見ながら、
「前にも君から問い合わせが有った通り、行方不明扱いだよ」
「去年の同窓会は、病気で出席できないとの話を伝え聞いているけど」
「それ以上は分からない」
「・・・・・・・・・・・・・・」

「彼女は何処に住んでいるか分かる?」
「県外、此方には住んでいないと思うよ」
さりげなくを装っているのでそれ以上は聞けなかった、
幹事もそれ以上の情報は持ち合わせていないようだった。

「アッッ・・・、N君が写っている」
幹事は平成2年に開かれた同窓会の記念写真を持ってきてくれていた。
”告白”してくれた女の子が食い入るように見ている。
100人近くが写っていた。
私も食い入るように探したが、”あの子”は写っていなかった。

悔しいのだ。
それにしても写真に写っているサッカー部のN、男の私が見ても格好良い。
ガタイはいいし、顔つきも精悍だ。
これなら40数年前、告白していたとしても女の子は競争相手が多かったはずだ。
やっぱ、思いは果たせず持ち続ける方が幸せだ。
その方がいいのだ。
そう思っておこう。




■2009.11.04  nightV  管理人

「もう〜、**くん、私のこと書かないでね」
「旦那様や友達に、冷やかされるじゃないの・・・本当にもう!」
昼休み、もう直ぐ東京に帰るミヨちゃんが訪ねてきていた。
飲み会で約束したジブリの”あのアニメ”をあげると約束していた。


「残念、もう書いたよ!」
「でも、今回はミヨちゃん主人公じゃないから、気にしないで」

「気にしないって言ったて、ホント私からかわれるんだから」
職場の隣の喫茶室、抗議もものともせずコーヒーしながら開き直ってやった。
でも、ミヨちゃん、目は笑っていたから、大丈夫なのだ。
しかし・・・・、私のこの日記
東京の「女の子」の間で何処まで拡がっているのだろう。
これは少し ヤ・バ・イ、、、、、、(汗。

注釈 還暦+1歳





■2009.11.04  morning  管理人

火曜日の休日、近畿の同窓生に関東同期会の件を電話した。
昨年6月の学年同窓会の折、其の彼から頼まれていた。
「今度同窓会がある折には、地元でも東京でもいいから連絡してよ」
「東京なら新幹線で一飛び、日帰りだって可能だから」
「俺は関西在住、同窓会の案内が来た事がないから」
「俺は転校生だったから、皆から忘れられているから」

昨年の同窓会、彼との再会は42年ぶりだった、かつては運動会の夜に酒を酌み交わし、下級生へのストーカーに付き合った悪友だ。
彼は2年の新学期に転校してきた。
担任から彼の紹介があった折り、クラスがどよめいた。
転校元の高校は、その県では名実ともNo1の進学校だったから。
秀才だが、ひょうきんな性格、誰ともすぐ仲良しになった。

昨年交換した電話番号に電話を入れた。
奥さんが電話に出た。
「もしもし、高校の同窓生の**と申しますが、**さんはいらっしゃいますか?」
一瞬間を置いて、
「ああ・・・、**さんですか、暫くお待ち下さい」
電話向うで呼んでいる声が受話器に入ってくる。

「俺は知っているよ、中頃にあるんだろう、お前さんの日記読んでいるから」
「今回は丁度、都合が合わずに行けないが、知らせてくれて有難う」
「次の機会には必ず行くから」
関東同期会の詳細を伝えると、こう返事が返ってきた。
確か建築学科に進んだはず、建築士で未だ現役バリバリなのだろう。

それにしてもひとつ引っかかる事がある。
私は彼の奥さんとは一面識もない。
かつて彼が下級生の女の子を追っかけまわした時は付き合ってあげたが、
今の奥さんのことは全く知らない。
その奥さんが「ああ・・・、**さん」と応対してくれた。
私の事を知っている様だった。
やっぱ、彼に教えたこの日記かな?、と思う今日なのだ。





■2009.11.03  night  管理人

好きだったけど、何も言えなかった。
デートしたこともないし、手を握った事もない。
勿論、キスなんて論外。
思い続けるだけだったと、切々という。
「じゃ・・・・、今の旦那さんは?」
「どうそ一緒になって下さいって頭下げられたから、可哀そうだから」、一緒になったんだって。

前にはワイングラスが三個並んだ。
彼女は相当の飲んべえとミヨちゃんから聞いていたが、
一次会、地酒を三種類、ワイングラスに並々と注ぎ、それぞれ美味しいといって交互にグイグイやっている。
私がビールジョッキ2杯目に掛かった時、彼女は既にビール卒業してグラスワイン・・・・じゃなくてグラス地酒。
グラス地酒の彼女に、「聞きたい事が有るんですけど」と質問。

 時計台で、昭和41年10月1日の日付、命かけて屋上の手すりに立っています(笑。

酒宴が始まると同時に、関東組の彼女がハッキリと宣言した。
「私はサッカー部のN君が好きだった!」
グラスを持って、キリッとした目つきで、
「N君に会いたい!」
その言葉を聞いて、私まで胸が痛くなった。

「やっぱ、その子の事思うと今でも胸が痛みますか」
「私も、切なくなって胸が痛むのですが」
「男でも女でも、それは同じですよね」
「よかった、私と同じ人がいて」

結局、二次会お開きになったのは25時、
ミヨちゃんタクシーで送って、帰り着いたら26時近くだった。
片思いだった彼女と、片思いじゃないけど片思いだった私。
40数年たっても薄まらない思いは私だけでない。
男でも女でも、そう云う事なのだ。





■2009.11.03  morning  管理人

宴もたけなわの最中、札幌の悪友から携帯が。
飛んで火に入る夏の虫、早速小母様連から集中攻撃を受けている。
「**くん、**くんは来れないと云っているけど貴方はどうなの?」
「遣り残した”宿題”が有るんでしょう」
「ダメだよ、出てこなくちゃ」

悪友の昨夏の顛末は私が周り中に吹聴している。
友の40年前の恋路なんぞは、酒のつまみに最適なのだ。
悪いが小母様連の追及は私の比ではない、しばらく悪様に攻め続けられていた。
私に携帯が帰ってきたころには、向こうはゼイゼイ言っている。

 (ミヨちゃん除く)関東組二人と

「ところで何の用だ?」
悪友は私が”決起集会”をしてると知らずに電話してきている、用事が有るはずだ。
友、
「オイ、俺は”あの子”どころではないのだ」
「今、昔の同志が集まって謀議している・・・・・」
私、
「謀議・・・・・?」
「ついに蜂起か?」

友の話によると、
今年か来年か、何時かは確かめなかったが、11月22日に昔の仲間が再び結集しようということらしい。
北大全共闘再結集を目論む謀議だそうだ。
友、
「俺はな、今更で余り気乗りがしないのだが」
「でも、皆の熱気はすごいぞ」
私、
「そりゃ〜、絶対やんなきゃ、絶対な!」
「そうだ、お街の日大全共闘が田舎の北大全共闘に連帯の挨拶を贈るから、皆に言っておいてよ」
友、
「ヤカマシイ、田舎の全共闘で悪かったな」

私、
「**くん、其処に居るの?」
「居るなら話をしたいのだけれど」
**くんとは、大菩薩峠でドジを踏んだ元・北大医学生。
今は開業医の院長先生と聞いている。
「ああ、**なら居るけど、今はそれどころじゃないから、またな」
友には、札幌”蜂起”の話題で逃げ切られてしまった。

ところで、三人の小母さんに共通した発言があった。
今は還暦+1の小父さんの事を彼女らは「男の子」と表現するのだ。
「だからさ、サッカー部のあの男の子はね・・・・・」って具合だ。
私が「女の子」と呼んで今更と顰蹙を買った表現に、彼女らは全く躊躇が無い。

だから、
同世代の小父さん、小母さん達。
お互いが昔探しをする時には、
僕たち「男の子」、君たち「女の子」
それでいいのだ。






■2009.11.02  U

真面目に勤務していると、ミヨちゃんから連発で携帯メールが着信する。
私は職場では何時も生真面目、私用の着信音が鳴る事は滅多にない。
シンプルな着信音なのだが、立て続けに鳴るので隣の若い女性職員が笑っている。
「これ、高校時代の仲良し♀、でもカミさん公認だよ」
「ヘェ〜、そんなの有りなんですか?」
少しいぶかっている様だったので簡単な説明を加えた。

この連休、ミヨちゃんの他に二名、関東同期組が現在帰省中との事、勿論♀。
ミヨちゃん提唱で今夜一席盛り上がろうという事になり、会場の手配やらで次々と指示が飛んでくる。
メール三信目、二人の内の一人から私に要望が下りて来た。
「**君、知っていますか?」
「**君に会いたいので調べてください」

ちょっと待ってください!
昔のガールフレンド探しは私の専売特許のはず。
その私が、昔のボーイフレンド(と思う)を探してくださいとの要望を賜った訳だ。
「ウ〜ン、小母さんも負けてないな!」
「ここは、一肌脱がねば」

早速、情報通の同窓会学年幹事に電話を入れ、
その彼にも今晩の席に出てきてもらうことにした。
これで小父さん二人、小母さん三人の計五名となった。
だから今夜は、メインテーマが何時もの「孫や嫁」の話から逸れ、昔の♂♀フレンドの方に振れる可能性に期待が持てるのだ。
今夜は間違っても「闘争勝利」の話題には触れず、19の春より昔の事で一貫する(決意。

「昔探し」は私等世代の機微なる”文化”。
若い奴等には分かるまい。



■2009.10.28  night  管理人

会議が終わったので直帰した。
いつもより2便早い5時ちょっとの帰路列車。
当地のJRは電化されてなくディーゼルカー、だから電車とは云わない、"列車”なのだ。
下校の高校生で車内は溢れていた。

二駅目から母校の高校生が乗ってくる。
同じ高校生でも、後輩に当たる高校生を見ていると自分の高校時代を思い出す。
平穏無事だった高校時代、”あの子”の事以外は特段な出来事は何も無かった三年間。
平穏だが、しかし成績は下がる一方の三年間だった。

一年の時は、それなりに学年のトップクラスに居た(自慢!。
学校に行くのが楽しくて、勉強が楽しかった中三の後半に、勉強の”溜め”が出来た為。
ぜ〜んぶ”あの子”のお陰、
二年の時は、まだまだ一年の成績の”溜め”が僅かに残っていたから、「中の上」から「中の中」レベルに何とか止まっていた。
三年になると成績は急勾配、「下の上」から「下の中」まで下がり続けた。
つまり、”あの子”とうまくいかない時間の累積に比例して成績は下降した。
私は昔から、実に分かり易くシンプな人間なのだ。

そう云う事で、
親の期待は「国立一期校」から「国立二期校」に後退し、
期待は後退に後退を続け、最後は何処でも入ってくれればいいという諦めに変わっていた。
そういう意味では、私は実に物分かりのいい親に恵まれていた訳だ。

大学に入って二年目、
そんな物分かりの良い両親を”ある事”で嘆かせてしまった。
それでもっても、それから一年以上、せっせと仕送りを続けてくれた親。
最後は、云う事を聞かない馬鹿息子への仕送りストップを決断した親。
親としてどれほど辛い手段だったか、今なら分かる。

秋の夜、今更に落ち込んでいる。




■2009.10.27  morning  管理人

「時計台の写真出すと、バレますよ」と忠告を頂いた。
時計台のある高校ってのは一杯有るのかと思っていたが、そうでもなさそう。
検索してみて若干焦った。
もう、バレバレなのだ。
まあ、いろんなところで露出してしまっているのだから、今更なのだが。

云われて、検索してみて始めて知った事がある。
そういう事で・・・・・(笑)、昨日、ビデオレンタルショップに出かけていた。
画面には懐かしい”絵”が沢山出てきた。
泣きそうになった。


舞台は3年5ホームだが、ミヨちゃん、私等は7ホームだったよね、
”あの子”は4ホームだった。
”絵”は私の記憶と違わず忠実に描かれている。
この廊下の向うに”あの子”がいた。
ストーリーが、私の場合と違って”ハッピーエンド”だけが気に入らないが。



■2009.10.26  morning  管理人

「明日は代休貰うからな」、イベント終了時にきっちりと根回しは済ましてある。
金曜、ローカル国道往復7時間の出張、続いて土日のイベント動員。
はたまた疲れ果てて昨夜は午後8時過ぎにはベッドに、
歳が歳だから、幾らでも寝れる訳ではない。
そういう訳で、今朝は3時半起床、夜九時まで起きていたとしても17.5時間もある、長い一日になる(笑。

昨日のイベント会場で知人に会った。
私はイベント責任者の一人、会場を見回っていると顔見知りのお二人が話している。
お一人はイベント参加団体の理事長♀、もうお一人はアムネスティのKさん
お二人が知り合いだとは知らなかった。
嬉しくなって、私も見回りはそっちのけで歓談の輪に。

「**さん、先日連合組織の専務と飲んだでしょう」
「専務がよろしくと言ってましたよ」
理事長♀さんは連合組織の会で(青ヘル)専務と一緒になり、先日の私らの”集会”の報告を受けたという。
「Kさんもしかりで、悪い奴等は何処かで繋がっているのですね」
この場合、”悪い”という修飾は、私の最大級の褒め言葉。
時代に対し”いい子”であってはならない、これが今もって私の信条なのだ。

 母校のアルバムからパクリ、昼休み、時計台の下でフォークダンスの練習

ちなみに、私と同い年の理事長♀さん、
かつて高校時代には学校一のアイドルだったと知人から聞いたことがある。
小柄で目がクリッとしており、若いときの美貌がまだまだ充分に残っていてチャーミングだ。
同い年で狭いローカルだから、学校一のアイドルなら当時も知っていてもよさそうなのだが。
彼女の高校は当地でも有数の私立の進学校、
返して私は、どうでもいい歴史と伝統だけは一番の公立校。
この二校の間には厳しい線引きと格差が有ったのだ(泣。

でも、かつて学校一のアイドルというが、
私には”あの子”の方が上だ。
きっときっと、この理事長のようにチャーミングで、いい歳をとっていると信じよう。





■2009.10.24 night 管理人

「悪いなあ、ずっと運転させて」
取り合えず愛想で声を掛けるが、同僚は全く平気だと云う。
ひたすら7時間程、私は助手席なのだが疲れ果てた。
疲れ果てて昨日は終わった。

卒業アルバムを眺めていた。
中学と高校のアルバム。
小学6年の三学期、2月1日に転校した、最悪だった。
だから、小学校は卒業アルバムもクラス写真もない。
大学の卒業アルバムは、別の訳が有ってない(笑。
もともと、大学に卒業アルバムちゅうもんがあるかどうか知らないが。

 母校のアルバムからパクリです

その2つしかないアルバムの両方に”あの子”は写っている。
そういう意味では中高一貫だ(笑。
出来れば大学まで一貫したかった。
中学三年生と、高校三年生の”あの子”を食い入るようにず〜っと眺めている。
そうやって秋の夜が更けていく。




■2009.10.22 night 管理人

明日はローカル国道で片道3時間半、往復で7時間要する地まで出張。
目的は2時間の会議だが、正規の就業時間の殆どが移動で終わることになる。
明けて土曜日はイベント準備で半日拘束。
日曜日はイベント本番で終日拘束。
ニャロ〜、月曜日は代休で絶対休むのだ!

11月半ばの、品川で開かれる高校関東同期会から招待を受けている。
出欠で迷っていら、札幌の悪友から電話が入った。
「俺(悪友)は、お前(私)が行くという前提で、行くことにしているが、どうなのだ?」
「俺(私)は決めかねている、此処のところ立て続けに上京しているからな」
「俺(悪友)は昨年やり残した宿題があるから、行かねばと思っているのだが・・・・」
「お前さん(悪友)は”課題”が有っていいけど、俺(私)には特段に行く理由がないからな」
お互い結論の出ないやり取りに終始した。

昨年夏、首都圏の高校同窓生がセットしてくれたミニ同窓会が品川であった。
その同窓会で、悪友に、悪友の”あの子”との再会を悪戯心でセットしてやった。
40数年振りに顔を合した二人は、一瞬顔色が変わったが、その後はお互い素知らぬ振りに終始した。
御蔭で、私は悪友の”あの子”のお相手に大きく時間を割いてしまった。
悪友の”あの子”以外にも、40数年振りに会う女の子達(還暦だが)が居たがゆっくり話せなかった。

そう云う事で、
悪友の”あの子”が今回も同期会に出席するのかどうか、ミヨちゃんに調べて貰った。
「**くん、**さんは用が有って今回は欠席すると云ってるよ」
昨日、ミヨちゃんから返事のメールが届いた。
ザマァ〜見ろだ!
人の幸せは面白くないのだ(笑。

17〜8才の思春期の頃、女の子は好きだが、内気で純情で苦手だった。
でも、この40年で面の皮は厚くなり、心臓に毛が生えたのだろう。
同期の彼女ら(還暦+1だが)多勢を相手に、一人で何の躊躇もないほど進化している。
そう云う事で、悪友の”あの子”が出席するなら、悪戯心で出席するのも面白いかなと思っていたが。
悪友の宿題=ドタバタが見れないなら・・・・、参加意欲が大きく萎えている。

人のかつての・・・・、大昔の恋路でも、胸がキュンとなる、
それなりにそこだけは、今でも純情なのだ。






■2009.06.21  morning  管理人

帰路の便は15:00、品川からは
20分ちょっとだから、
ミヨちゃんと昼食をしようと約束していた。
決して密会ではない(笑、
敵はミヨちゃんも含め合計300歳オーバーの軍団。
全員が揃うまでホテルのレストランでお喋りすることにしていた。

最初に来たのはやはりミヨちゃん、
先日の旅行の話から始まった。
豚インフルエンザでキャンセルが多かった事、
そのため、イタリアからのチャーターバスがゆっくり出来たこと。
同行の友人の一人が大酒飲みで、朝からワイン三昧だった事、
ユーロとクーナ(クロアチア通貨)のレートの事、
クロアチア旅行の話題がたっぷり1時間ほど。
最後は、「次はどこに行こうかな・・・・」

次に現れたのは旧姓Yさん、
「やあ、お久しぶり、お元気ですか」
Yさんとは昨年8月に会ってるから丁度一年ぶり。
「なに、**くん、年金の手続き未だしていないの」
「駄目だよ、早くしなくちゃ」
年金受給の講義をみっちり1時間ほど賜った。

合計300歳オーバーの軍団との昼食会自体も楽しみに居ていたが、
私にはそれとは別に一つだけ目論見が。
事前に連絡のあった名前の中に、一人だけ文系の子がいた。
あの子とクラスは違えていたが、
3年間でクラスが一緒だった可能性も否めない、
貴重な文系クラスのネットワークの端をつかめるかもしれないのだ。


臼井さん、「二十歳の原点」からシリーズをスタートさせました(泣。

夕方帰宅すると、妻が新聞を差し出した。
「貴方、連載がはじまりましたね」
朝日新聞の連載記事「ニッポン人脈記」
臼井敏男さんのシリーズ「反逆の時を生きて」。

社の論説副主幹の臼井さんとは昨年11月にお会いする機会があった。
一ツ橋の写真展に訪ねてこられた。
文理のO先輩、JUNさんと三人で色々お話をした。
「最後の仕事で人脈記という連載を予定している」、
「時と場所を定めてきちんと取材させてほしい」
臼井さんの話はそういう事だった。

「ご遠慮せずこちらにどうぞ」
四人で話をしている場に山川さんが丁度来られたので、話の輪に。
山川さんは遠慮されたが、
「臼井さんは山川さんの後輩ですよ」
「山川さん、臼井さんの大先輩だから遠慮する必要無いですよ!」
序列の厳しい「日大方式」で強引に話の輪に引っ張り込んだ。





■2009.05.14 night   管理人

黄昏ワルツ、
Jさんが痛く気に入ってくれたようで、幾つかコメントを頂きました。
帰路、プラットホームにたたずんでいると、
丁度今の時期、空が茜色から漆黒に変わっていきます。
宵闇迫る黄昏時のひと時が好きなのです。

昨日、帰路を急いでいると高校の同窓生とバッタリ出会いました。
昨年6月、四十数年ぶりの大同窓会で顔を合わせて以来です。
友、
「おう、俺は年金貰い始めたぞ、お前さんは未だか?」
私、
「とりあえず、未だ働いているからね」
「また、飲みたいね!」
「誰か帰ってきたら、また声を掛けるよ」

 ペン先で数えたら、先生、現役校長除いて135名、生きていました。

昨年の大同窓会は、
漆黒直前の”茜色”だったんでしょうか?、
もう、後は・・・・・・・・・・・?
また、皆と会いたくなっています、
黄昏世代は黄昏ているのです。



■2009.04.25  night    管理人


 
my favorite songsをストップしておいて、スタートです

久しぶりにYouTubeのリンク

ラッパさんの映像の後ろに・・・・、
気になる「映像」がありました。
21歳の頃の目が・・・、
似ているのですよ、あの子に。

「振り返ってみて、青春は何時でしたか?」
「・・・・・・・、」
「う〜ん、今です」

あの子に似ているその女性もそう云っていました。
談合はしていませんよね(笑、
やらせでないとすると、
これはどういうことなのでしょうか?

余りに格好がよ過ぎますので、
昭和の泣き節を貼っておきます。
泣きそうです。



■2009.03.27  night    管理人

「確か・・・、3階の西側の端っこから一つ目」
所用が有って40数年振りに母校に入る機会があった。
校舎の角道、桜の花が風に揺れていた
用事の合間を縫って、三階に上った。
窓の外からは野球部の練習の声が響いてくる。
一年は一階、二年は二階、三年の時は三階だった。

教壇の真ん前の机に座ってみた。
正確に云うと43年前の二学期、私の机はこの位置だった
午前中、授業をさぼり抜け出し、休んでいた級友の家を訪ねた。
そこでお母さんにブランデーたっぷりの紅茶を勧められ、午後からまた授業に戻った。
確か佐野先生の英語の授業だったけ。
教壇の真ん前、酒で真っ赤になった顔を教科書で必死に隠した思い出がある。

ミヨちゃん、
僕等の教室は、昔と変わらず「3ー7」のプレートだったよ。
隣の8ホームは物理の実験室になっていたよ。

教室は43年経っても昔のまんまだった。
あの子は文科の2ホーム、廊下に出て昔のようにじっと眺めてみた。
涙が出てきた。



■2009.02.11  morning  管理人

今日は2月11日だが、
まあその話はさて置いて、この菓子は美味。
妻のネットでの”お取り寄せ”、止まるところをしらない。
次から次に、全国の銘菓が届く。
これでは毎夜の私のウォーキングも台無しに。



昨夜、札幌の友から所用のメールが。
時候の挨拶の次に
「”あの子”の事の踏ん切りはついたか?」
「余りひきずるのは良くない・・・」、云々!

友にこう返信した
去年の11月17日
数十年前、ある席で偶然にも席を隣にした同窓生の女性から、
「その方だったら**洋子さん、確か**高校の西側辺りに住んでいるはず」というガセネタを信じて、
ふとしたことで分かったその宅の呼び鈴を押した。
呼び鈴を押すに至るまでの躊躇、決断は私にとって「人生ここ一番」ほどのもの。


1968年8月、彼女の自宅のドアを叩けなかった事が未だに一生の後悔で引きずっていたから。
しかし結果は大外れ、同じ高校、同じ学年、同じクラスだったが”洋子”違い、
まあここまでデータが相似していればその同窓生が間違ったのも責められないが。
そう云う事で結果は伴わなかったが、40年前、日和見ったことの後悔は、大半は払しょくできた訳だ。
しかし・・・40数年も引っ張って、彼女の今の姓も、誕生日も、その他の事も全く知らないとは情けない。
今更どうのこうの云うのではないが、例えお互い老いさらばえていても、もう一度会ってみたという思いは変わっていない

友の親切心はアダになる。
改めてそういわれると、微かな残り火にまたまた勢いがつきそうになるではないか。



■2008.12.17  morning  管理人

そうです、Jさん。
この曲には思い入れがあるのです。
宵闇迫る校庭で、
校舎屋上の時計台の下で、
遠い遠い昔、この曲が流れていました。


でもそれ以上は書きません。
先日、それは書かないと、
当分書かないと書いたばかりだから、書かないのです。
本当は書きたいのだけれど。

そうそう、もう一曲、
ワシントン・スクエアーって曲も有りましたっけ。



■2008.12.09  night  管理人

今、辛い事が幾つか有る。
もうこの歳だから、誰でも幾つか有るのは当然だが。
その内の一つは、親しい仲間の皆さんも知っている事。
それとは別に幾つか有る。
その内の一つが、最近筆を止めていること。

確か先月22日には、藪さんにも話した”あの事”だ。
40年は余りにも長過ぎた。
もうほんの数年早ければよかった。
時間は元に戻せない、
だから、もう”あの事”は今後書かないと思う。

自分に言い聞かせるのに半月程かかった。
だから、
多分・・・・、書かないと思う。
取り合えず当分、書かないと思う。

涙声で、
闘争勝利なのだ!



■2008.11.28  night  管理人

そうかいそうかい、
皆で、私の”野のユリ”の如く清く正しい”ラヴストーリー”を馬鹿にするがいい。
今夜は仕事の付き合い酒が有ったのだけれど、少し早めに切り上げてサロンに急いだ。
今季首都圏街宣闘争について報告せねばとの思い、酔客で溢れる繁華街を突き抜けサロンに急いだ。

牧師様の開口一番、
「その後の”あの子”の顛末は?」。
私は街宣闘争の報告に出向いたのに、牧師様はあの子に関する一連の顛末を報告せよと迫る。
この日記で”青春の総括”をしようと思ったのが間違いだったのか。

でもね、牧師様が私にこう云った、
「実は私もね、中学の時好きだった女の子の事、未だに引きずってるんですよ」
ほら見ろ、同じだ。
そういう事だ、

邪心多き者も、聖職者も同じだ。
藪さん、鍋山さん、その他大勢の皆さ〜ん、
そ〜いう事なのです。
闘争勝利!



■2008.11.26  morningU 管理人

「私はね、奥さんに対し決して良くないと思うんですよ!」
23日夜渋谷、東大駒場・全共闘シンポの総括集会を総勢12名で決行。
シンポ総括の場のはずが、座った場所が悪かった、
気軽に話していた”あの子”の話題に対し、隣りの女性闘志2名の矛先が私に向けられた。
この追及に、しどろもどろの弁解。


「いや〜、せっせと40年前の思いを掘り起こしていたらね、ツルハシに全共闘の鉱脈でなく別の鉱脈がカツンと当ったんですよ」
「何だろうかなと思って掘り返したら、あの子の思い出」
「私にとっては、全共闘の思い出も、あの子の思い出も等しい重さ」
「カミさんと一緒になる前の話だから・・・・」

「でもね、それでも少々ヤリ過ぎだよね・・・」
つくづく思った、女性同志には半端な言い訳は通用しない。
やわら身を乗り出し、離れた席のTさんに
「Tさん、今日の演説最高だったよ」
「でもね、元赤軍派議長を一喝したんだから、後のこと私は知らないからね」
突っ込みを入れて話題を変えることしきり(汗。



■2008.11.20  morning  管理人

「その子は、同窓会では”行方不明扱い”になっているよ」
全共闘をもう40年も引っ張ってきた。
そういう意味では私はかなりしつこい。
めげずに、それではとこの6月にあった学年の同窓会の代表幹事に電話した。

「ああ、**君ね、君のことよく知ってるよ」
私の名前とクラスを告げると、幹事さんはこう云う。
私は彼のこと、よく知らないのだが、
向うは一体私の何を知っているのか非常に引っかかったが、この際それは脇において更に色々と尋ねた。
有り難い返事が返ってきた。

「でもね、仲の良かった子を知ってるよ、今連絡先を教えるから」
教えていただいた連絡先は、これまたヨウコさん違いのヨウコさんの家から歩いて5分程のところ。
ブティックを経営しているらしい。
帰って卒業アルバムを見ると、
高校時代なら、声を掛けるのをためらいそうな綺麗なオシャレな子。
でも、この歳のせいで臆するものは遥か昔に飛んでいる。

とことん、やるだけやるのだ。
闘争勝利!



■2008.11.17  nightU 管理人

長い長い一日、やっと帰宅。

突入作戦決行は我ながら褒めてやりたいが、
予定通り、想定範囲内で落ち込んでいる。
読みのずさんさ、
想定通り落ち込む軟弱さ、
シーツ被って今夜は早々に寝る。



■2008.11.17  nightT  管理人

職場から歩いて10分程の所だから、時間休を貰って出かけた。
行くに10分、帰るに40分費やした。
この世には神も仏もないと思った。
牧師様に言わせると「それは神のお計らい、御意志です」となるのだろうか。

丁度40年前、1968年の夏、
日和見主義に流れた苦い経験がある。
そのために40年引っ張る事になった。
繰り返しは絶対嫌だとの気持ちが重い足を進めた。
再会は、中学校の同窓会の段取りというストリーも設定していた。

ドア越に「お帰り下さい」と言われる覚悟も少しはしてた。
大袈裟に言えば、バケツの水を被せられる覚悟も。
「ピンポーン」
「ハーイ」
ドアが開いた。

経年劣化からなのか、顔のイメージが全く違う。
私、「突然済みません、もしかして下のお名前は”ヨウコ”さんですか?」
「そうですが、どちら様で」
私、「あの〜、**ですが分かりませんか?」
「・・・・・・・・」
私、「**高校の卒業ですよね?」
「そうですが・・・・」
私、「失礼ですが、何年のお生まれですか?」
「昭和23年生まれですが」

取り合えず同い年で高校の同窓生であることは確認できた。
次の質問の返答で愕然としてしまった。
私、「中学校は○○中卒ですよね?」
「違いますよ、××中学ですよ」

魂が抜け、途中の公園へ、
缶コーヒーを買い、黄色の絨毯を眺めて30分程。
昔住んでた所に、同じ高校の同窓生で、下の名前も同じ。
笑いたくば笑え、
これから先の貴重な”偶然”も使い果たしてしまった。

「”その子”、貴方の初恋の人でしょう」
いずれにしても高校の同窓生である事は確か、ヨウコさん違いのヨウコさんとは玄関先で少し話した。
ヨウコさん違いのヨウコさん、あの子とクラスが一緒だった事もあるといった。
でも、今は全く知らないと云う。
嗅覚鋭い的確な突っ込みには、タラリ〜汗で否定はしたが、女性は侮れないと痛感。

振り出しに戻ったという事だ。
リカバリーには二日と二晩程掛かりそうだ。



■2008.11.16  morning  管理人

晩秋の柔らかい雨が降る。
洗濯物は昨日やっつけているし、庭仕事はあきらめパソコンに向かっている。
妻は仕事のイベントで早朝から出勤。
「何故、今日だけ雨なの・・・」恨めしそうに云いながら彼女は出掛けた。
昨日もその準備で終日出勤しているので、この間は私一人の休日に。

先日、ローザ姉御達の一笑に付された一件。
軟弱で揺れる心の内を誰かに聞いていただきと思って話したのだが。
この手の軟弱な話、女性相手はダメだと肝に銘じた。
今日は日曜日、教会のある日だから出掛けて牧師様に話そうかとも思ったが、
「その手の件は、教会の管轄外ですので」、と冷たく言われるのは必定なので止めた。

そうだ、恐妻連合の”藪さん”だ、
彼なら聞いてくれるかも知れないと思い、昨夜携帯電話を鳴らした。
「藪さん、11.22は来れるの」
無難な話題から入ったが、話の本筋はそうでない。
藪さんに経過と気持ちを切々と訴えた。

私、
「イヤ〜、総括は避けて、出来れば日和見主義で流そうかと・・・・」
直近に差し迫る連続闘争を控えて、ここは戦力・気力を温存しなければとの情勢分析。
布団被って長期間、落ち込む事態は避けなくては、
この件に関しては、戦術・戦略的にはこの日和見主義が正しいと思うのだが。

藪さんの返答、
「断固、闘争を組むべし」、
要は、丸太棒を抱えて敵正門に突入せよとの叱咤なのだ。
しかし待てよ、
私と藪さんの論争、
”代々木”とそうでない勢力との構図になっている(笑。

そうそう、首都決戦の荷物もそろそろ準備しなくては。
藪さん、そういう事で、それどころではないのだ。
ウ〜ン、代々木の言い訳かな。




■2008.11.14  night  管理人

ひょっとしてと思い、下の名前で再度尋ねてみた。
「ああ、**さんですね、そうですこのお家の方ですよ」
「綺麗な奥さんですよ」
「・・・・・・・、」

仕事の関係で非営利団体が運営している託老所を見学に行っていた。
その施設は閑静な住宅街の古民家を借り上げ、築80年と引率者は話してくれた。
「地震がきたら間違いなくアウトですね」と私が質問。
「行政の方は見て見ぬ振りですわ」
そんな和やかな話をしながら近くの駐車場に車を止めた。

近づくにつれて何となく気になることが有った。
路地を通り抜け託老所に近づいた。
かつて”あの子”の家があった住宅街の一角。
託老所はその家と路地を挟んでいた。

路地の向うには築10年ほどだろうか、洒落た洋風の家がある。
表札は以前も書いたが、勿論違う「姓」
「この路地の前の場所に、かつて私の中高の同級生が住んでいた家が有ったんですよ」
「つわ蕗の花が咲いて綺麗なお家ですね」
託老所の女性の管理者と談笑している際に、そんな話をした。

「そうですか、でも前のお家は最近奥さんが亡くなられていますよ」
「そうですか・・・・」
本人か別人かも分からないので淡々と話した。
「で・・・、亡くなられた方はお幾つ位でした」
「もうかなりのご高齢でしたが」
託老所だから、その辺の事情は詳しい。

「もしかして、このお家に60歳くらいの方は居ませんか?」
詳しそうなので念のため更に聞いてみた。
「そうですね、今の奥さんはそのくらいかな」
「もしかして・・・・・・」
この後のやり取りが冒頭に続く。

そんな、
何て事だ、
何でなのだ、
あのときも、そして今日も、
盛り上がっている時に限ってこうだ。
神様はオイラを弄んでいるのか、

だから・・・、そういう事だ。
闘争勝利なのだ(泣。



■2008.11.08  morning  管理人

「や〜、お久しぶり」
久しぶりに金曜のサロンへ、
一番乗りの定年リタイヤ一年生の先輩にお迎え頂いた。
私の後にローザ姉御、牧師様、長老連が続々と、昨夜はほぼフルメンバー。
「**さん、同窓会の準備は順調にいってますか?」
「いや〜、それが色々あってね」
和やかなやり取りが続いた。

「週末だから、食事に行きましょうよ」
1時間ほど談笑していると、携帯に着信が。
妻からのデートのお誘いコールが(笑。
「いや〜、悪いけどカミさんに拉致されてしまって、お先に失礼」
まだまだ盛り上がる前の時間帯にサロンを退出。


時計台の下でフォークダンスを踊っている。
宵闇が迫っている。
輪の中でキャンプファイヤーが赤く揺らめいている
小節毎に相手が変わっていくあれだ、オクラホマミキサーだったかワシントンスクエアーだったか。
次の相手の顔が、キャンプファイヤーに照らされて見えた。

”あの子”の顔だった(勿論40年前のだ)。
私の前に近づいてくる。
嬉しくて嬉しくて・・・・・・。
余り嬉しすぎて、
そこで目が覚めた。

何とか続きを見ようと再び入眠したが、
夢はそこでジ・エンド、続きはなかった。
もう、そういう歳だ、
見る夢は青春映画のように爽やかで切ない。

そう、そういう事だ、藪さん、
だから、心配ないのだ。



■2008.10.29  night  管理人

吐息の掛かるほど近くで、
得意の方程式を紐解く私の顔のそばで頷いていた”あの子”
そんな距離が気にならない15才だった。
卒業式で交換したサインアルバム、イニシャルの後に記された”一言”

たった、たった、”あの子”の一言で、
二人の距離は数メートルが限界に。
この距離が縮まらない三年間、
バリケードを境に二度と会えない距離に遠ざかりました。

あの夏、あの時、ドアを叩いていれば・・・・・。
不思議なものだ、
かつての興奮に似たものを感ずるほど、
バリケードに置き忘れてきた19の夏を思い出す。

・・・・・秋も深まってきましたね。
オヤジはセンチな事このうえなしです。



■2008.09.27  night  管理人

強くない酒をシコタマ飲み過ぎて風邪を引いています。
でも、ミヨちゃん、昨日のミニ同窓会でじゃないからね。
水曜日、出張先の仕事の付き合いで深酒、深夜徘徊とホテルのエアコンで喉を傷めたようです。
そう、私はデリケートなのです。

「もう・・・・、何日もブログを更新してないじゃないの」
心配されているのか、ハッパ掛けれているのか、
電話で話していてよく分からなかったけど。
でも、ミヨちゃんが怒らず読んでくれていることが分かって嬉しい。

「**くん、文系クラスに何人か友達いるから探してあげる」
昨日、ミニ同窓会に同席したクラスメートの女の子(やっぱ還暦だけど)に”あの子”のこと話した。
もうこの際、私には恥も外聞もないのだ。
今ある伝手と可能性なら、何でも使ってやろうと開き直っている。


それと、ミヨちゃん
この日記は”ブログ”じゃないからね、
どう違うかと云うと、
え〜と、
その〜〜〜〜(汗、
まあ、いいか。



■2008.09.16  night  管理人

職場を少し出遅れた。
「何時もの便には間に合わないな、少し散歩して次の便にしよう」
ぶつぶつ呟きながら職場を出た。
何時もは一つ先の駅まで足を伸ばしているのだが、今夕は我が家に近いほうの一つ手前の駅を目指した。

実は、
いつもの駅から10分ほど足を延ばしたところに、かつて”あの子”の家が有った。
一つ手前の駅までの道中に、あの子のかつての家があるのだ、
通勤バッグを肩にかけ、雨傘を小脇に、勿論i-podのBGM付きのウオーキング。
20分ほど歩くと、あの子の家が近づいてくる。

BGMはノラ・ジョーンズの Sleepless Night

Why did you go
Why did you go
don't you know
don't you know
I need you  ♪


切なくさせる曲だ。

微かに残る記憶の場所には大きな家が。
足を止めて確かめた表札は、違う姓。
あれは・・・40年も前だもの。
切ないストーカー。

一つ手前の駅、ホームを秋風が吹き抜けていく。



■2008.08.29  night  管理人

ミヨちゃんもミっちゃんも、もう直ぐウン十歳を迎えるとメールにあった。
期せずして私と誕生年と誕生月が一緒だった訳だ。
・・・・・しかしだ、
私は”あの子”の誕生日を知らない。
普通、思い焦がれた人だったら、誕生日ぐらい知ってるはずだが。

その子は9月1日、中学三年の二学期の始業式の日に転校してきた。
その日の席替えで、仲良く一緒の机に並ぶことになった。
これは飽くまで偶然だ。
転校してきたから当然友達がいない、私の方から積極的に話しかけた。

最初は全く意識しなかったし、いわゆる一目惚れとは違う。
でもそこはやはり・・・・、
次の日から毎日毎日学校へ行くのが楽しみになった。
正直に言えば、小学校から大学までの17年間(一年余計だが)で、その9月1日から卒業までの半年余りが一番楽しかった。
決してバリケードの中じゃないからな、みな御免。
だから、息子たちの質問に躊躇なく答えた。
「一番戻りたいのは15歳の頃」


ミヨちゃんから誕生日聞いた時、ハタと思った。
そう云えば、私は”あの子”の誕生日を知らない、
忘れたのではなく、知らない。
これはどういう事なのか、考え込んでいる。
やはり、いい加減で詰めの甘いのが私の性根なのだろうか。

”地域紛争”の危機も辞せず、挑発に乗って、
あの子の話は蒸し返し、繰り返し、今後も続くのだ。
これは革命的冒険主義でもあるのだ、
闘争勝利!

ミヨちゃん、誕生日おめでとう。

 


■2008.08.25  morning  管理人

ヘベレケを通り越し、したたかに酔った。
僅か1〜2時間の間に、ビール、ワイン、シャンパン、またビール。
ニコニコ、注がれるがままに飲んでいたら、腰の軸が外れそうほど酔っ払った。
でも、私が主役だから席を外すわけには行かない。



誰もが皆、平等に訪れる年に一度の誕生日。
私の場合は、丁度それが60回目だった訳だ。
「父さん、欲しいものがあったら言ってよ」
息子二人がそういう。

家もあるしな、
それにボロだけど車もある、
「カワイイお嫁さんと・・・・、それに孫だな」
そう応えたかったけど、息子達にプレッシャーになるので堪えた。
「ウ〜ン・・・、今欲しいものは別に無い、十分だ」

「父さん、昔に戻れるとしたら何時の頃に戻りたいと思う」
「イチゴ、15歳の中学生の頃だな」
躊躇無くこう応えたら、横から妻がブーイング。
「それでは、この子達が生まれないじゃない!」
ハイ、仰る通りでございます。
あの子とスタート時点からやり直したかったとの解説は、口が裂けてもしてはいけないのだ。

「父さん、定年になったら仕事辞めるの?」
「仕事辞めたら、したいことあるの?」
息子達がそういって私を追及する。
「そうだな、まだ決めていない」
「できれば、一年ぐらい何もする事がない生活をしてみたい」
「その次は”革命”だな」

最後の一言は、聞こえないように独り言で言った。




■2008.08.19  night  管理人

今から丁度40年前、ハタチの誕生日の事は全く憶えていない。
八月の半ば、学科闘争委員会にバリケードに呼び戻された。
後ろ髪引かれる思いで故郷を離れた。
薄暗い教室、隅に敷かれたせんべい布団、夜明け前のお茶の水の坂道。
その時期、おぼろげに有る記憶はその位だ。

バリケード泊まり込み要員に事欠き、ノリの軽い私は呼び戻された訳だ。
私は今もかつてもパチンコも麻雀もしない、
その頃はウォークマンもなく、好きな音楽を聴いて過ごしたわけではない。
何をして過ごしたのか、それも全く記憶がない。
連夜の徹夜の見張り番、多分午後までせんべい布団で眠りこけていたのだろう。

帰り道

暗いバリケードから、あの子に出した手紙。
吹っ切れたと思い込んだ。
実のところは、吹っ切れたと自分に言い聞かせたかっただけなのだろうが。
その頃から半月後、初めてお縄になった9月初旬までは記憶が吹っ飛んでいる。
私の心象風景は、薄暗い教室、隅に敷かれたせんべい布団、夜明け前のお茶の水の坂道。
私のハタチの誕生日はきっときっと寂しく、薄暗かったのだろう。




■2008.08.12  morning  管理人

友は(あの子の)
余りの変貌振りに、私にこうメールしてきた。
「お前さんも会わないほうが良い」
会わなければ、脳裏に残った姿は40数年前のままだという。
会えば、否応なく現実の姿に直面するからだという。
自分の事をさて置いていて、それは大層失礼だと思うのだが。

友の有り難い忠告にこう書き送った
(原文は私のお国言葉、無理やり標準語に変換してますので、イントネーションが関西弁になってしもうて、かなりヘン)

どうこう言ってもお前さんは会えたからいい。
どんだけ変わっていようが、どう朽ちていようが会いたいものは会いたい!
会った後だからそう言えるんじゃ、
会う前はやっぱし、私と同じはずやわ。

18の春、私が東京に行ってそれっきり、
19の夏、会いたかったけんど会う勇気がなかった、
祭りが済んだ頃バリケードに帰った、
暗いバリケードで手紙を書いたんや、
お前さんのように「革命に命賭けてる・・・」とかまでは書かなかったけれど、
まあ、似たようなもんや。
返事来るわけ無い。
それが分かっていて出すから、ほんまアホや。

私の場合、そこで全部が止まったまんま、
だから、今まで引っ張るんや。
19の夏に総括したつもりやったけれど、やっぱ出来てない。
会わなかったら・・・・、
死んでも総括できんかもしれへん。

そういうことや。





■2008.08.10  night  管理人

体力というか、気力というか、東京からとんぼ返りしてから急激に萎えていた。
私なりに色々と仕掛けもしたし、一人盛り上がっていたので、若干の落ち込みも含めバイオリズムは底辺へ。
こう云う時はひたすら家事に励み、週末は出掛けず掃除、洗濯、草花の手入れ。
今朝は墓掃除に、腕が上がらなくてこの春は妻に頼んだので昨秋以来。
昨年からの積もった落ち葉がフカフカの腐葉土になり、墓所を覆っていた。

先日の品川での決起集会で、女の子(前後関係でこう呼ぶ)と名刺を交換したらメルアドが記されていた。
ミヨちゃんとその子に、集まって下さったお礼に、当夜に撮った写真を10枚ほど添付して送った。
勿論、私のHPのURLも最後に綴って。
ここがみそだ。
今までは、高校の同窓生にHPのURLを送ったことはない、私ながらに随分の変化だ。

女の子(還暦なのだが)からは、
>HP見ました
遠い 青春時代 ですね

ミヨちゃんからは
>日記?ブログ見ています。
関心しています。


二人から返事が届いた。

ミヨちゃんのことはこの2ケ月余り、好き放題に書いている。
今から遡り日記を訂正したい衝動に駆られているが、
私の中のもう一人の著作権者がこう云う。
「訂正、今更それはないよ、それなら端から書いてはいけないよ」
轟轟の批難を覚悟して神妙に待機しているが、
この数日は平穏無事だ。

静かなのが・・・・・、不気味なのだが。

 
 my favorite songs
  Softly My Love Annette Funicello




■2008.08.08  morning  管理人

「オ〜イ、こっちの席に来いよ!」
何度か呼ぶが、知らん振りを決め込んでいる。
彼女と並んですわり、身の上話などもう30分以上話し込んでいるのは私だ。
私が彼女の身の上を聞いても仕方ないのだ。

「今、羽田に着いた、これからそちら(品川)に向かうから」
元・北大全共闘の友人Aから電話が入ったのは決起集会開始の乾杯がすんだ後。
遅れてくる友人Aのため、かつて彼が”複雑”かつ”微妙”な交友関係にあったミっちゃんの隣の席を確保した。
「男はね、押しよ!、押さなければ何も決まらないのよ」
彼女の意味深な言葉、どう返事してよいのか?
やがて友が来たが、遠く離れた席に収まった。

三次会は日付を超えて新宿で。
全共闘一派だけの集会となった(とは言っても友人Aと二人だけだが)。
「**、有難う、やっと総括が出来た、本当に有難う」
「この30数年、胸にわだかまっていたものにケリが付いた」
ほとんど呂律が回らなくなった口で、友は何度も何度もそう言う。
酒の限界をとうに越した私は、ビールをちびりちびり舐めながら付き合った。


帰宅してから、ミヨちゃんの携帯メールが入った。
「ミっちゃんから昨日電話があって、(友人Aに)会えてよかったと言ってました」
書いたように、友は彼女と簡単な挨拶だけ、会話は殆ど交わしていない。
なのに・・・・
友は30数年の歳月を越して”総括”ができたと語り、
彼女は会えて良かったと言っているという。
還暦の私らには、若い方々とは違う男女の関係が有るようだ。

私は性悪な座興で再会をセッティングしたつもりなのだが、
どうやら裏目に出たようだ。



■2008.08.04  night  管理人

私の19歳の人生の境目って何処だったろうと考えた。
20歳とちょっとで初めてお縄になった、人生の出来事としては大きいがその時ではない。
1969年が明け、敗退戦が始まった頃、本当に辛かったがその頃でもない。

1968年夏、帰省していた実家にハガキが届いた。
丁度、当地の夏祭りが終わった頃だった。
差出人は学科闘争委員会。
バリケードがガラガラで守備がママらないから至急戦線に復帰せよ、との指令だった。

ハガキを受け取る数日前、
短大に進んだと聞いていたあの子に会いたくて、彼女の住む家の前まで行ったが、ドアを叩く勇気がなかった。
ウジウジしている内に件のハガキが届いたわけだ。
今、思うと、闘争委員会からの召喚が区切りとなった。
バリケードは何かを引き付ける力があったのだろうか、夏休みを謳歌する友人達と、彼女との再会を置いて東京へ向かった。
殆ど人気のない、薄暗い一号館バリケードに戻ったのは8月も半ばだったと憶えている。

バリケードに復帰した直後から、
薄暗い教室で、
お茶の水駅前の喫茶店で、
一号館前のアスファルトの上で、
ひたすら手紙を綴った
彼女への思慕を綴るのではなく、
闘争のこと、
置かれている状況、
自分の事だけをひたすら綴った。

きっとそれが私の19歳までの総括だったのだろう。
駿河台のポストに投函した時、
それが19歳の人生の境目だったのだろうと思う。
あの手紙、多分、あの子には迷惑千万以外の何物でもなかったとも思う、
今更だが、済まない気持ちで泣きそうだ。





■2008.08.04  morning  管理人

最近、たまにIE(インターネットエクスプローラ)でmyHPを開けると目茶遅い。
験しにと職場のパソコンでもやってみたがやはり遅い、時には一昔前のISDNレベルのスピード。
時には開きかけでフリーズしている。
職場と自宅では、ブロバイダーも通信回線も異なる、勿論、パソコンも異なる。
験しにFirefoxで開くと、自宅でも職場でも快適にサクサクと動く。
という事はプラウザ(ネット閲覧ソフト)のせいしか考えられない。

マイクロソフトは帝国を築いた。
ウインドウズとそれに無理やりセットされたIEは、帝国のフラッグ。
当然だが、帝国ゆえにあらゆる攻撃の対象となっている。
ガチガチに固めたセキュリティーで中身が緩慢になっているのでは。
私は物事を難しく考えないので、そういう風に捉えている。
と言う事で、私のHPの閲覧はFirefoxを推奨。

昨日、ミヨちゃんに携帯メールを打った。
先月29日の日記にも書いた、友人Aと”複雑”かつ”微妙”な友人関係にあったミっちゃんを決起集会に呼び出してもらう要請メール。
私としては、友人Aの”青春のノスタルジー”を弄び、還暦娘連合の孫と旦那の話に対抗しようという魂胆なのだ。

「はい、彼女は(面子に)入っています、現在、私を入れて(還暦娘は)次の8人になっていま〜す」
早速、名簿入りの返信メールが届いた。
しかしだ、話の端緒はミヨちゃんプラス四名だったのに、既に倍近くなっている。
挙げられた8名の名前の内、ミヨちゃん、ミっちゃんを含め4名までは認識できたが、やはり残り4名の名前に覚えが無い。

友人Aに参加の確認の電話を入れた。
「いいか、品川には這ってでも来いよ」
「???・・・、何故だ」
「いいから、どんな事があっても来る事だ!」
「絶対、楽しい仕掛けをしたから、楽しみにな」
事前に仕掛けがバレると、友は敵前逃亡する恐れがあるので、本当の事は言わないのだ。
私は性悪だわ。





■2008.08.03  night  管理人

1968年のこの時期、バリケードから一時帰省していた。
列車を乗り継ぎ、丸一日がかり。
親はまだ息子の素行を知らず、帰省前の仕送りには旅費がキチンと追加されていた。
特急列車という当時は贅沢な便に乗った帰省は、学生時代これが最後だった。
肩に提げたナップサックにはヘルメットを忍ばせ持ち帰った。

帰ると当地は夏祭り、祭囃子が響く喫茶店で自慢げにヘルメットを披露した。
まだその時は、19歳を境にしたそれ以前の付き合いが続いていたわけだ。
テーブルにヘルメットを置き、6月から有った事を熱っぽく話す、
学部集会の事、
デモの事、
機動隊の事、
バリケードの事、
右翼の襲撃の事、
僅か2ケ月程の体験だが、話す事は山ほどあった。
その時は、それから続くあんな時代が待ち受けているとは夢にも思わず、有頂天だった。

皆が肩を乗り出し聞いてくれたが、今度40数年振りに会う友だけは違った反応をした。
友は東北の国立大に進んだが、元々は防衛大を第一志望にしていた。
露骨な反論や批判こそされなかったが、私の話に距離を置いていることは十分に分かった。
それ以後会うことは無くなった。

その友とは、
学校を一緒に抜け出し、授業をさぼった、
体育祭の夜、悪友の下宿でウイスキーを飲み回し一緒に泥酔した、
別の組は発覚し飲酒で停学になったが、私等は運良く助かった。
フォークダンスの相手選び、内気な友の背中を押し、一緒に頼みに行ってやったな、
そう云えば女の子の下宿に、クリスマスプレゼントも一緒に届けに行ってやったな。
そう・・・・、語る楽しい思い出は人並に一杯有る。

今度の決起集会・・・・、違った首都圏の同窓会では、
日大闘争の話はしないでおこうと思っている。
それよりも、今度こそ”あの子”の情報を集めなくては。
還暦娘連合の情報ネットワークはあなどれないのだ。




■2008.07.29  night  管理人

還暦オヤジが2名増えて5名の予定になった、還暦娘と合計で12名。
「何かあると直ぐに塊、だから団塊は嫌いだ!」
何処からかソシリが聞こえてきそうだが。
これは立派な同窓会、違った決起集会になりそうだ。

プラス2名の一人は、札幌からわざわざ飛んでくる。
わが友では数少ない北の全共闘残党だ。
もう1名は、我が母校の学力レベルでは奇跡的な存在、有名私大の学長先生様だ。
とにかく、還暦娘7名に対抗するにはかなり負勢だが、今のところはこれで頑張るしかない。

しかし、敵には強力な武器がある。
孫の自慢に、旦那の悪口。
私等をおいそれとは青春のノスタルジーには浸らしてくれない。
だから、悪いけど禁じ手を使うことにした。
19日夜の日記の最後に書いた”ミッちゃん”を呼んでもらおう。
友人Aの目が点になるので、きっと盛り上がるだろう。



■2008.07.28  night  管理人

40年振りに連絡をとった高校の同窓生、
先だっての同窓会で聞いていた住所に電話した。
電話に出た奥さん、友は首都圏近郊に単身赴任しているという。
ならば、上京の際に会えるかもと思い電話をすることにした。

私が日大闘争に没頭していく傍ら、そして全国の大学に火の手が広がっていくなか、彼は我が道を歩んだ。
元々、学業優秀でスポーツ万能、防衛大と航空大を志望に選んでいた。
学科は難なくクリアーしたらしいが身体検査で引っかかったと聞いている。
鼓膜に先天的に小さな穴、ジェットパイロットを目指すには致命的だったらしい。
失意のうちにかどうかは知らないが、東北の国立大学に進んだ、
私が熱っぽく話す闘争のことを、距離を持って聞いていたのが胸に痛く残っている。
そんな経過で、私の方から疎遠になった。

恐る恐る、奥さんに教えてもらった携帯に電話した。
友の最初の言葉は、私の名前を呼び、
「会いたかったよ!」
涙もろいこの団塊オヤジ、それだけで返事は涙声になってしまった。

「たまたま、カミさんと二人でお前さんたちのテレビ観たんだ」
「再放送も、2回観た」
「一生懸命だったんだな」
「あんなんだとは知らなかった」
「イヤ〜・・・・・」と相槌打つだけで返事にならなかった。

友に”首都圏決起集会”の話をすると、何とか仕事の都合をつけて出てくると言う。
19歳を境にした、それ以前の人生とそれ以後の人生、
それ以前、少しだが、取り返せるかも知れないと思うようになった。


■2008.07.28  morning  管理人

「**くん、私達は7人です」
これ以上は可哀そうと言っていた割にはやってくれるではないか。
今度上京する際に、ミヨちゃんが同窓生を動員してくれると言う。
還暦娘が7名に増えたと言ってきた、これはどう評価をすればよいか。

高校生時代、私はクラスの人気者でもなかった。
成績が良かったわけでもない。
スポーツに秀でていたわけでも無い、
間違ってもジャニーズ系でもない、
全てが程々の普通の高校生。
よく言えば当時は屈託の無い、曲がっていな(かった)い性格が取り柄だったのかもしれないが。

この難局に対応するため、
首都圏近郊に単身赴任していると聞いている同窓生に、42年振りに連絡をとった。
勿論、男だ。
前後して、ミヨちゃんからも、
「一人、連絡つけたよ」
これで、順調に行けば還暦オヤジ3名、還暦娘7名、合計10名の首都圏決起集会となる。
残念だが、この7名の中にあの子はいない。


作業ズボンに虫除けの長袖シャツ、
禿げ頭の保護にキャップ。
早朝未明から、蚊取り線香を腰にぶら下げ庭作業。
生け垣の刈り込みは、今年は諦めた。
曲がった手では剪定ハサミが扱えない、
妻が、シルバーさんに頼めばと言うが、伸び放題に伸ばしておく事にした。
滝のように汗が流れる傍ら、
木陰で、クリスマスローズの二年苗が暑さに耐えている。





■2008.07.26  morning  管理人

週末、洗濯物の山が積みあがっている。
平和に関する懸念も課題だが、私にとってはこの洗濯物の山も緊急な解決課題なのだ。
未明から、もう何回洗濯機を回しただろう。
しかし、この課題、簡単に解決するから心地よい。

中学校から同じ高校に進んだ好きだった子。
こちらの意識過剰で距離の縮まぬ3年間、
進学して、それっきりになってしまった。
先だっての同窓会で42年ぶりに会えるかなと期待に胸ふくらませていたが。

上京してそれっきりという経過だが、実は一度だけ手紙を出した。
1968年の丁度夏の盛り、一号館バリケードで生活していた頃だ。
お茶の水駅前の大きな喫茶店、”丘”だったか”田園”だったか、名前は忘れた。
冷房の効いた座席で、何度も何度も書き直した。
バリケードに帰って、また何度も何度も書き直した。
差し出すまで一週間ほど迷った。
駿河台のポストの前でもまだ迷った。

思慕を綴ったのではない、
闘争の事、
バリケード生活のこと、
デモの事、
私のその時置かれていた様を切々と綴った。
その事が、その子に私の思いを伝えることができると信じて綴った。
最後に、「日大闘争勝利」と綴ったかどうかは憶えていない。

返事を一週間待った。
一月待った。
一年待った。

あれから40数回の夏が過ぎたが、まだ待っている。
あの時と同じように、蝉がうるさく鳴いている、
男なんて・・・・、無様なものだ。



■2008.07.23  morning  管理人

三連休と休み明けのマイカー通勤を挟み、通勤環境は一変していた。
向かいの席にあの子の姿が見えない。
車内は空き空き。
通勤路沿いの小学校の校庭から子供達の声が聞こえてこない。
夏休みに入ったのだ。


時折、話題は大学生の頃にも及んだ。
ミヨちゃんは、
「私はね、姉と同じ様に短大しか行かせてもらえなかったのよ」
「いいよね**くんは、行かせてもらってどうだった?」
そんなふうな事を言って、憤慨しているようだった。
私にそう言われても困るのだが。

「でもね、オイラは親の期待を裏切ってしまって」
「大学の後半は、親子の縁を切られたも同然の状態」
「好き放題やったように思われるけど、これでも結構苦労したんだぞ」
「まあ、自業自得と言えばそれまでだけど」
自分勝手に一方的に返答。

その時は旦那様もご一緒だったので、
その方面の詳細な内容は、殆ど云い及ばなかったが、
先日メールの返信に少し書き綴った。

あの時代、
大学は違ったが、同じ様な生き様をした高校の同窓生が数は少ないがいる。
「今更、それを云っても仕方ないし、俺は喋らない」
その友人達が異口同音に私にそう云う。

私もそう思って喋らず30数年生きてきた。
しかし、その縛りがここ数年プッツン切れている。
私は喋りたいのだ。
これは個別、私の特性だろうか、
それとも日大闘争、日大全共闘の特性だろうか。


■2008.07.22  night  管理人

今日は所用があってマイカーで出勤。
当然だが冷房はガンガン効かせて走る。
妻 →次男坊 →私 とお下がりしてきたこのミニカーにはエコドライブなんぞ関係ない。
職場に着き、デスクに座っても汗一つかいていない、
当然、帰路も汗をかかない。
やはり、これは体にいいわけないと思うようになったから、これは進歩だ。

「アッ・・・見ましたよ」、若い女性職員が横でクスッと笑う
JRの通勤は、駅から職場までかなりの早足で15分ほど。
扇風機を全開にしても、体中の汗腺が開き放っし。
先日は、あまりの火照りぶりに、ズボンを膝まで捲り上げ扇風機に当たっていた。
目ざとく、恥知らずなオジサンの生態を見られてしまったのだ。

「今のところ4人ぐらい動員掛けたけど、何ならもっと集めようか?!」
ミヨちゃんからそういうような連絡が入ってきた。
「でもね、**くん、この前かなり引いてたものね」
「五人がかりでも相当なものよ、これ以上は可哀相かも」
・・・・・私もそう思う。

先日、ミヨちゃん+2名の還暦娘のお相手をした。
三人が途切れなく替わり番こ機関銃の如く喋る、
ミヨちゃんに会えるとノコノコ出て行ったのに、還暦娘が三人だった。
元々、この全共闘敗残兵は寡黙で物静かなのだ(汗。

それにさ・・・・、
此処だけの話、
私がハイスクール時代の仲良しに求めるのは、青春の”ノスタルジー”だから。
機関銃のようなお喋りではないのだ。
オジサン族はそういう意味ではロマンチスト、昔を引きずるのだ。

今度の上京は恐ろしいことになりそうなのだ。


■2008.07.17  night  管理人

仲良しだったミヨちゃん、
人気者だったヨッちゃん、
頑張りやだったエミちゃん、
嫁のグチ、旦那の悪口、孫の話・・・・、三プラス一の談笑は延々と続いたのだ。

「男同士ではまず出ない話題だよ」
「男同士では、昔好きだった子の話がメインでさ・・・・」
「女は昔を振り返らないのよ!」
しかし、三人は機関銃のように喋る。
私は、42年ぶりに会ったミヨちゃんとゆっくり話したかったのに。

「俺さぁ・・、学生時代いろいろあって、今まで高校の同級生とはほとんど付き合いなかったけどさ」
「今日、久しぶりに会えて楽しかったよ」
「ミヨちゃん、昔とぜんぜん変わって無かったよ」
「今度、東京でゆっくり会えたらいいね」
帰りの電車の中で、ついさっき教えてもらったミヨちゃんの携帯にメールをした。

仲良しだったミヨちゃんが、法事で7月に帰ってくると先の同窓会で聞いていた。
今日の昼過ぎ、冒頭のエミちゃんに呼び出された。
42年ぶりのミヨちゃん+2との再会は4時間余りに及んだ。
しかし・・・・・・、
何度も言うが、私はミヨちゃんと話したかったのだ。




■2008.06.15  night    管理人

出張から帰ってくると、テーブルに紙包みが置いてある。
長男坊からの父の日のプレゼントだそうだ。
「ウヌ・・・、何だ?」
真っ赤なポロシャツが出てきた。
そうか、還暦の父の日か(笑。

「さすがにハデですね・・・」
「私が着ようかしら」
若干、引き気味になっていたら妻に横取りされそうになった。
「いいよ、真っ赤でも私が着るから」
これは私のだからあげない。

数ヶ月ぶりの同輩、
20年ぶりの先輩、
38年ぶりの同輩、
わずかの時間だったけれど、いずれも楽しい再会だった。

出張の間に届いていたものが二つ。
高校の同窓会の”公式記念写真”、
それとDellのパソコン。
一日設定に明け暮れた。




■2008.06.10  night    管理人

職場に電話が掛かってきた、**と名乗る女性だという。。
名前に聞き覚えは無いし、また、先物投資の電話勧誘かなといぶかりながら受話器を取った。
この歳になるといかがわしい電話の相手よりも、受けるこちらの方がしたたかになる。
相手をもてあそぶ位の応対を平気で出来るようになった。
ハイハイと言いながら受話器を耳に。

「**君、私よ私、(旧姓)**よ」
よく聞けば先日の同窓会で42年ぶりに会ったクラスメートの女の子(やはりこれで通す)。
渡した名刺で職場に電話してきたという。
「ミヨちゃんが帰ってくるって連絡が入ったの」
「**君、会いたいと言っていたでしょう」
断っておくが、日記でつらつら綴っている”あの子”の事ではない。
単に仲良しだったクラスメートの女の子(それでもこれで通す)の事。

「それでね、ミヨちゃん**日なら空いてて時間が取れると云うの」
「12時から3時まで時間取れる?」
件の指摘の日はバリバリの平日なのだ。
いくら定年間際といっても、平日に休みは簡単には取れない。
しばし返事に窮したが、相手の勢いの方が私より勝っていた。
「いいよ・・・、しかし懐かしいね」

これがあの子なら、仕事を辞してでも行くのだが、
オイラにはキューピッドは居ないようだ。





■2008.06.07  night    管理人

クラス毎に撮った写真が届いた。
参加者全員で撮った”公式写真”も申し込んでいるのだが、それはまだ届いていない。
前列中央にかつての担任の恩師(?)が写る。
「**くん、理工学部ならそりゃ〜日大だよ」
入学金を払い込む先を迷って相談したら、この恩師が迷わずそう勧めてくれた。



同窓会の前夜、皆で盛り上がった時、
「俺は明日、担任に42年ぶりに言いたいことが有る」
「先生は、日大があのような超〜右翼の大学とは一言も言ってくれなかった」
「もう一個受かっていた中大を勧めてくれたら、こんなに・・・・」
そう言って吼えていた。

随分と酒が入ってから、先生達のテーブルに向かった。
「先生、42年振りお懐かしいです」
「誰だったかな?」
そう言って名札を覗き込む。
「ああ、私のクラスか!」

先生に一人一人覚えておいて下さいと言ってもそれは無理な話、
毎年毎年、何十年と続いて教え子が生まれる訳だから。
「先生、その節はお世話になりました」
「先生のお蔭で、酷い目に会いました」
前夜は洒落も込めてこう言うつもりにしていた。

でも、とっさ口から出てきたのは、
「先生のお蔭でいい人生がおくれてこれました」
「ありがとうございました」
先生はニコニコしながら、私の注いだ酒を飲んだ。






■2008.06.06  night    管理人

カミさんの指摘は正しかった、さすがよく見ている。
この一週間ため息の連続、宴の後の落ち込みが続いている。
かつて、逃げ帰ってきて一年程自宅に篭ったのと比べると遥かに軽症なのだが。
浮かれ舞い上がるのは得意なのだが、上手に収拾出来ないのは相変わらずだ。

同窓会に出席していたクラスの女の子(60だけどこの際これで通す)から今日職場に電話があった。
お盆の時期にもう一度、クラス単位で同窓会をやり直せというのだ。
それでもって私にその段取りをせよとせがむ。
何故?と詰めると、どうやら彼女も好きだった同じクラスの”彼氏”に会えなかったようだ。

何十年も引っ張るのは”男”の特性だと思っていたのだが、どうやらアチラも同じ様だ。
其の彼氏は東北在住。
東京組みからその消息を聞いて、彼女に教えていたら”火”が付いたのだ。
私は還暦組のキューピッドをするつもりは無いが、
人事だと面白いのだ。
疲れるのだ。
闘争勝利!





■2008.06.04  morning  管理人

同窓会前夜祭、二年のクラスで盛り上がった。
東京組みの学長先生がなかなか来ないので電話した。
東京組みと文系クラスで、あちらも前夜祭を行っているとの事。
ならば・・・・、こういう場合の意思決定は早い。

夜の繁華街の路上、二つのグループが合流。
「**、昔と全然変わっていないな!」
学長先生が私の事を呼び捨てにするので、
「**、お前こそ変わっていないな!」
私の方も呼び捨て、これで42年前の17〜8歳に完全に戻った。

文系クラスの皆さん、お顔も名前も全然記憶が無い。
14クラス有ったので、文系と理系では当時も今も全く交流がない。
おっと、さすが文系、アチラには女の子(笑)がいる。
2倍に膨れ上がった集団で二次会へとなだれ込んだ。

文系の女の子に、そ〜と”あの子”の消息を尋ねた。
「どういう関係?」
当然、突込みが来る。
「いや〜中学からの同級生でね、好きだったんだ」
酒の席もあり、正直に告白したのだ。

そうすると、隣の隣の野郎が、
「俺は**さんが好きだったんだ」
すると、その隣の野郎も同じ様な事を言う。
女の子を挟んで、60のオヤジの女々しい未練話に花が咲いた。

「よし、それじゃ〜明日は”告白タイム”のスペシャルメニュー企画をやろう」
斜め前で聞いていた学長先生が乗ってきた、東京組の幹事をしており、同窓会本番の式進行係りだという。
「それはいい、それはいい・・・」
「そうだよな、もう42年だもの、何言っても差し障り無いよな」
私も今更、あの”時代”の話を友にする気はさらさら無いが、その告白ならいいかもと思った。
町田市在住という隣の席の女の子は笑いこけていた。

当然、当日は酒の席の話で”企画”は却下。
私はバリに篭城した時と同じぐらいの決意で”覚悟”を決めていたのに。
私としては大いに異議ありなのだ。
闘争勝利!





■2008.06.02  morning  管理人

「貴方、大丈夫?」
「落ち込んで鬱にならないでね」
朝、ベッドに座り込んでいたらそう声を掛けられた。

同窓会前夜の午後六時から、本番終了の午後六時まで24時間。
その間会場を変えること5回、延べ12時間飲んで騒いでいたのだから。
寝不足と二日酔いで立ち上がれないだけなのだが、
あれだけはしゃいでいたので、落差のある状態に心配したのだろう。

「俺な、学生の頃ちょっとやり過ぎてな、人生逸れてしまってよ」
42年ぶりに会った同窓生にそうボツリと云われた。
「ええッ、それって俺の決めセリフなのに」
心の中でそう云って、苦笑いしながら
「そうか、大変だったんだな、まあ飲もうや」
友は校歌斉唱で、涙ぐんでいた。

最後の5次会、同窓生が生業う酒店に集まった。
皆へべれけ。
「俺はな、**さんが好きだったんだ」
「ヘエ、あんな生意気なおかっぱの子が好きだったんだ」
「この野郎、**さんけなすとは許さん」
取っ組み合いながらじゃれあっている。
告白も、それもオイラの予定行動だったのに、先んじられた。

吼えまわっている友のあの子も、私のあの子も会場には現れなかった。
多分、もう一生会う事は無いだろう。
”未練”は、人生の味付けに必要だという事だ。





■2008.05.29  night  管理人

この歌は塀の外で唄われたのだろう。
宮澤君とそれと比ぶれば、語るに恥ずかしい程の経験だが、
塀の中、鉄格子窓から見上げた夜空、想ったのはやっぱりあの子のことだった。
カミさんと会うのはそれから4〜5年後だから、決して浮気ではない。

卒業でそれっきりになって、
うじうじしながら過ごした大学一年。
吹っ切れたように突っ走った二年。
そんな時期、塀のなかでい抱いたのがやっぱりあの子の事だった。

スーツ着て、ピシッと行こうか、
それとも、ジャケット羽織ってキザに行こうか、
それとも・・・・・・。、

もし、あの数年が無ければ・・・・





■2008.03.08  morning  管理人

未明に目が醒めた。
こんな時間に起床とは、いくら何でもと思う時間帯なのだが、
痛む節々のため、床に伏せ、横になっているのが辛くもあるのだ。
昨晩、帰宅すると高校の同期の同窓会の案内状が届いていた。

「貴方、是非行ったら」
この手の案内は今まで一貫して無視していたのだが、妻はそういう。
今の現状に不満があるわけではない、
自分の人生を悔い恥じている訳でもない、
私の場合、19の夏を境に人生が分断されている。
高校の思い出は”それ以前”であり、それ以後が私の全てのように今まで人生してきた。

しかし・・・・・、
少しというか、否、かなり心が揺れている。
体調を崩している事も有るのだろうが、
きっと、Jさんに観せてもらった青春物のDVDのせいだと思う。

”それ以前”の、40数年会っていないもう一人の”あの子”に会えるかも知れないと思った。
この日記で格好をつけても仕方ない、恥ずかしくも内心の本当の事を書いているのだ(笑。
とりあえず、”それ以前”のまともに卒業した高校の卒業アルバムを開いてみた。
勿論、あの子のクラスのページを最初に見る。

いいでしょう・・・・、もう還暦なのだから、
”以前”も”以後”も卒業しても。



■2004.5.2  night  管理人 wrote

昨晩BSで1960年代ビルボード全米ヒットヒャートNo1の2時間番組を見た。
1963年は中学3年生だった。
2学期の座席の並び替えで、好きな女の子と机が一緒になった。
リトル・ベギー・マーチの「アイル・フォロー・ヒム」を聞くと、中三の頃の甘酸っぱい記憶が蘇る。

Peggy March "I WILL FOLLOW HIM " (1963/7)

私立進学校への中学受験に失敗した私は公立中学に進んだ。
成績の良い子は進学校に抜けており、こんな私でも成績はクラスでトップだった。
毎晩パナソニックのトランジスタラジオでヒットチャートを聞く。
都会であればFENも聞けただろうが、私の田舎は電波が届かない。
夜、減衰を繰り返す、雑音だらけの日本放送を聞きかじっていた。
学校で、ヒットチャートの情報交換をする、そんなたわいも無い事が楽しくて仕方なかった。

今はどうか知らないが、私の時代は男女がくっつき机を並べていた。
休み時間や昼休み、席を立たずその女の子に数学や英語を教えたやった。
学校が楽しくて楽しくてたまらなかった・・・・。
日曜日も学校があればとこの頃は本当に思った。
冬休みは、後何日で学校が始まると指折り数えた。

ヘレン・シャピロの「悲しき片思い」大好きな曲だった。
クリスマス、その女の子からクリスマスカードをもらった。
卒業式の日、彼女がサインアルバムに「 I  Like You 」と書いてくれた。
片思いではなかった。


Helen Shapiro"悲しき片思い" Jeanie Sommer"OneBoy" Ronettes"BeMyBaby" Ann Margret"ByeByeBirdie"

彼女とは同じ公立高校に進んだが、この卒業アルバムがいけなかった。
それまで同性の友達のように仲が良かったのに、がぜん意識し始めた。
意識し始めると全てがぎこちなくなる。
片思いでないのに距離が縮まらない高校三年間だった。

1963年にヒットしたのは、カスケーズの「悲しき雨音」、ガス・バッカスの「恋は素早く」、ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」など。
私は東京、彼女は地元の短大へ、やがて日大闘争が始まりそれっきりになってしまった。
about forty years ago ・・・・・・

 


 

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