プロフィールその二 管理人別サイトに掲載のものを匿名にカスタマイズしてます

 性 別 
 
大学時代はロンゲで細身の為♀とよく間違われ、後ろ姿でナンパされ、前に回って舌打ちされ・・・、それでそちらの道に進んでいたら、ひょっとしたらブレイクしたかも。

 生年月 
昭和23年夏
狭義の団塊世代ド真ん中

 名 前 
下の名の漢字。 
父母は「訓読み」で名付けたが、一般的な読み方は「音読み」で訓読みは珍しい。
大学に進学すると周りの友人は「音読み」で、それがあだ名にもなった。帰郷し家族を持っても呼び名は「音読み」、最後は名付けた両親までも私の事を「音読み」」で呼んでいた(笑。
それで私の呼び名は19歳を境にし、訓読みは18歳までの友人、音読みは19歳以降の友人かに識別できる。

 最始学歴&余談 
昭和30年3月 公立女子大附属幼稚園。
この幼稚園、昭和30年代に廃園となっているが、当時は女子大キャンパス内に在り園長先生は女子大教授だったが、悲しい事に昭和19年開学の女子大沿革・歴史にこの幼稚園の存在を証する記録は何処にもない。
立地柄商店街の子女が多かった。
高校時代、隣の高校にとびっきり可愛い子 がいたが、商店街の帽子屋さんの子で幼稚園の同窓生だった。
また、サラリーマン時代、取引で面会したスポーツショップ営業女性♀も幼稚園の同窓生だった。
小学校一年と二年で仲良しだった「みどりちゃん」、4〜5年前に市内某所で喫茶店を営んでいることを知り訪れたが、さすがに60年前の事、最後まで思い出して頂けなかった、私は憶えていたのに・・・(泣。

 高校入学 
昭和39年4月 
入ると14クラスもありびっくらこいたが、時計台は眩しかった。

 所属クラブ 
帰宅クラブ 
幼稚園から現在まで、人生一貫して帰宅クラブ所属。

 当時の趣味 
ビートルズ命
下手なギターかき鳴らしてました、今は次男坊が置いてったギターを大騒音で時折鳴らしてます。

 成績&余談
 
一年次:言うのを憚るが実は言いたい、学年トップクラス!、
二年次:ほどほど中程、
三年次:下から数えたほうが早かった・・・・
尻上がりに成績上げる者が必ずいる反面、それは私が居ないと叶わない訳です。
因みに、三年間の平均値を取れば学年の真ん中、良くも悪くもないのです。何故なら尻上がりのこの逆パターンも三年間の平均値は同じなのですが、事が受験というカテゴリーでは尻下がりは”致命的”なのだす。
現役の生徒さん、そこんとこの肝をよく心に刻んでくださいね。

 大学進学希望 
一年次始:東京工大(旺文社模試で合格圏内にいた)、
二年次始:名古屋工大、
三年次始:九州工大(何故か東京から徐々に離れていった)、
卒業時:当時合格(だと思う)圏内で室蘭工業大学ってのもあったが極北の地は想定外、意地でも東京、理系なら何処でも。

 彼女歴 
皆無 
三年間ひたすら片思い(団塊世代はこれがスタンダードです)、
但し三年次に一年生♀からフォークダンス申し込まれたことが唯一の慰み、その一年生が可愛かったかどうかは既に記憶にないが、可愛かった事にしておく。

 非行歴
公式には無し、
但し体育祭後同級生下宿で酒盛りパーティ、人並に早弁、腐れ縁で未だに友人のA君と授業サボり塀乗越え脱出幾度も、中華屋さんの昼飯ラーメンは実に美味かった。

 修学旅行 
関東方面
この時非行で停学の為行けない者多数だったが、運良くそれは免れた。箱根小湧園のラウンジで当時田舎の高校生には珍しいジュークボックスでツイストダンス踊ったのが一番の思い出。

 予餞会 
何かの劇で、隣の女子高セーラー服の制服で女装しビートルズのDizzy Miss Lizzyの曲でGOGOダンスを踊った。これが悲しい事に殆ど受けなかった。この時の女装、これ以後決して「癖」になっていないのでこれははっきりしておく。そのセーラー服、誰に借りたか既に忘れた。

 高校卒業 
ダブらず昭和42年三月、非公式情報によると入学時750名が卒業時680名?
この入学時と卒業時の生徒数の差、同窓会幹事で名簿を精査する過程で色々調べた推論をまとめてみました。
70名は何処へ行ったのか?

 大学時代&余談 
色々・・・・ここには書けない(書いてますが)事ばかり、あの時代ですから、分かっ〜りますか?
分かる方とは一度ゆっくり話してみたいですね。
まぁ〜、ドンパチは置いといて何とか話せるおバカな思い出は、バイト帰り渋谷駅ホームの渋谷パルコのポスター剥がし貰って帰ろうとしたら(窃盗ですが、汗)鉄道公安官に補足されまして、その際若気の至りで若干抵抗を試みたので性質が悪いと駅前の渋谷交番に突き出されました。何とかその日に帰して頂きましたがその際「あんたらは国電を三分止めた、損害は一分二百万円」だと恫喝され縮みあがった思い出、唯一楽しい事は一年生のとき東京家政大生(勿論♀)と奥多摩に合ハイに行った思い出。

 その後&余談 
そういう事で諸般の事情で大学は五年掛けて卒業、
フリーター後帰郷し就職、当時は私なんぞでも履歴を隠しなんとかもぐり込める、社会に隙間のあるいい時代でした、返して今の世の中大変です。
私が理系という理由だけで51歳の時、社内で強制的に80時間(4h/日×20日)のWEB講習を受講させられ気が狂いそうになる、講師は私の子供より若い♀でした。
この時サイト制作の基礎のHTMLを学び、その後、初老の私は会社HPのサイト管理も任されまたまた発狂しそうに、WEBなんて若いもんのする事です、企業は非情、投資はきっちり回収するのです。
ひたすら平凡なサラリーマンを営み61歳で定年退職、直後、全くの異業種の公益社団法人に再就職し67歳まで就労。
65歳の時、何を間違ったのか高校の同期同窓会の発起人代表で代表幹事に。
片思いだった女子に卒業式以来47年振りに同窓会で再会を果たす、万歳!(幹事就任の理由はこれだったのか)
それで、受付け名簿で出席は確認したが、♀の見分けが付かなかった・・・・・・。

 所在&余談 
大学時代の5年+αを除きひたすら地元在住。
高校一年次は汽車通、列車はSL(蒸気機関車)でした、本当ですよ。
二年からは主に路面電車で通学、
三年の時バイク免許(125cc)を取りカブで何回か通学、勿論校則違反ですので近くに隠して登校、ヤッターでしたね。このバイク免許、自動車免許を取得すると自動的に自動二輪免許に昇格、そういう事で私は無制限のバイク免許持ちですが、悲しいかな育ちが良いのか51cc以上は怖くて、暴走族の道には進みませんでした。

進学し上京した東京の最初の一年間は世田谷の桜上水、下宿の前は畑が広がりヒバリがピーピー鳴いてました。
二年以降は高円寺、阿佐ケ谷、荻窪と一貫して中央線沿線族、阿佐ケ谷の喫茶ポエムに通い出したのは二十歳の春でした。
馴染み客には漫画家の永島慎二さん、マスターは高知出身の山之内さん。某ポエム店で店員さんにこの話を得意げにしたら「浮いて」しまいました、もう50年程前の事ですから。

 今の高校時代の友人
 
北大卒が鼻につくが腐れ縁のA君、偶に押しかけるホントは偉い人なのに偉らそ〜にしない元大学学長先生M君

 それで最後の一言 
とにかく高校三年間は楽しかった・・・・が、
今の生徒さん、くれぐれもこの先輩を見習ってはいかんぞね




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